取るに足らない寓話

僕のおうちは、他のみんなよりも少し遠いところにあるから、いつも帰り道の途中でお友達とお別れする。何度も振り返ってはバイバイして、お友達が豆粒みたいな大きさになってもバイバイして、曲がり角を曲がってしまったら、本当に一人きりになってしまう。
お喋りする相手も、手を繋ぐ相手もいないのは、何だかとても寂しい。仕方がないので、道に咲いてるお花とか、空の雲とかを眺めながら、一人でおうちまで帰る。
こんな風に一人ぼっちでいるのが僕はすごく苦手だけど、お母さんが言うには、大人は嫌でも一人ぼっちにならなきゃいけない時があるらしい。例えば、お仕事のために、友達も家族も居なくて何があるのかもわからない、言葉も通じないずっと遠い場所に一人で引っ越さなきゃいけない大人も居る。もし自分がそんな風になったら、すごく怖くて寂しいだろうから、それなら大人になんかなりたくないって思ってしまった。
背中のランドセルがすごく重くなった気がして、僕は猫背になって俯きながら歩いた。おうちは全然見えてこなくて、まだまだ一人ぼっちで歩かなきゃいけないのがとても寂しかった。そんな時に、後ろからとても低い声で名前を呼ばれた。
「あきら」
びっくりして、すぐに後ろを振り返った。もしかして、お友達が追いかけてきてくれたのかなって思ったけど、そんなことはなかった。
僕の後ろに居たのは、すごく背の高い男の人だった。僕やお友達とは全然違う、真っ赤な髪と、ミルク色の肌をしていた。びっくりするくらい小さな顔をしていて、その中でみどり色をした目が、白い肌の上ですごくきれいに見えた。手足が長くて、顔が小さくて、まつ毛が長くて目が大きいから、僕は女の子が持ってるリカちゃん人形とか、バービー人形を思い出してしまった。
そのお人形みたいな男の人が、僕の目をじっと見て、一歩近づいてこう言った。
「会いたかったです」
僕は困ってしまった。だって、僕はこの男の人を全然知らない。知らない人とは喋っちゃいけないってお母さんに言われてたけど、返事をしなかったらこの人の長い手とか足でひどいことをされそうな気がして、でも何を言えば良いのか分からないから、僕は挨拶をしてみた。
「こんにちは」
それを聞いて、男の人は目を綺麗な三日月型にして笑った。男の人がすぐ近くまで来ると、僕の体は男の人の影にすっぽり包まれてしまう。その人はぐにゃりと背を丸めると両手で僕のほっぺをつまんで、「随分下ぶくれの顔になりましたねえ」って言った。
僕はすごく怖くなった。はじめましての筈なのに、まるでお友達みたいに僕に話しかけるから、どうすればいいか分からなくなった。
「家まで送りますよ」
「おくる?」
「一緒に行こうって言ってるんです」
そう言って手を差し出すので、僕は反射的に手を繋いでしまった。だって、お家でも学校でも、大人の人に手を繋いでもらうのは毎日のことだったから。
ぎゅ、って手を握り返される。その人の手は、まるで雪みたいに冷たくて、それなのに柔らかくなくてすごく硬い。棒のアイスがいっぱいある中に手を入れたみたいな感触だった。
「あなた、この時から手が温かいんですね」
男の人はそう言って、僕の手を強く握ったりゆるく握ったりした。そんな風に触られたことがなかったから、僕はなんだか切なくなって、長い指の中で膨らんだり縮んだりしてる自分の手を見ながらもじもじしてしまった。
ふいに、男の人が僕の前に屈み込んだ。さっきよりずっと近くに綺麗な顔があって、嘘みたいに綺麗なその顔は、蝋燭のろうみたいな肌のせいもあって、生き物じゃなくてお面とかお人形みたいに見えた。近づいたせいか、男の人の匂いがふいに鼻をかすめた。甘いようで苦い、綺麗な男の人しか付けちゃいけない香水みたいな匂いがする。
男の人は、何も喋らないまま、すごく優しそうに笑った顔で僕をじっと見つめた。僕も同じようにみどり色の目を見つめ返した。すると、綺麗な形をした唇がゆっくりと開いて、真っ赤な口が僕の前に現れる。まるでワニみたいに大きく開けられた口の中の、白い奥歯まではっきり見えるくらいにまでなった時、握られていた僕の手の人差し指が口の中に無理やり入れられた。
「あ……」
僕の指に、生温かい息がいっぱいかかる。それだけで鳥肌が立って、全身がぞわぞわして、逃げ出したいのに逃げられなくて、綺麗な唇が閉じたかと思うと、僕の指が熱くてぬるぬるした口の中に閉じ込められてしまった。
その口の中は、雪みたいな手と全然違って、まるで火みたいに熱く燃えていた。その中で、僕の指はぬるぬるした舌にくっつかれて、すごく変な感じだった。
その舌が、まるでナメクジみたいに僕の指をゆっくりとなぞる。指の根元から爪先まで舐めて、また根元に戻っていく。舌は溶けるみたいに柔らかいのに、指に触れてる境目が電流が走ったみたいにビリビリする。
なんだかすごく気持ちよくて、おしっこをしてる時みたいな感じがして、僕は口を閉じていられなくなった。その間も、男の人はうっすら笑ったまま、僕と見つめ合っている。もしかしたら、人間に捕まえられたちょうちょは、こんな気持ちなのかなって思った。
