「それ、前に来た時はかけてなかったよね」
俺はその言葉に、どう返事をしていいか分からず、カウンターの中に突っ立ったまま、咄嗟に作り笑いを浮かべた。
俺は目の前に立つ男が、自分が通う大学で臨床医学の教授をしている人だと気がついていたし、向こうも俺が顔見知りの生徒であることを分かっているのだろう。整った顔の中で、優しげな目元が俺をじっと見つめている。その視線にどこか脅迫めいたものを感じるのは、悪いことをしている自覚が俺にあるからなのかもそれない。
彼の言う「それ」は、俺が顔にかけている黒縁の眼鏡のことを指しているはずだ。300円均一の店で買った、度の入っていない伊達眼鏡。両目とも2.0なうえに、ファッションにも興味が無い俺がこれをかけるのは、このバイト先に来る時だけだった。
俺は不恰好な笑みを貼り付けたまま、改めて自分のバイト先である店内を見渡した。そこかしこに吊り下げられた、女性の裸を印刷した広告。けばけばしい色合いをしたDVDのパッケージ。「受付嬢」「おもちゃ」「マッサージ」という言葉で区分けされた棚。どこからどう見ても、大学生がバイトするには明らかに不適切なアダルトビデオ屋だ。
俺は彼を見つめ返したまま、手探りでカウンターの内側に備え付けられたブザーに触れた。それを押せば、店長の言う「こわいお兄さん達」がここに飛んできてくれるはずだった。しかしそれは、警察やら反社の人やらが来た時に使うべき物で、この状況でそれは当てはまらないのだろう。
「別に、警察とかに言いつけるつもりは無いよ」
俺の心を読んだのか、薄く笑みを浮かべたまま彼が言う。普段であれば人当たりが良さそうに見えるその笑顔が、今はひどく不気味なものに見えた。
「君は18歳を超えてるし、こういう場所で働くことのリスクを、自分で判断できる年頃だろう。まさか、無理やりここで働かされてるわけじゃないよね」
「いえ……」
俺が絞り出すようにしてやっとそれだけ返答すると、彼はやはり笑顔を浮かべたまま「なら、いいんだ」と言った。
「一応言っておくけど、この店が営業停止だかになったとして、俺には何の得も無いんだよ。だって、俺も客なんだからね」
にこやかにそう言いながら、彼が返却袋から取り出したDVDを見て、自分の頬がこわばるのが分かった。ほとんど全裸に近い格好の、あどけない顔をした青年が印刷されたパッケージには「バイト帰りに即ハメ!今ドキ男子大学生!」という煽り文句が掲げられている。以前、彼が初めてここへ来店した時に、借りていったDVDだ。その時のことを、今でもよく覚えている。
自動ドアが開いて、反射的に「いらっしゃいませ」と言った時、俺はお客さんが顔見知りの教授であることに気がついていなかった。もし分かっていたなら、気づかれる前にバックヤードに逃げ込んでいただろう。彼の目がカウンター内に居る俺に吸い寄せられた時、心臓が凍りつくかと思ったくらいだ。
俺は万が一にも、彼が俺の正体に気がついていない可能性を期待していた。彼が商品を手に取ってレジまで来ても、特別こちらへ話しかける気配が無かったために、もしかして本当に気が付いていないのかと馬鹿げた期待を持ちかけていた。しかし、その安堵も一瞬で終わった。彼が差し出したのが男子大学生モノのDVDであることに気がついた時、俺はこれ以上ないほどに顔面蒼白になっていただろう。その日のバイトの帰り、俺はショッピングモールに駆け込んで伊達眼鏡を購入したのだった。
「面白かったよ。今度君も見てみたら?」
俺が返却処理を済ませている間、彼は世間話でもしているような声色でそう言った。
「遠慮しておきます」
そう返した自分の声がひどく冷ややかで、それがむしろ情けなさを強調している事実が、恥ずかしくて堪らなかった。