「なにか欲しいものはある?」
男にそう聞かれて、ほんの一瞬考えた後に「お風呂に入りたいです」と晶は答えた。
「おふろ?」
「はい、昨日からずっとシャワーも浴びてないので……」
晶はそう言って、自分が着ている学ランの襟元へ、顎を埋めて匂いを確かめるような仕草をした。体を洗ってないのもそうだし、この制服もシャツも下着も、昨日からずっと着っぱなしだった。今は午前一時だ。0時前を昨日と呼ぶならば、晶の言っていることは事実だった。昨日の朝、目の前の男に連れ去られてから。
「そっか。そうだよね」
男は頷いて、立ち上がった。
「待ってて。今お風呂沸かしてくるから」
男がバスルームへと向かう。晶はそれを、どこが驚いたような気持ちで眺めていた。あの男が、自分を置いて別室に行くとは思っていなかったから。本当なら、晶の一挙手一投足まで監視しておきたいのが男の本意なのではないか。この部屋から逃げ出さないように。
誘拐。晶の頭の中に、その言葉がぼんやりと浮かぶ。今、自分は誘拐されている。顔も名前も知らない男に。そう反芻してみても、実感がない。そもそもとして、昨日から続くこの状況自体が、夢の中の出来事なのではないかという気もしていた。
晶はいま一度、室内を見渡した。グレイとベージュ、ホワイトで統一されたビジネスホテル。ベッドはツイン。窓の外は曇り空で、立ち並ぶビル群の景色はまるで静止画のように見える。遠くから、あの男が風呂を沸かしている音が聞こえてくる。惜しみなく出されるお湯が、浴槽に叩きつけられる音。それが何故か、ひどく恐ろしい暴力的なもののように聞こえると思いながら、晶はぼんやりとベッドのふちに腰かけていた。
早朝。初秋とは思えないほどに冷えた空気の中で、晶は駅に向かっていた。早い時間ということもあってか、周囲に人はほとんどいない。寒がりな彼はぶどう色のマフラーをぐるぐる巻いて、その隙間から白い息を吐いていた。声をかけられたのはその時だった。
「ねえ、君」
晶が振り返る。視界の隅。小さなコインパーキングの中に、一人の男が立っていた。人のよさそうな顔をした、スーツ姿の男。精算機から上半身を覗かせるようにして晶を手招いていた。鈍色の町並みを背景に、色の白いその男はまるで夢の中の生き物のようにそこにいた。
「ごめん。急に声かけちゃって」
不審者。そんな言葉は晶の頭に思い浮かばなかった。だって、男は明らかに通勤途中のサラリーマンに見えた。それに、この状況が不審者云々に似つかわしくないように思えたのだ。早朝で、晶は今から登校しようとしていて、ここはコインパーキングの前だ。不審者だの誘拐だのという言葉は、放課後の公園や通学路に当てはまるイメージがあった。
「これ、外せたりする?」
外す? 一体何のことかと思いながら晶は近づく。男は申し訳なさそうな顔で笑っている。男の目の前に立った。この時点で男への警戒はほとんどゼロだった。無防備に男へ手を伸ばした。その腕を、男が不意に掴んだ。骨が軋みそうなほどの強さで。強引に腕を引っ張られる。男の方へ倒れこみそうになるのを踏みとどまろうとした。その時だった。硬いもので後頭部を殴られたのは。
「ほら、起きて」
次に目を覚ました時、晶は車の後部座席で横たわっていた。何が起きているのか分からないまま、男とともに車を降りる。男がホテルのフロントで手続きをしている間、周囲の人に助けを求めようだとかは少しも思いつかなかった。自分の身に起きたことの整理が未だついていなかったというのもある。けれど一番の理由は、大人しくしていた方がいいと思ったからだ。大人しく、口をつぐんでじっとして、時が過ぎるのを待っていれば、嫌な事はいつの間にか過ぎ去っている。学校や家庭で、いつもそうやってやり過ごしてきたから。今回もそうであるような気がした。全くそんなことは無かったのだけれど。
