温室

 ドクターは温室にいると聞いて、そこに足を踏み入れて少しもしないうちに、シルバーアッシュは彼を見つけることができた。
 青々とした植物に囲まれて、小さな池の前に屈みこんでいる。手袋を身に着けていない指先が、その水面をゆるやかに撫でていた。波紋が、作られては消えていく。その連鎖的な変化のすべてを、彼の目は捉えているのだろう。
 黒い防護服を着こんでいる中で、唯一あらわになっている手が、雪のように白い。それを見て、シルバーアッシュは頭を殴られたような感覚になる。いつもそうだ。あの素肌を目にするたびに、彼は正気を失いそうになる。
「盟友」
 そう呼びかけると、ドクターがこちらに気づき、立ち上がった。大きな目がシルバーアッシュを見る。その目に、水の色が映っているような気がして、それだけで彼はこの小さな池にさえ嫉妬してしまいそうになった。
「シルバーアッシュ」
「珍しいな。ここにいるのは」
「温室を拡張するとパフューマーに聞いたんだ」
 それで、君は?とマスク越しの声が言う。
「オペレーターとしての支援要請はしていなかったはずだけど」
「お前に会いに来た」
「そう」
 特別興味もなさそうにそう返すと、ドクターの視線はすぐそばの木へと向けられた。
「きれいだろう」
 背が高く、大ぶりの白い花を咲かせている。
「白木蓮と言うらしい。私はここで初めて見たよ。テラでも最近は少ない種だと聞いた。背が高くて白くて上空からでも目立つから、空爆の目印にされるだろうと切り倒す人もいるらしい。それが事実かどうかは私も知らないが」
 花びらに触れようとしたのか、ゆっくりと腕が伸ばされる。しかし枝のある位置が高すぎて、彼はすぐに諦めた。その際に、爪の先にとどまっていた水滴が、手首を伝って肘の方に滑り落ちていく。池の水面を撫でていた時に付着したものだろう。袖に遮られて、それの行く末はすぐに分からなくなった。
 ドクターがこちらに向き直る。大きな目が、じっと覗き込んできた。色の薄い瞳。シルバーアッシュは、全身が膿んだように痺れていくのを感じた。目を合わせるだけで自分をこんな風にさせる人間が、この世に存在することを彼はつい最近まで知らなかった。
「君は私のことばかり見てるね」
 そうだろうな、とシルバーアッシュは声には出さずにそう思った。
「部屋に戻らないか。久しぶりにお前と話がしたい」
 彼はそう言って腰を抱こうとしたが、無意識に腰へ絡めていたらしい尻尾が、手よりも先にドクターを引き寄せた。
「うん」
 尻尾に押し出されるようにしてドクターが歩き始める。特に抵抗もされなかったので、尻尾で腰を抱いたまま並んで歩く。途中、すれ違った医療オペレーターたちが、こうささやき合うのが聞こえた。
「見せつけたいのかな、あれ」

 執務室に入ると、珍しいことに当番制の秘書がいなかった。こちらの疑問を読み取ったのかドクターが言う。
「今日は休みなんだ」
「……秘書がか?」
「違う。私が」
 シルバーアッシュは、珍しく神に感謝した。ドクターが休みということは、何の遠慮もせずにやりたいことをやれる日ということだ。少なくとも、彼の頭の中ではそういう決まりだった。
「コーヒー淹れようか」
 ドクターがソファー横のコーヒーサーバーに手を伸ばす。しかしその指が、エスプレッソのボタンを押すことは叶わなかった。背後から、シルバーアッシュが断りなくドクターを抱き上げたからだ。
「うぁ」
 執務室は、ドアを隔ててドクターの私室へと繋がっている。シルバーアッシュは彼を抱き上げたまま、ほとんど蹴るようにドアを開けた。この男はドクターと一緒にいる時、そういう乱暴な振る舞いが何故か自然と出てしまう。一貴族として、所作にはそれなりに気を付けてきたはずだったのに。時々、性欲と加害性は繋がっているのだろうかと、シルバーアッシュはよく考える。
 ベッドの上にドクターを放り投げる。そのマットレスがひどく柔らかいことを知っていたから。実際、彼の体は衝撃ひとつ受けることなくベッドの中に沈んでいった。
 後ろ手にドアを閉める。妙に空気が淀んでいるように感じられた。ブラインドを閉め切って、明かりも付けていないから余計にそう思うのかもしれない。執務室に比べると、湿った空気が泥のように足元でわだかまっている。もしかして、定期的に換気をしていないのだろうか。セルフネグレクトに定評のあるドクターならあり得る話だった。
 そう思うと、以前会いに来た時の空気が、そのまま残っているような気がした。一か月前にこの部屋でした際の、互いの呼気や汗の匂い。それが空気中で濃く絡み合っている。足元から、這い上がってくる何かを感じた。それはシルバーアッシュの皮膚一枚の下を這いまわり、彼を昂らせようとする。
「そんなにコーヒーが嫌だったのか」
「なに?」
 ドクターがベッドの上で身じろぎしながら言う。
「コーヒーを淹れようとしたら急にこうされたから」
「それで、むくれてお前をベッドに投げだしたと?」
 面白い冗談だな、ドクター。シルバーアッシュがわずかに笑みを含んだ声で言う。ドクターのジョークは分かりにくい。防護服で表情が窺い知れないのもその原因の一つだろう。それと、声に喜怒哀楽があまり表れないせいもある。
 ドクターがのそりと上体を起こす。シルバーアッシュが近づき、彼のフードを取り払う。目から上があらわになった。丸い大きな目。あどけない顔立ちだ。少年と言っても信じられてしまうかもしれない。まつ毛の隙間、頬のわずかなうぶ毛にまで、魔性の匂いが色濃く絡みついている。少なくとも、シルバーアッシュの目にはそう見えていた。
 マスクを外す。隠れていた口元が晒された。その唇が、ひどく無防備なものに見えて、シルバーアッシュはぞくりとした。薄い色をした小ぶりな唇。それがゆっくりと開かれたかと思うと、あまりこの場にはふさわしくない言葉が出た。
「温室でした話の続きをしていいか」
「したいのか?」
「まだ喋り足りない」
「それでお前の機嫌が良くなるなら」
 高い鼻が、ドクターの頭のてっぺんに擦りつけられる。そうして匂いを嗅いだ後、彼の額へ、次にまぶたや鼻筋へ、唇を押し当てていく。ドクターは了承を得たのだからと、ベッドの上でするにはあまりに不釣り合いな話題を、愛撫を受けながら語り始める。
「ハクモクレンという名前を聞いた時、字でどう書くのか想像がつかなかった。モクレンのレンは蓮と同じ字で書くらしい。蓮の花に形状が似ているからだ。でも、私は蓮の花を見たことがないと言ったら、パフューマーが今度池を作って、そこに咲かせてくれると言ったんだ。それが少し前のことで……。調べたら、白木蓮はもともと鎮痛剤や鼻炎の生薬として使われていて、アルカロイドが成分に含まれている。そう、モルヒネや麻薬に使われているものだ。……あの花を見た時から、そんな、ん、感じがして、はっとするほど白いだろう。だから、なんとなく、んん、……雪の色にも似てると思ったが、君の髪と見比べると、違うな。君は、イェラグの雪と同じ色で…………シルバーアッシュ、もっと、ゆっくり、やってくれないか……」