らんゆか(東方)

 廃墟の奥へ進もうとした紫の足元に、行く手を阻むようにして長針が突き刺さった。大陸でよく見かけるような、人の前腕ほどの長さのあるものだ。彼女はどこか興味深そうにそれを眺めた後、さして怯えた風もなく、ゆっくりと後ろを振り返った。
「なあに、藍」
 あと一歩でも前にいたら、足を貫かれていたとは思えない声であった。開け放たれた入り口から中へ入ってこようとする人影がある。外の陽光に反して、中は閉め切られており暗い。そのせいで、扉をくぐった途端にその人影──藍の顔に濃く影がかかった。
「出過ぎたこととは思いますが、紫様を止めに参りました」
「お説教でもするつもりなの」
「最近の行動は流石に目に余ります」
 藍は家の奥を一瞥した後に、「ここに棲みついている妖物は、今まさに霊夢が退治しているところでしょう」と言った。
「そうね」
「今の紫様の顔は、手を貸しに行くというよりも物見遊山しに行くようにしか見えません」
「あら、心外」
「面白半分に妖怪退治を見物に行くのはやめていただきたいです」
「それの何がいけないのかしら」
「紫様は一応こちら側の者なのですから、ほかの妖怪たちの立場がありません。それに──」
「それに?」
「橙の教育に悪いです」
「それはそうね」
 最後の台詞に関してだけ、紫はあっさりと納得してみせた。しかしだからといって、野次馬を諦める気もないらしい。ほんの一瞬、見つめあうだけの時間が過ぎた。彼女なりに隙を窺ったつもりなのか、ふっと廃墟の奥へと向きなおろうとした瞬間に、何か薄青いものが風のように飛んできた。
 咄嗟に上体を引く。それでも間に合わなかった。飛来してきたものは、鎖骨から胸にかけての布地を裂いた。薄暗い中で、白い肌がとろけるように露になる。隙間から僅かに覗いた肌は、藍の目を吸いつかせた。
 普段なら服に隠れているはずの、藍の片手が見えていた。獣の爪を携えた手だ。中華服を思わせる、たっぷりとした袖が片手の方だけ千切れている。あの飛んできた薄青いものは、それに違いなかった。
「避けたとお思いですか?」
 服を裂いたのは、袖ではなく自分の手であるかのように、藍はねっとりと手の甲を舐めた。
「わざと外しました。次は当てます」
 紫を見る視線に、執拗なものが混じり始めていた。こちらも千年は生きた獣だ。主人相手とはいえ、慢心しているとは言えないものがある。
「怖いわ、藍」
 後ろ手に壁に触れながら、紫が後ずさる。顔には微笑が浮かんでいたが、見る者によっては怯えから来るこわばった笑みにも見えただろう。じりじりと寄る藍の顔に、嗜虐めいたものが帯びつつあった。
 一歩、二歩、藍が歩みを進める。紫が動く気配のないのを見て、一気にその距離を詰めた。ほとんど同時に、紫の繊手が振り上げられる。藍が絶叫した。焼きごてを押し当てられたかのように、強烈な熱がその顔を突然覆ったのだ。火をつけられたのかと思い、顔を手で掻きむしる。熱は弱まることなく、何かが生き物のように顔に張りついていると気づいた。急いでそれを剥がす。つまんだ指も焼け爛れた。見ると、それは博麗神社の印字がされたお札だった。妖怪には猛毒より辛いだろう。
 藍が紫を見る。主の指先に、二枚目の札が挟まれていた。
「気を抜いたわね」
 背後の壁に、ほんの小さなスキマの切れ目ができていた。さっき後ずさった瞬間に、後ろ手で隠しながら作ったに違いない。そこからお札を取り出す姿まで、容易に想像できた。
「それじゃあ、九尾の狐も形無しね」
「まだ、かすり傷ですよ」
 藍の顔面を、羽虫が這いまわるような感覚が覆う。焼けた肌が急速に再生しつつあるのだ。紫が二枚目を構える。どう動くべきか、と藍が思案した直後、建物の奥から入口に向かって、赤黒い光線が家屋を貫いた。
 二人がほぼ同時に避ける。何かがなぎ倒される音を背後に、砂埃の中から博麗の巫女が現れた。奥にいるはずの妖物はすでに倒したのだろうか。二人がいることは予想外だったらしく、霊夢がやや眉を持ち上げながら両者の顔を見比べる。
「なに、遊んでんの」
 そして紫の手にある札を見て、アッと声を上げた。
「あんた、うちからパクったわね」
 ほほほ、と札ごと口元を手で覆って、紫が笑った。
「いやですわ。あなたのところの黒魔女じゃあるまいし……」
 そこで言葉を切って「あれは片づけたのかしら」と家の奥を指し示す。すると、霊夢はふいに真面目な顔になって「しくじった」と答えた。
「え」
「逃げるわよ」
 そう言って、家の外へと真っ先に飛んでいった。霊夢がやって来た方向から、家が次々に倒壊していくのが見える。そこでうごめいているモノの影も。そこでようやく、さっきの光線は霊夢が放ったものではないことに気がついた。
 紫が足元にスキマを切り開いて、そこに飛び込む。藍も霊夢の後を追うように外に飛び出した。逃げる直前、スキマから飛び出た手が、砂埃の奥に向かって札を放ったのが視界の端で分かった。