男が戻ってこないことを不審に思い、晶はバスルームへと向かった。しらじらと明るい浴室の中で、男は服を着たままタイルにぺたりと座っていた。浴槽のふちに腕を置いて、お湯が溜まっていくのを眺めている。白い、どこか不安定な横顔。
「うん?なに?」
こちらに気づき振り返る頃には、そのぼんやりした表情は消え去って、にこやかな笑顔を浮かべていた。
「その、すぐに戻ってこないから、何かあったのかなって」
「ああ」
「俺がずっと一緒にいたら、君が気を遣っちゃうかなって思って」
「…………」
晶は奇妙な気持ちになった。本当に自分はこの人に誘拐されているのだろうか?それよりも「あまり親しくない親戚のお兄さんと二人きりにされている」という方が心情的には合っているような気がした。
晶はふと、すぐ真横の鏡に目を吸い寄せられた。そこに映る彼は、皮脂のせいか前髪が少し束になっている。平凡な容姿だ。どこをどう見ても、誘拐する価値があるようには見えない。
「どうして、俺を誘拐したんですか」
晶は思わずそう聞いてしまった。浴槽の半分ほど溜まったお湯の中に、男が指先だけ入れる。ちゃぷちゃぷと音を立てながら、指先をゆらゆら泳がせている。「覚えてない?」と男が言う。
「俺と君、前にあったことがあるんだよ」
「……いつですか?」
「多分、八十年くらい前」
「…………」
晶は思わず口をつぐんだ。彼は今年で十五歳だ。記憶を辿る必要も無いほどに、あり得ない話だった。
晶は男の横顔を見る。こちらに背を向けてはいるものの、彼は明らかにこちらの様子を窺っていた。微笑を顔に貼り付けて、けれどまるで苦いものを口にしているかのように、唇を僅かに歪ませた顔。今にも泣き出しそうな子供が、それを無理やり我慢しているかのようだった。
晶は、この男が本気で言っているのだろうと分かった。少なくとも、晶をからかったり騙したりするつもりで言ったのではないだろう、と。
「信じなくていいよ」
「信じます」
自嘲するような声を聞いて、晶は被せるようにそう言った。男が僅かに体をこわばらせたのが分かる。シャツを着た薄い背中を見て。
「信じます。でも、俺は覚えてません。それは、申し訳ないと思ってます」
「……君は優しい子だね」
いいんだよ、そんなことで謝らなくても。男はそう付け加えた。晶は、やはり冗談ではないのだろうと思った。その八十年前というのがたとえ事実でなかったとしても、男は本気でそう思い込んでいるのだろう。
真木は騙されやすいからなあ。不意に、そんな声が耳元で聞こえたような気がした。以前、誰かに言われたことだ。クラスメイトか教師だったのか、それ以外かは覚えていない。けれど、そこに含まれた嘲笑だけは今も晶の頭の中にこびりついている。消えることのない傷痕みたいに。
晶は部屋に戻った。ベッドに座り込む。「真木は騙されやすいから」その言葉がまだ頭の中で反芻していた。学校でのことが、自然と思い出される。狭く息苦しい教室の、鬱屈した空気。自意識とか悪意とか、そういうものが立ち込めていた。これから来るだろう受験シーズンのことも考えると、あの場所に戻ることがより憂鬱になってくる。
男のもとから離れたくない、と晶は思った。特に理由があるわけではない。けれど、男のそばを去ってしまえば、またあの教室に戻ることになる。きっと、奇異の目で見られるだろう。ありもしない噂を立てられるかもしれない。それは、自分を誘拐した男と一緒にいるよりも、耐え難いことのように思えた。善良な両親のことを思えば、すぐにでも帰るべきなのだろう。近所の目だってある。それでも「誘拐された子」として扱われることを考えると、晶の気は重くなっていくばかりだった。
「お風呂沸いたよ」
バスルームの方から男が呼びかける。少なくとも、と立ち上がりながら晶は思う。少なくとも、この人と一緒にいる方が、学校で過ごしているより傷つかずに済むのだろう、と。
