夜遅くなっても賢者様が部屋に来ないので、こちらから迎えにいくことにした。特別時間を決めて待ち合わせしているわけではないけれど、それでもだいたい同じ時間に賢者様は俺の部屋を訪れる。まさかとは思うが、ベッドの上で突然死なんかしている可能性もある。人間というものがどれほどに脆く弱々しい生き物なのか、ここ半年で嫌というほど見せつけられてきただけに、そんな心配が頭をよぎった。
呪文を唱えて、扉を生成する。誘拐か何かをされて、魔法舎の外を彷徨っている可能性も考えながら、手始めに賢者様の部屋へ行った。すると、呆気ないことに目当ての存在はきちんとそこに居た。
照明のつけられていない部屋の中で、カーテンを開けたままの窓から、厄災と星の僅かな光が降り注いでいる。夜の薄青い色に染まった室内の隅で、賢者様はベッドの上で眠っていた。なんだ、と思うのと同時に、ほんの少しだけ安堵する。ほとんどあり得ないとは思いつつも、危険な目に遭っている可能性を捨てきれていなかったからだ。上着とベストだけが無造作に椅子の背にかけられていて、それ以外は昼間着ていた格好のまま、ベッドに横たわっている。この様子だと、疲れていつのまにか眠っていたのだろう。
ベッドの中を覗き込んで、賢者様の寝顔を観察する。一切の表情が抜け落ちた姿は、彫像よりも生命を感じられない。絵画や彫像なんかは、たとえそれそのものに表情が無くても、それを作った人間の意思や怨念のようなものが時々感じられるが、この寝顔にはそれすら無く、本当に生きていないようにさえ見える。賢者様の生きている姿ばかり目にしてきたから、なんだかひどく奇妙に見えて、しばらくその寝顔を見つめ続けた。
それからどれくらい経っただろうか。浅い呼吸を繰り返すばかりだった顔が、ふいにしかめられる。眉を寄せ、目元に力が加わったかと思うと、両手で目を擦り始めた。赤ん坊を思わせるその仕草の後、ぴったりと閉じられていた両目がゆっくりと持ち上がった。まっすぐに生え揃ったまつげが揺れて、その奥の眼球が現れる。薄く涙の膜が張った目玉は、暗闇の中で淡くつややかに光っている。その涙の膜がほどけたかと思うと、下まつげにじんわりと染み込んだらしい。まつげのいくつかが濡れて束になって、なんだかそれが不思議と愛おしかった。
数回瞬きをすると、賢者様はのっそりと体を起こした。空中をしばらく見つめていたかと思うと、ぐるんと首が動いてこちらを向いた。俺と目があった瞬間に、焦点の合っていない瞳が揺らめいた。脱力していた体の一部分に、強張るようにして力が加わるのが見ているだけで分かる。
「……ミスラ?」
「はい」
俺の返事を聞いて、部屋を見渡して、それでも寝起きの頭はまだうまく働かないようで、薄ぼんやりとした声が返ってきた。
「……あそびにきたんですか?」
「まあ、そんな感じです」
あなたが俺のところに来るのを忘れていたから、迎えに来たんですよって、事実を突きつけても良かったけれど、そういう気分ではなかった。もう少しこの無防備な賢者様を眺めていたかったのだ。
賢者様に近寄って、正面に立つ。俺が見下ろすのを賢者様は不思議そうに見上げていて、その知性の感じられない表情に俺は胸がざわついた。
眠っていたせいか、薄青のシャツはくしゃくしゃになっていて、そのせいかシャツの奥にある賢者様の肌が、いつも以上に柔らかそうに見える。きっと触れたらもちもちとして、少し強く握れば真っ赤な痕が残るのだろう。俺のよりずっと細い首には、寝汗のためか乱れた髪が数本張り付いている。肌の表面には甘そうな汗がうすく浮かんでいて、たった今賢者様を抱きしめたら腕の中で溶けそうなほど熱いのだろうと思った。
そう思った途端に、体の内側からマグマが溢れ出していくような、奇妙な昂りを感じた。その衝動のままに、賢者様へ覆い被さる。本当は、ベッドに腰掛けて、それから抱き寄せた方がスムーズだろうとわかっていたのに、何故かそれが出来なかった。
まず鼻先が賢者様の鎖骨にぶつかって、予想通り甘酸っぱい汗の匂いと、賢者様の匂いが混じり合った生温かい空気が俺の顔を包んだ。それを肺いっぱいに吸い込みながら、賢者様の体ごとベッドに倒れ込んだ。互いの足と足がもつれ合って、服に爪が引っかかる。魔法で衝撃を薄くしてあげたおかげで、賢者様は押し倒されても尚、体をくったりとさせている。それはもう少しだけ賢者様の体を楽しめることを意味していた。
まだ風呂に入っていない賢者様の体は、いつもより汗の匂いが濃い。今日1日中、この人の肌とシャツの間に閉じ込められていた匂いなのかと思うと、あまりにも堪らなかった。その匂いを嗅ぎながら、賢者様のあちこちに触れていく。柔らかい手のひらや、汗ばんだ首筋や、肉付きの良い太ももなんかの感触を楽しむ。それらに触れていると、この人が眠るベッドがこんな貧相なもので良いのかと思ってしまう。こんなに柔らかくて、腐り落ちる寸前の膨れきった果物みたいな体なら、もっと上等な布や綿をいっぱいに敷き詰めたベッドの方が良いだろうに。
賢者様が眠たげに身を捩ったので、視界を埋め尽くす柔い首筋も、それに合わせて肌をくねらせる。どこか官能的な仕草に、堪らなくなってそこに唇を押し当てて吸いついた。小さな音が鳴った後に口を離すと、そこには青紫色のあざのようなものが残っていた。俺が暴いた証拠みたいで気持ち良くなったけど、きっと数日しないうちにこれは消えるのだろう。
この人が、俺の物だって分かるような証拠があればいいのにと思った。そんなものがあれば、俺はすぐにでもこの人の全身に、手足にもヘソの下にも口の中にもその証拠を残しただろう。そうして、俺以外の全員に見せつけるように、魔法舎中をねり歩かせたはずだ。でも、きっと、そんなものが存在しないからこそ、この人は今もこうして、清らかな肌をしているのだ。
俺は体を起こして、再度賢者様の顔を見下ろした。また眠気がやって来たのか、賢者様は目を閉じて脱力しきっている。誰の目にも分かるように、この人を俺のものにしたいと思った。けれど、それはきっと「壊す」と同義のことのはずで、もしそうなった時に壊れたままでも俺のことを好きな賢者様でいて欲しいと願った。