「おめえが女だったら良かったのにな」
おれは、ずいぶん前から思っていたことを美空に言ってやった。対面に座る美空は、ちらりとこちらに視線を向けた後、すぐに目を伏せて唇の両端を持ち上げた。紅い、吸い付きたくなるような唇だった。いちじくを割った時に現れる、果肉の色に酷く似ていた。やはり、男にしておくには勿体ない顔面である。
「よく言われますよ」
「もしそうだったら、土下座してでもおめえにやらせてもらうのによ」
「土下座ですか」
美空が心持ち顎を引いて、上目遣いにおれを見る。ゆるくウェーブした前髪の奥で、愉快そうに眉がやや持ち上がっていた。今こいつの頭の中では、とんでもなく侮辱的な姿をしたおれの姿が浮かんでいるはずだった。
「毒島さんの土下座が見れるなら、女になるのも悪くはありませんね」
「ふん」
案の定、つまらない返事しかしない美空だった。面倒くさくなってそこで会話を打ち切ってやったが、しばらくすると何かとんでもないことを口にしてしまったような気がしてきた。くそ真面目な美空のことだから、おれの言葉を本気にして股の穴を増やしてくるかもしれない。そう思うと訂正せずにはいられなかった。
「言っておくがな、さっきの言葉を本気にして性転換手術とかするなよ。おれはお世辞を言ってやったんだぜ。股にドリルで穴を開けたって、地面に膝はついてやらねえからな」
「しませんよ」
美空は珍しく苦笑してみせた。そして、何を思ったか大きな目がじっとおれを見つめてきた。こいつの黒々とした瞳は、正直何を考えているのか全く読み取れない。
「そう言う毒島さんはどうなんですか」
「何がだ」
「土下座についてはリップサービスだったとして、女になった僕とやりたいと思ったのは、本気だったんですか」
予想だにしなかった質問に、たった一瞬だけ頭が真っ白になった。動揺を表に出しそうになって、寸前でそれを抑えつける。
思わず、美空の顔をまじまじと見た。墨色をした美空の瞳の中で、瞳孔がきゅうっと縮まっているのが分かる。猫のような目だ。
おれは、股や胸をつけた美空の姿を想像しようとした。女になった美空を、おれの下でそこらの女の子のように押し倒している光景である。けれど、俺の頭に思い浮かぶのは股でも胸でもなくこいつの顔だけだった。今と何も変わらない美空の顔が、おれをじっと見上げている。僅かに細めた目の中が、涙の膜を張ったように潤んでいるのが分かる。その奥で、確かな恍惚が灯っているのもだ。
なにか、ぞわぞわとした耐えがたい痒みのような衝動が、おれの全身を這い上がっていくのを感じた。このまま美空の目を見ていたら、とんでもないことを自分がしてしまいそうな気がして、顔ごと逸らす。脳天まで痺れてしまいそうだった。
「さあな」
「もしかして、やりたいと言ったのは嘘だったんですか」
「そうは言ってない」
おれは、思っていた以上に乱暴な声が自分の口から出るのが分かった。けれど、それに美空が動揺した風も無いので、気にする必要はないだろう。美空みたいな奴に、変に気を持たせるよりはずっと良いと思ったからだ。
「おめえが女だったら良かったのにな」
それを聞いて、美空はついその声の持ち主に視線を向けた。やや斜め向かいに座る毒島が、真剣な顔をしてこちらを見つめていた。すっきりとした大きな目が、じっと美空を捉えている。その目元と、高い鼻梁、整った濃い眉に、美空は思わず見惚れそうになる。もし毒島が人間ではなく彫像か絵画であったならば、美空は時間も忘れてその姿を鑑賞していただろう。しかし、笑ってしまいそうになるほど熱のこもったその視線が、彼が生きた人間であることをあからさまに表している。
「よく言われますよ」
美空はこともなげにそう言ってみせた。実際、美空にとってそう言われるのはよくあることだった。男にしておくのは惜しい、と言われたこともあるし、女だったら傾国の美女になれただろう、とまで言われたこともある。美空からすると、国を傾けたいなど微塵も思わないので、その言葉に少しも心惹かれることは無かったのだが、あの毒島からそのようなことを言われるのは少しばかり美空に興味を持たせた。
毒島は未だに、真剣な表情で美空の顔面を凝視している。あまりに真剣すぎて、怒っているようにさえ見える顔だ。
「もしそうだったら、土下座してでもおめえにやらせてもらうのによ」
「土下座ですか」
