銀博♂(アークナイツ)

 身支度をするシルバーアッシュの姿を眺めるのが、ドクターのひそやかな楽しみになっていた。
 朝、同じベッドで目を覚ました後、シルバーアッシュは仕事用のスーツに着替え始める。ドクターはベッドにもぐりこんだまま、その後ろ姿を眺めるのだ。シャツの袖口をとめるために、こまやかに動く指先だとか、ジャケットを羽織った瞬間の、彼の背中の形にぴったりと吸い付いていく動きだとか、そういうこまごまとした景色が、単調な毎日の娯楽と化していた。
「今日は何をするの」
 ドクターはベッドの中から手を伸ばし、シルバーアッシュの尻尾をもてあそびながら尋ねる。尻尾が長いので、クローゼット前で身支度をしていてもその先端がベッドの上に留まっているのだ。ドクターはさながらうどん職人か、それとも陶芸家のような手つきで尻尾をもみほぐしていく。
「ヴィクトリアの製鉄加工業者との取引がある」
「ほかには?」
「あとはいつも通りの雑務ばかりだ」
「ふうん」
 これで終いだとばかりに、手の中の尻尾が跳ねて、ドクターの顔をひと撫でした。
「わぷ」
 ドクターの手を離れた尻尾は、よく躾られたペットのように、お行儀よく持ち主の腰回りへと収まる。ドクターは名残惜しそうにしながらも、ベッドの中で大人しくそれを見つめた。
 彼にとって不満なのは、その尻尾のことだけではない。さっきのように、仕事についての質問をしても、シルバーアッシュは最低限にしか答えてくれないのだ。しかも、ドクターの方から問いたださない限りは、自分から口にすることもない。仕事についての情報は、ここで療養するのに不要なものであると言外に匂わせているかのようだ。
 肌触りのいい毛布を首元までひっぱり上げて、ドクターはぼんやりと思案する。この療養生活はいつになったら終わるのか。
 彼はアーミヤ率いるロドスの仲間たちと、大きな物事を成し遂げてきたばかりだった。そうしてようやく帰還したドクターの体は、長い休養を必要としていたらしい。戦場から帰還したその日のうちに、四日も眠りこけていたのだから事実だろう。ドクターはその間一度も目を覚ますことなく、いつの間にかこのイェラグに身を置いていた。
 療養と言ったって、頭も体も無事なのに。毎日寝て過ごしているドクターからすると、そう不満を持つのも仕方がないだろう。それでもこの生活を拒否できないのは、シルバーアッシュとの婚前同棲期間として周囲に見られているような雰囲気を感じ取っているからだ。使用人たちの生暖かい目を感じていると、あまりわがままは言えないと思ってしまう。
 支度を終えたシルバーアッシュがこちらを振り向く。伸びてきた手が、ドクターの頬を撫でた。仕立ての良いスーツ特有の匂いが、ドクターの鼻をくすぐる。見つめ合った薄灰の瞳が細められた。
「すぐに帰る。お前の声が届く場所にしかいない」
「うそばっかり」
 あんまりご機嫌取りの嘘ばかり言ってると、そのうち社長から詐欺師に転落するよ。そう付け足しても、シルバーアッシュは機嫌良さそうに笑うばかりだった。
 仕事に向かったシルバーアッシュを見送ると、いよいよ部屋の中は静寂に包まれる。ドクターはなんとはなしに室内を見渡した。療養用の部屋というだけあって、ここには生活に必要な一切のものが揃っている。大きなベッドとクローゼット。本棚と小さな書き物机。簡易的なキッチンまで備え付けられており、しかもそれを使わなくても、使用人が毎日食事を運んできてくれている。トイレ、バスルームへとつながる扉もあった。
 本当に、至れり尽くせりな環境だ。生活のすべてがこの部屋の中で完結している。身体に問題はないと思っていても、以前より長く眠るようになったことと、どんな動作をするにもだるさを感じるようになったことは、未だ回復していない証拠なのかもしれない。そのため、本当ならシルバーアッシュに感謝するべき立場なのだろう。
 しかしながら、ドクターにとって気がかりなことが一つだけある。この部屋の構造についてだ。この部屋は、内側から鍵をかけられない仕組みになっている。しかし、外側から施錠することは可能らしい。そして、毎朝シルバーアッシュが部屋を出ていく姿を見送っているうちに、あることに気がつき始めた。どうもこの部屋を出てすぐは廊下になっていて、その先の扉も施錠されているらしいことだ。つまり、一旦鍵を開けて、廊下を通ってからまた扉の鍵を開けて、ようやくこの部屋に入ることが出来る。
 それは、部屋に入ってくる側からすると、単に施錠の手間が多いというだけだろう。しかしその逆に、この部屋を出ようと──抜け出そうとしている者からするとどうだろうか? 部屋の鍵を運よく開けることが出来ても、廊下の鍵まで開けることが出来なければ外に出ることはできない。
 もっと厳重にすることもできる。この部屋に入ってきた人間が、廊下の戸をまず開けたとする。そして内側から施錠した後に、何かしらの方法を使って廊下側の鍵を戸の向こうに預けて──戸の下に数ミリほどの隙間があってそこから向こうに滑り込ませるとか、数センチの穴から相手に渡すなどして──反対にこの部屋を出ていくときに、何かしらの合図をして向こうから廊下の鍵を渡してもらう等すれば、尚セキュリティは頑丈になるだろう。もしそうすれば、たとえば鍵の持ち主が隣で寝ている時──こっそりその鍵を奪い取って部屋を抜け出そうとしても、外部の協力者がいなければ廊下から先には出られないのだ。
 部屋の外にも鍵のかかった戸があること自体、すべて扉の隙間から覗き見たことなので、事実かどうかもドクターにはあやふやだ。しかしながら、彼が自分でそれを確かめに行こうとは思わない。もし、鍵の存在やセキュリティの強度を確かめるそぶりを、彼が少しでも見せた場合、彼の知らぬところで、この檻がより一層厳重になりそうな気がするのだ。
 ドクターはじっと天井を見つめ続ける。ここまで思案して、彼が今もまだ気にかかっている一つのことというのはつまり、この部屋は療養のために作られたというよりも、彼を閉じ込めておくために用意されたもののように思えて仕方がないということだった。