「おや」
美空が声を上げる。彼の視線の先へ文成が目をやると、マンションの物陰から一匹の猫が現れるところだった。
このマンションの中には、美空の事務所が置かれている。そこへ行く途中で美空と出会い、二人一緒にマンションに向かっている際中であった。
猫は、一目で野良猫と分かる見た目をしていた。全体的に見すぼらしく、長い毛並みが皮脂や汚れでしっとりと濡れて束になっている。目の周りには目やにのようなものが溜まっていた。しかしそれでも、ある種の愛くるしさのような、愛嬌のようなものがその猫にはあった。
「知り合いか?」
文成はそう言った。もちろん冗談である。美空が先ほど上げた声に、親しみのようなものが込められていた故の言葉だった。
「まあ、顔見知りではありますね」
「へえ」
「絶倫って呼ばれてるんですよ、彼女」
ひどい名前であった。「すぐに妊娠するのが由来みたいです」と美空は言ったが、確かによく見ると、雌猫の腹は今も膨れているようだった。
絶倫は、二人を見ても逃げ出す様子はなかった。マンションの影に座り込むと、その場で毛繕いを始めた。その仕草の中に、二人が餌をくれやしないかと期待しているような、卑しいものが含まれているように思えた。
「ああやってすぐ孕む割には、子猫を見かけたことが無いんですけどね」
「産まれてもすぐ死んでるんだろうよ」
「そうかもしれません」
残酷なことをさらりと言ってみせる。この二人はこういう人間だった。流産したのだろう、と言わないだけマシかもしれない。
「しかし、死体の方も見かけませんからね。カラスの餌になってるんでしょうか」
「あいつが食ってるんじゃないのか」
美空が文成の顔を見た。いつもの微笑を称えた顔でじっと見つめる。文成は「何だよ」と言った。
「あいつとは母猫のことですかね」
「別に、変なことでもないだろ」
「餌はよく貰ってるみたいですよ」
飢えていないのだから、そんなことをする理由が無いと言いたいらしい。しかしそれは関係ないだろう、と文成は内心思う。
もし、自分が埋葬や火葬の知識が無い獣だったとして、産まれた子供が死んでしまったら、そうするかもしれないとぼんやり思った。
彼の頭の中を、いつか目にした久美子の姿がよぎった。腹を裂かれ、中に”居た”ものを取り出された挙句、文成に肉を喰われたあの姿が。
同時に、とある想像が頭に浮かび上がった。今目の前にいる美空が、頭から血を流し、地に倒れ伏している姿だ。血の赤に反して、肌は青白く血色が無い。もう助からないだろうと分かる。彼の死体を前にして、どんな行動を自分は取るだろう。高野山に明け渡すのだろうか。それとも……。
「行きますよ」
美空の声に文成は我に返った。美空は猫への興味をとっくに失っているらしかった。