目を覚ました時、男は部屋にいなかった。晶は身を起こし、時計を見る。ブラインド越しの朝陽。まだ七時少し過ぎだ。
ベッドから降りると、お腹の辺りで絡まっていたバスローブの結び目がほどけた。昨日、お風呂に入った後、晶は備え付けのバスローブを着た。他に着替えがあるわけでもないので、その格好のままベッドで寝たのだ。くしゃくしゃに寝乱れた髪と、少しむくんだ顔は、いかにも幼い子供のようだ。
テーブルの上に、メモが残されている。
「いい子にしててね」
ただその一文だけが書かれていた。晶は「何時くらいに戻ります」とか「〇〇に行ってきます」ではなく、「いい子にしててね」と書かれていたことに、自分があの男に何を求められているのかが分かったような気がした。
ガチャ、という音がしたのはその時だった。次いで、ビニール袋がガサガサ言う音も聞こえる。
「あ、起きてた」
男が、いくつかの買い物袋を手に帰ってきた。「おはよう」の声とともに袋の一つを晶に渡す。
「出しておいてくれる?」
男に言われた通り、晶は袋の中の物をテーブルの上に出した。唐揚げ弁当ととんかつ弁当。容器越しでもあたたかい。カップに入ったお味噌汁二つ。割り箸とおしぼり。
「朝ごはんだよ。どっちがいい?」
晶が唐揚げを選ぶと「そうだと思った」と男は笑った。まず食べちゃおうかと男が言うので、二人は朝ご飯を摂ることにした。カップの味噌汁にお湯を注いで、出来上がりを待つ間に弁当を食べ始める。唐揚げの衣は、あまりサクサクしていなかった。けど、そのふやけた感じが何となく美味しく感じられた。
胃に食べ物を入れたことで、晶はようやく空腹を自覚したように思えた。お腹が満たされて、体が温まっていく。あるべき場所に全てが収まっているような感覚がした。いつも通りの日常に、戻りつつあるような気さえしたのだ。名前も知らない男と、向かい合ってご飯を食べているのに。
油を吸ったキャベツを咀嚼しながら、男の様子をそっと窺う。男は箸の先で、梅干しを蓋の上に移動させているところだった。それと、赤く染まった梅干しの下のご飯も一緒に。嫌いなのかな、と晶がぼんやり考える。
「なに?」
男が視線に気がつき、微笑む。晶は慌てて「何でもないです」と言って視線を逸らした。
「さっきね、ホテルのランドリーで服を洗ってきたんだ」
「あ、すみません」
「それと、コンビニで下着も買ってきたから、後で履くといいよ」
そう言われて、下着を履いていないことを晶は思い出した。そういえば、バスローブを一枚着ているだけだ。そう考えた途端に、男の視線が気になり始めた。さっきほどけてた紐を結び直したばかりだけど、また襟元が緩み始めている。鎖骨は見えているだろうし、ご飯を食べるために上半身を屈めているから、もしかしたらそれより奥まで男からは除き見えるのかもしれない。口の中の食べ物が、急に飲み込みにくく思えてくる。
「怖くない?」
「え?」
唐揚げを頬張ったまま、晶は顔を上げた。男がこちらを見ている。穏やかな微笑を浮かべて。
「レイプされるかもしれない、とかさ」
晶は、咀嚼していた唐揚げを飲み込んだ。胃の中に無理やり収めるみたいに。
「……したいんですか?」
「したいよ、すごく」
男の微笑が、いっそう深まる。細められた目を見て、晶は何故か花が開花していく映像を思い出した。理科の授業で目にした、早送りの開花映像。細いつぼみから、はっとするほどに濃い紫の花びらが溢れ出していく様子。匂い立つような妖艶な何かが、急にこの部屋に満ちていくような気がした。
「でも、嫌われたくないから、しないけどね」
男が立ち上がる。「お茶入れてくるね」と言い残して。晶はその背中を黙って見送った後、弁当に視線を戻しまた唐揚げを頬張った。
