さざ波のように揺らぐ

 雨の降る、静かな夜のことだった。
 窓の外からは、雨音がひそやかに聞こえていた。ワイナリーの中心に位置するディルック邸では、この天気のためにいつもより早く灯りを点けており、橙色の光に満ちた室内で、窓辺だけが薄青の闇を滲ませていた。
 そんな中で、ディルックは二階の窓辺に立ち、外の景色を眺めていた。そこに、メイド長のアデリンが静かに駆け寄る。
「ディルック様、いま、ワイナリーの畑に……」
「ああ、気づいている」
 その返答に、アデリンも釣られるようにして屋敷の外へ視線を向けた。二人の視線の先には、ワイナリーのぶどう畑がある。夜も深まり、雨によってより視界が悪くなるなかで、棚から吊り下げられているぶどうの葉の隙間から、明るい色をした髪が見え隠れしていた。たまたまそこに立ち止まった、という風ではない。もう数分も、その場を離れずにいる。何者かが、ワイナリーで身を潜めているのだ。
 アデリンの胸を恐怖が占める。神の目を持たない平凡な人間にとって、それは一番鮮やかな感情だ。恐怖を抱くだけで、足がすくみ、悪い方へと思考が引っ張られる。
 ディルックは、随分前からその存在に気がついていた。雨の中こちらへ向かってくる、水元素の気配。雨に紛れるようにして近づいてきたのかと思ったが、ぶどう棚の下に潜り込んでからは一向に姿を見せようとしない。身を隠すなら、もっと適した場所がワイナリーの周囲にはあるはずだ。
 ディルックはしばらくの間、考え込むようにそのぶどう畑を見つめていた。彼の表情に、アデリンのような怯えは見られない。不意に、アデリンの背に手を添えたかと思うと、外の景色から目を逸らさせた。そして「傘を一本出してくれ」と言った。

 ディルックは手渡されたこうもり傘を片手に、自身は傘を差さないまま、ぶどう畑の方へ降りていった。
 雨が、ディルックを濡らしていく。髪が濡れて肌に張りつき、服は水を吸って徐々に重みを増していった。ディルックが屋敷の外に出た瞬間から、身を潜めた者の注意がこちらに注がれているのを彼は感じ取った。二人の距離が縮まるほどに、見えない空気が張り詰めていく。
 ディルックがぶどう棚の真横に立ち止まる。わずかに身をこわばらせる気配がした。それに構わず、生い茂った葉っぱの中を覗き込む。ディルックとそう身長の変わらない男が、地面に座り込んでいた。雨と、ぶどうの甘い香りが立ち込める中に、僅かながら血の匂いが混じっている。沈黙がその場に落ちる。先に声を上げたのは、身を潜めていた者の方からだった。
「……こんばんは、御曹司さま」
 青い目と視線がかち合う。そして、青い光を放つ神の目と、ディルックが持つ神の目の光が、ほんの一瞬だけ絡まり合った。
 ディルックは内心動揺した。そこに身を潜めていたのが、予想よりずっとあどけない顔をした青年だったからだ。そしてディルックが知る由も無いことだが、青年側も全く同じことを思っていた。青い目に好奇の色が浮かぶ。光の無い、曇天より暗い色をした瞳に。
「……御曹司さまとは、僕のことかな」
「あれ、違うのかい?あんなに大きな屋敷から出てきておいて……」
 青年の呼吸は、浅い。言い終わると同時に軽く咳き込んだ。微笑を顔に浮かべてはいるが、疲労の色が濃い。怪我をしているのだとディルックはすぐに気がついた。それも、肺にまで達するような怪我である。ちゃんと身を休められる場所を探す体力もなく、このぶどう畑にたどり着いた。そう考えるのが妥当だろう。
 青年の目は、親しげな笑みを浮かべているように見えて、ディルックを用心深く観察している。自身が手負いの中、近づいてきた者に対する不信感がそこにあった。その様子から、ディルックはこの男を人間というより獣のようだと思った。
「どうだろうね」
 そう言いながら、ディルックは傘を差し出した。青年は幼げな顔の中で目を瞬かせる。
「……優しいんだね?」
「優しくないからこうしてるんだ」
 一瞬の沈黙の後に「ああ」と青年が納得する。
「家に上げてくれないってことか」
 青年は笑った。何故かディルックを慈しんでいるような、微笑ましいものを見るような目をしていた。それが変にむず痒くて、ディルックはわざと素っ気ない声でこう続けた。
「僕にも立場がある。素直に門を叩かない奴を家に上げるわけにはいかない」
「はは、気にしてないよ」
 青年はひょいと無造作に傘を受け取った。何でもないような顔で傘を渡しながら、ディルックはさっきまで考えていたことを思い返す。この雨の中、もしこの男が武器を手に立ち向かってきた時のために、片手はいつでも剣を手に取れるようにしておこう、と。そのために、ディルックは傘もささずにやって来たのだ。
 青年は傘を差す気力も無いのか、開いた傘を肩にもたれかけるようにして被る。地面に立てかけた傘の中に、青年が潜り込んだかのような格好だった。
「今度恩返ししに来てあげようか」
 ディルックは黙って青年を見た。血の匂いが未だに立ち込めている。傘を受け取り、笑顔を見せたこの青年に対し、ディルックはやはり警戒心を完全に解くことはできなかった。もしかしたら、従業員たちに危害を加える男かもしれない。まさかとは思うが、ファデュイの構成員である可能性もあるのだ。ディルックは自分がひどく愚かな存在であるかのように思えて、けれどもこれが自分にとって最善の選択だという思いも同時にあった。
「……できるなら、早く家に帰ったほうがいい。この雨だ。これからもっと冷え込むだろう」
「そうだろうね」
 そう答えた青年の目が、ひどく虚ろに見えてディルックは一瞬身をこわばらせた。青年は夢を見ているような声で続ける。
「でも、俺の家はモンドの外のずっと遠くにあるんだ」
 ディルックは、もっと現実的なこと──ここから一番近い宿屋のことや、身分さえ証明してくれたら家に上げてもいいというようなこと──を言おうとして、けれどやはり口を閉ざした。そして代わりに、こう返答する。
「……なら、故郷の夢を見ながらここで休むといい」
 青年は微笑を浮かべながら「そうするよ」と言った。
 ディルックはその後、青年を振り返ることなく屋敷の方へ戻っていった。その頃にはもう、コートもシャツも水を吸って鉛のように重くなっていた。心配したアデリンが玄関の外の軒下に立ち尽くしていて、彼女の冷えた体を押して、共にあたたかい室内へ入った。
「ただの雨宿りだ。朝になったら居なくなると言っていた」
 アデリンにそう告げて、何も心配することはないとディルックは言った。それでも彼は、全ての従業員が寝静まった後も、窓からぶどう畑を見張っていた。
 明け方、雨が止んだ瞬間にあの青年が傘を置いてワイナリーを離れるのを見た。朝になってぶどう畑に向かうと、血の匂いが染みついたマフラーが、忘れ物のように傘の下に置かれていた。