美空の頭の中に、土下座した毒島の姿が思い浮かばれる。もちろん、いつものチェスターバリーのスーツを着た姿でだ。その格好で地面に頭を擦り付ける毒島の姿を見るのは、さぞ愉快だろう。
今までの短い付き合いの中で、どぶ池に尻餅をつきそうになったり、ひるこに尻を蹴られてつんのめるなど、情けない姿は割とよく目にしていた気がするが、さすがに土下座は見たことがない。
自身の中に、どこかサディスティックな欲望が芽生えつつあるのを美空は感じ取った。
「毒島さんの土下座が見れるなら、女になるのも悪くはありませんね」
「ふん」
返答が気に入らなかったのか、毒島はぷいとそっぽを向いた。子供のような仕草だったが、それさえも妙になるのが毒島である。横顔の、顎から頬にかけてのラインにさえ凄絶とした美しさがある。内側に骨の太さを感じさせる、男らしい輪郭だ。ほんの僅かに尖らせた唇は、たっぷりと水を含ませた筆に赤色の絵の具を少しばかり取って、さっと筆を走らせたかのようだった。
美空が惚れ惚れと鑑賞していると、不意に毒島が再度こちらへ顔を向けた。不躾に眺めていた美空の視線に、少しの動揺も見せない。さすが、容貌に絶対的な自信を持つ者らしい堂々とした態度であった。そして、じろりと睨みつけながら言う。
「言っておくがな、さっきの言葉を本気にして性転換手術とかはするなよ。おれはお世辞を言ってやったんだぜ。股にドリルで穴を開けたって、地面に膝はついてやらねえからな」
大真面目に主張するにしては、あまりに馬鹿馬鹿しい内容に、美空はつい吹き出しそうになった。
「しませんよ」
笑い出しそうになるのをこらえながら、美空はそう返した。そして、なんて変わった男(ひと)だろう、と呆れるのを通り越して感動さえしていた。毒島に対して奇妙な男だと感じるのは、もう何百回目かになるものの、その驚きが色褪せる気配は未だ無い。
彼の思考を完璧に理解するのはおそらく一生かかっても無理なのだろうと、ずいぶん前から美空は諦めている。正確には、富士で縦穴を下る際に、登山用のスニーカーを勧めてもそれをつっぱねて、バレンティノの革靴のままで探索する姿を見た時からだ。そもそもとして生きている次元が違うのだろう。毒島獣太という珍獣の存在を、美空はそのようにして解釈していた。
美空は今一度、毒島の顔を見つめ直した。まっすぐに視線を注ぐ中で、毒島が怪訝そうにこちらを見つめ返している。その、どこか子供っぽい表情をした美しい顔を歪めてやりたいと、美空は衝動的に思ってしまった。
「そう言う毒島さんはどうなんですか」
「何がだ」
「土下座についてはリップサービスだったとして、女になった僕とやりたいと思ったのは、本気だったんですか」
怪訝そうな目はそのままに、毒島の口が半開きになってへの字を描く。そして一拍遅れて目を剥いた。信じられないものを見るように、まじまじと美空を見つめている。
美空は、自身の唇が吊り上がるのを感じた。そういえば、土下座については言及したものの、「やりたい」と言われたことについては何も反応していないことについ先ほど気がついたのだ。それでこのように言ってみせたのだが、予想以上に毒島の心をかき乱したらしい。
驚いたように美空を凝視していた毒島の目が、徐々に様子を変えていく。どこか、苦痛に耐えているような、絶頂前の恍惚とした瞬間を引き伸ばそうとしているような、そんな表情だった。
毒島の視線が、嫌というほど自身の体を舐め回しているのが美空には分かる。それは実際に、毒島の手指や舌で愛撫をされるよりも、ずっと淫らな方法に思えた。空想の中では、時間の制限も興奮の限界も存在しない。たった今、毒島の頭の中に描かれている美空が、どれだけ卑猥な体位をさせられ、どれだけの絶頂を得ているのか、その視線だけで想像できそうだった。もし本当に女の体をしていたなら、一秒も待たずに毒島がこちらへむしゃぶりついていたのだろうとさえ思えてしまう。
そんな風に考えていると、不意に毒島が目を逸らした。ぶっきらぼうな声で「さあな」と返し、頬杖をつく。さっきまでのヒリつくような視線に対し、あまりにも呆気ない態度だった。
名残惜しい、と美空は思った。どうしてそう感じたのかは分からないが、残り香をかき集めるようにして、もう一度毒島にあの獣じみた目をさせてみたくなった。
「もしかして、やりたいと言ったのは嘘だったんですか」
「そうは言ってない」
しかし、そう答えた毒島の声はやはり頑なな響きを持っていて、美空はまるで夢から覚めてしまったような物足りなさを覚えたのであった。