この人は自分の考えてることを伝える時、あんまり目を合わせないな、と晶は思った。お風呂場での問答でも、今のやり取りでも、向かい合っている時間はあまり長くない。男がお茶を淹れにいったのも、まるで怯えて逃げ出したみたいに見えた。
怖がりなのかな。晶はぼんやりと考える。誘拐した側の方がおどおどしてるなんて、なんだかすごく変な気がした。それとも、俺に「嫌われたくない」からそうなっちゃうのだろうか。視線を手元に落とす。お弁当の容器の隅で、油の残滓がうっすらと光を帯びているのが見えた。
夜の八時。晶は男と一緒に部屋のテレビを見ていた。男は一人がけ用の椅子に座って、晶はベッドに腰掛けて。晶はバスローブ姿のままだった。乾燥機にかけた制服は渡されたが、何となく着る気にはなれなかった。テレビには見慣れたバラエティ番組が映っている。チャンネルは男が選ぶのに任せている。今まで一度もニュース番組を選んでいないことに、晶は気づいていた。それが意図的なものなのか、たまたまなのかは分からない。
随分と長く、男と一緒に居るような気がした。誘拐されてから、まだ一日と半日ほどしか経っていないのに。ずっと部屋の中で過ごしているから、変に長く感じるのかもしれない。一緒に出かけたり、何か大きな出来事でもあれば、時間がすぐに過ぎていくのだろうか。
晶は未だ、男に手を出されていない。そもそもとして、肌が触れ合ったのさえ、このホテルに入ってから一度も無いのだ。この男が自分に何を求めているのか、晶はさっぱり分からなかった。
男はテレビを眺めている。鮮やかな光に照らされた、白い横顔。張り詰めているようにも、ぼんやりしているようにも見えた。
「昔ね」
男がそう口を開く。まるでこの瞬間に何歳も老けてしまったような、どこか疲れ切った声で。
「絶対にしたくないことを教えてくださいって、言われたんだ。俺が嫌がるようなことはさせないって」
男は晶を見ていない。視線はテレビの方に向けられているように見えたが、実際はどこも見ていないんじゃないかと思えた。
「嬉しかったな。嫌なことはさせたくないって、そんな風に思ってもらえるのはあんまり無かった気がするから。俺がなんでも平気みたいに振る舞ってたせいもあるんだろうけど」
男は無表情だった。けれど、耐え難い悲しみのような何かが、彼の中に満たされている最中のように見えた。寂しさ、もしくは苦痛のようなもの。
「だから、俺にもそうしてくれるんですか?」
ほとんど無意識のうちに、晶はそう言っていた。男が驚いたようにこちらを見る。
「俺に嫌われたくないからって、そう言ってたので。あと、俺に無理やり何かをさせることも無かったから……」
「……そう見える?」
「はい」
「困っちゃうな」
男が俯くようにして笑う。両手の指を、落ち着かなさそうに擦り合わせて。
「その人が言ったこと、俺も素敵だと思います。俺もそうしたいです」
だから、したくないこと、俺にも教えてくれませんか。晶はそう言った。それはひどく勇気の要ることだった。男が語ったその人と同じことをしようとするのは、その人を侮辱しているようにも思われるのではないか。そう思いもしたけど、こういうことを言えるのは、今この時しか無いと思えた。男が苦笑する。言わなきゃ良かっただろうか。晶が後悔しかけた時に、男は口を開いた。掠れた、他の音にかき消されてしまいそうな声で。
「一人ぼっちにはなりたくないな」
「なら、ずっと一緒にいますよ。誘拐されておいて、こんなこと言うのは変かもしれませんけど」
「それを言うなら、俺だって誘拐しておいて変なことばっかりしてるよ」
晶が微笑する。久しぶりに、ちゃんと笑えたような気がした。この男と出会ってからではなく、学校に通ってる間、自分を取り繕うことを覚え始めた頃から。
憂鬱の種はいくらでもある。これからのこと。受験や、両親のことや、どうやって生きていくかについて。けれど、今自分が一番向き合いたいと思っているのは、この男だけであるような気がした。