人差し指がよだれでびしょびしょになると、男の人はおしゃぶりみたいに指に吸いついたまま、少しずつ指を外へ抜いていった。飲み込まれるみたいに口の中へ強く引っ張られるのに、それとは反対の方向に指が引き抜かれていく。僕はその間、頭の中が全部ぬるいゼリーになったような、この人に全部めちゃくちゃにされてるみたいな気持ちになった。
人差し指が全部外に出て、別の指を男の人がまた咥えようとした時、僕は堪らなくなって声を上げた。
「……ゃ、やだ……」
「……?嫌なんですか?」
すると、男の人は目を丸くして、それからあっさりと、僕の手を解放した。僕はほっとするより先に、何故かすごく残念な気持ちになった。この人が、僕が嫌がっても手を舐め続けてくれるのを、どうしてか期待してしまった。久しぶりに自由になった手の中で、人差し指だけが僕のものじゃなくなったみたいにびしょびしょになっていた。
「……でも、大人になったあなたは、俺にこうされると喜ぶんですよ」
男の人はそう囁くと、立ち上がって、僕と手を繋ぎ直した。ベトベトになったまま手を繋いだので、二人の手の間で、唾液がじんわり手に染み込んでいくような気がした。「家に行きましょう」ってさっきのことが無かったみたいに話すので、僕が混乱しながらも言う通りにした。
歩きながら、男の人は自分のことをたくさん話した。毎日が退屈だとか、うるさい人がいるとか、誰々にまだ勝てないとか、そういうことを喋っていた。ふつう、大人が僕に話すのは、学校は楽しいかとか、テストは難しいかとか、僕への質問ばかりだから、すごく新鮮だった。話してる内容の半分も理解できないけど、僕はこの人のために頑張って聞こうとした。僕よりずっと背が高いのに僕と手を繋ぐから、男の人は片方の肩だけ変に傾いてる姿勢になってたけど、少しも嫌な顔をしないので、僕は少し嬉しかった。
「そういえば、あなた今も猫が好きなんですか?」
ふいに、そんなことを聞かれて、僕はドキドキした。僕が猫を好きだって知ってるのが、変なことかもしれないけど、僕を大切に思ってくれてる証みたいに思えた。それに、この人ばかりに喋らせてしまったから、今度は僕が話さなきゃって思った。
「あのね、ねこは飼っちゃだめだってお母さんに言われてるけど、ぼくはすごくすきなの。こうくんちもまなちゃんちもねこを飼ってるのに、ぼくのうちはだめなんだ。でもね、なかよくしてるねこはいてね、さんかくこうえんにいるしゅうまいがそうなんだよ。しゅうまいは茶色いテンテンがあって、白くて、ぼくのお腹くらい大きいの。いつもは公園のぴょんぴょんした石の上にしゅうまいはいて、でもこの前はしゅうまいはのってなくて、きっと僕のためにあけてくれたんだって思ったからその石の上にすわったら、しゅうまいはにゃーって言って……」
僕が話してる間、男の人は「へぇ」とか「そうなんですか」って言ってくれたので、僕はすごく嬉しくなった。他の大人は、僕が喋り終えた時に「よかったねえ」だけ言ってお喋りを終わらせることが多かったから。
そのうちに、僕のおうちに着いた。知らない人なのに、お喋りして、おうちにまで連れてきてしまったのを、僕はようやく気づいて怖くなった。あとでお母さんに怒られるかもしれない、と思うとドキドキした。
男の人は、玄関まで来ると繋いでいた手をあっさり離した。それがすごく寂しかった。もっと、離れたくないとか、まだ遊んでいたいって、僕じゃなくて男の人の方から駄々をこねて欲しかった。でも、そうしてくれないから、僕は仕方なく玄関の前に立って、男の人とさよならをした。
僕は「さようなら」って言おうとしたけど、それを遮るみたいにして、男の人がこう聞いた。
「あなたは今も、俺のことが好きですか」
僕はすごく困ってしまった。会ったばかりで好きか嫌いかも分からないのにそう聞かれたから。でも、まだこの人と一緒にいたいって思ったから、僕はこの人のことが好きなんだろうと思った。だから、僕は「好き」って答えた。男の人は少し俯いて、お花が壊れる時みたいにどこか悲しげに笑った。
「俺も、あなたのことが好きですよ」
そう言った後、突然男の人の背中から、白い光が溢れ出した。その光はどんどん大きくなって、扉みたいな形になる。あんまりに眩しいので、僕は目を開けていられなくなった。目を閉じても、まぶたの裏が真っ白く照らされる。その光がようやく消えた時、目を開けて男の人を探したけど、どこを見てもあの赤い髪は見当たらなかった。
僕は、なんだかひどいことをされたような気持ちになって、家に入らないまま、玄関の前でしゃがみ込んで泣いてしまった。カラスが鳴いて、空が赤くなっても泣き続けて、仕事から帰ってきたお父さんが僕を見てびっくりするまで、僕はずっとそこにいた。
それから僕は、家に帰るたびに玄関の前で後ろを振り返ってしまう。あの男の人がまた僕に会いに来てくれるような気がしたから。でもそんなことはないまま、僕は小学校を卒業して、公園のしゅうまいは死んで、僕は時々一人ぼっちになりながら、あの男の人と同じくらいの歳になった。