「美空さん、あたし、池袋のラウンジで働き始めたの」
あどけない女の声だった。ようやく20代に入ったかどうかという幼さを滲ませていた。留守電に入っていたその声に、美空は身に覚えがあった。数ヶ月前、マンションに泊めてやったことのある、宿無しの女である。美空が池袋のバーで飲んでいる時に、向こうから声をかけてきたのだ。今日の宿の当てが無い、と言うのでマンションに数日泊めてやった。女は代金代わりに美空と寝た。それくらいのものである。
いつかの由子のように、特別気にかけることもなく、美空の中で忘却されていくような存在だった。だから、こんな風にして女から連絡を取ってきたのが、美空には少しばかり意外だった。
「ねえ、今度お店に来てよ。美空さんにお礼を言いたいから。あたし、結構この店で稼いでるの」
そう言って、店の名前と住所を告げて留守電は終わった。耳に残るあどけない声の余韻に、女がつけていた香水の香りが鼻を掠めたように思えた。
その数日後に、美空はその店へきちんと足を運んでいた。
こういった店にふさわしい、煌びやかな内装が美空を出迎える。現れたボーイが口を開こうとした瞬間に、店の奥から甲高い声がこちらへ飛んできた。
「美空さん!」
目を向けると、あの少女がボックス席から立ち上がって、美空を真っ直ぐに見つめていた。
美空は内心驚いていた。女の姿に、ではない。ボックス席の中の、彼女が立っているその隣に、見知った男が座っていたからだ。その男は、首をひねってこちらを振り返りながら、目を剥いてあからさまな驚きの表情を浮かべていた。そしてそこまで顔を歪めていても、凄絶とした美しが残っている。美空のよく知る、あの、毒島獣太という男だった。
少女はそんな毒島の様子を気にも止めずに、ボックス席を出て美空の方へ駆け寄ってくる。どこか無邪気にも思える仕草だった。
「来てくれたの?」
「ええ」
女は以前と違い、髪を巻いて、真っ赤なドレスに身を包んでいた。華奢な体つきを強調するかのように、ぴったりと体のラインに沿っている。光沢のある生地は、きめの細かく白い肌を、どこか毒々しく彩っていた。
「こっち」
女は慣れた仕草で美空の腕を取ると、そのまま奥の席まで連れていった。革張りの黒いソファーが、ガラステーブルを囲んでいる。複雑な照明に彩られて、どこか目眩がするような、胸が昂っていくような雰囲気が作られていた。
ソファーに腰を下ろすと、女が美空のそばに擦り寄ってくる。膝が触れ合うほどに近いが、密着する程ではない距離感だ。そして、まだあどけなさの残る声で美空に囁く。
「本当は、来てくれないのかと思ってた」
「なぜです」
「分からないけど……何となく」
女はそこまで言うと、喉の奥を鳴らすようにして、低い笑い声を上げた。女が一気に老け込んだような、そんな印象を抱かせる笑い方だった。
「そんな男に見えましたか」
「うん」
悪びれもせず女が答える。今度は美空が笑みを漏らす番だった。少女の、さっきまでの老生した雰囲気は既に消えていて、美空にとって見慣れた、あのあどけない顔立ちに戻っていた。
しかしこの時、目の前の少女以外に、美空が気にかかってることがあった。それは、このボックス席に何故か毒島も同席していることだった。少女が美空を出迎えた後、何故か毒島もボックス席を立って二人の後をついてきたのである。毒島は依然として、少女を挟んで美空の対面になる席に当たり前のように座っている。先ほどまで彼が居たボックス席では、毒島の相手をしていた嬢たちが自分も席を移るべきかと迷っているようだった。
平然と同席されているだけに、何か声をかけづらいものがある。「なんで毒島さんもここに居るんですか」と美空が聞こうか迷っていると、それよりも先に少女が口を開いた。
「なんで毒島さんが着いてきてるの」
むくれた子供のような口調である。少女の咎めるような視線を受けても、毒島は少しも戸惑う様子を見せなかった。席から持参したグラスで酒を啜りながら「いやあ──」とどこか感嘆めいた声を上げる。
「女と遊んでる時のおめえを、そういえば見たことが無かったと思ってな」
そう言って、まじまじと美空を凝視する。自分の飼い猫が、野良のふりをして近所の人間に擦り寄っているのを観察しているような目つきだった。
「もしかして、お友達?」
「ええ、まあ」
女が、美空と毒島の顔を交互に見上げて言う。おそらく、自分目当てに毒島が着いてきたのだと考えていたのだろう。友達というよりも、知り合いという方が正しいように思えたが、毒島がじっとこちらを見ている中でわざわざ否定するのは少し憚られた。
不意に、女の手がスラックス越しの美空の太ももへ触れた。女を見ると、仲間外れにされた子供のような、途方に暮れているような表情が僅かに表れている。美空は、自分の中に憐憫めいた優しさがふっと芽生えるのを感じた。女の手に、自分の手を重ねて、そっと身を寄せる。
「綺麗になりましたね」
やわらかな髪越しに囁いてやると、女は伏せていた目をぱちりと持ち上げて、美空と視線を合わせた。そして、子供のように顔を綻ばせる。
「そうでしょ」
誇らしげに、女はそう言ってみせた。丁寧に化粧を施しているのだろう頬が、見て分かるほどに上気する。
美空は女に微笑を返してやりながら、視界の端にいる毒島が、何故か不貞腐れたような顔をするのが分かった。毒島が手を伸ばし、女の肩に触れる。
「沙耶香ちゃん──」
「なによ」
それを、女がそっけなく手で払う。虫のような扱いをされ、毒島がまた目を剥いた。
それを眺めながら、そういえばそんな名前をしていたな、と美空はようやく女の名を思い出したのだった。