水を吐いては息継ぎをする

 はじめてそこに連れていかれた日のことを、晶はよく覚えている。晶が小学二年生の時の、冬のように寒い秋の昼間のことだった。
 受付をする母親の後ろ姿。いかにも待合室らしい、くすんだピンク色のソファー。リノリウムの床はぼんやりした灰色で、よく見ると細かい擦り傷がたくさんついていた。
 晶はソファに座ったまま、俯くようにしてその傷をじっと眺めていた。彼がこんな風に何かを注視するのは、学校でもよくあることだった。そして大抵、担任の先生に怒られるのだ。まさきくん、今は授業中ですから、黒板の方をちゃんと見てください。そう言われて顔を上げると、怖い顔をした先生と、振り返ってこちらを見ているクラスメイトの顔が視界いっぱいに並んでいるのだ。
 看護師に呼ばれて、母親に手を引かれながら診察室へ向かう。白い扉。淡いグレイの仕切り。看護師さんがひとり。幼い両目がせわしなく情報を拾い上げる。けれど次の瞬間には、その目は一人の男に釘付けになった。
「こんにちは」
 晶はその男を見つめていた。男もまた、晶を見つめ返していた。肌が白い、と晶はまずそう思った。まつ毛がすごく長い、とも。女の人みたいな目だと思った。男がきれいな目をすうっと細めて微笑を浮かべる。そしてもう一度晶へ声をかけた。
「こんにちは」
 晶は返事をせず、男を見つめたまま黙って瞬きをした。
「あきらくん」
 男が名前を呼ぶ。どうして名前を呼んだのだろう。晶がそう考えていると、母親の焦ったような声が背後からした。
「あきら、先生にこんにちはって言いなさい」
 そこまで言われて、ようやく返事を求められていたのだと晶は理解した。これはいつものことだった。他の子より一拍遅れて「さっきすべきだったこと」を晶は理解するのだ。母親に言われたとおりにすると、男はにっこり笑って「椅子に座っていいよ」と言った。
 晶が丸椅子に座ってから、男の問診が始まった。しかしそのほとんどは母親が受け答えをするばかりで、男もまた晶の回答を求めていないようだった。母親が話す内容を、晶の耳が断片的に拾い上げる。勉強はできるものの、学校生活のあらゆる場面で他の子より後れを取っていること。子供らしく歓声をあげたりはしゃいだりといった反応を示さないこと。いじめられてはいないものの、クラスで馴染めていないこと。そんなことを話しているのだけは理解できた。
 この部屋は暖房が効きすぎている、と晶は思った。そのせいで頭は少しほてっているし、頬は乾燥している。汗をかいた両手を擦り合わせていると、「あきらくん」と名前を呼ばれた。顔を上げると、やはり笑みを浮かべた男がこちらを見ていた。
「少しだけ先生と一緒にお話ししようか」
 母親が看護師に連れられて部屋を出ていく。診察室の中は、晶と男の二人だけになった。
 カタン、という音がした。男が手にしていたボールペンを、机の上に転がした音だった。
「さっさと終わらないかなって思ってる?」
 男が言った。晶はほんの一瞬だけ考えて、首を横に振った。
「そう?いい子だね」
 小さい頃の俺よりも。呟くように男が言う。
「面倒だよね。学校って」
「……」
「俺はね、猿の群れに放り込まれた気分だったよ」
 晶は戸惑っていた。大人が自分に対して、こんな話をすることが初めてだったから。学校は楽しいかとか、勉強は何をやってるのとか、大人が晶に話しかける時はそういう話題ばかりだった。
 男が丸椅子を動かして晶との距離を詰める。やや前屈みになって晶と視線を合わせた。「あきらくん」と名前を呼んで、注意を引き付けてから男が続ける。
「お母さんとか先生に、『ちゃんとしなさい』って怒られたことはある?」
 晶が頷いた。
「あとは『真面目にやりなさい』とか『普通にしなさい』とか『遊んでないで』とか言われたりした?」
 もう一度頷く。
「実を言うとね、それは全部『他の子どもと同じことをしなさい』っていう意味なんだよ」
「……」
 晶はぽかんとして男を見た。本当に?半信半疑のまま男の説明を理解しようとする。確かに「ちゃんと」や「普通」の意味を大人に説明されたことはなかった。大人に望まれる姿がどんなものか分からないまま、それでも必死に考えてそれらしく振舞おうとしても怒られてばかりだった。机の角をじっと見つめている自分が叱られて、隣の席で消しかすを鉛筆の先で潰している男の子がなぜ怒られていないのか、不思議でならなかったのだ。あれは、「遊んでいてもいいから、みんなみたいにノートを開いて鉛筆を手に持っていなさい」という意味だったのだろうか。
 男が腕を伸ばして、晶の両肩を掴んだ。「いい?よく聞いて」真正面から二人が見つめ合う。
「大人が君にして欲しいことは、『他の子と同じことをしなさい』しかないんだ。それ以外にして欲しいことなんてさして無いんだよ」
「……」
「だから、周りの子をよく見て、真似をしなさい。意味が分からなくてもいい。ただ同じようなことをして、同じようなことを話せばいいんだ。大丈夫。大人が子供から聞きたい言葉なんて、一つか二つかないんだし、周りの子は自分以外の子供のことなんて頭にないんだから」
 晶は呆然と男を見つめ返していた。それを見て、男は仕方ないなあという風にちょっとだけ表情を崩して笑う。
「こうやってね、大人が君の目を見ながら話してたら、『はい』か『分かった』って言うんだよ。大人はそう言って欲しいんだ」
「はい」
「そう。いい子だ」
 男が肩に置いていた手を離す。そしてもう一度「いい子だね」と呟くように言った。
「説明をしないよね。周りの大人は」
 小窓の向こうに、緑の葉っぱと空が見える。外はとても寒いのだと、病院に来るまでの道で晶は分かっているはずなのに、そうやって切り取られていると、とてものどかで暖かそうな場所に見えた。
「お遊戯会とかピアノの発表会とかも、何のためにやるのかとか教えてくれないでしょ。体育もさ、運動習慣をつけるためとか体力作りのためとか説明してくれたら良かったのに、なんで教師の言いなりになって飛んだり跳ねたりしなきゃいけないのか分からなくて、俺はずっと苛々してたな」
 晶は返事をしなかった。男の目は、晶ではなく小窓の向こうを見ていたから。
「俺はねえ、全部茶番だと思ってたよ。君くらいの年齢の時は。もう少し大きくなったら、部族の風習だと思うようになったね。ほら、テレビとかでやってるでしょ。口にフリスビーみたいなピアスをつけたり、ほとんど裸で過ごしたり、虫を焼いて食べたりする部族。死ぬほど馬鹿馬鹿しいし、やりたくないって思っても、その部族の中で生きるんだからどう思ってても従うべきなんだって理解したよ。全校集会で並んで座るのも、卒業式の掛け合いも」
 男はまるで、うんざりしているような顔をしていた。顔は小窓の方を向いているが、彼が実際に何を見ているのか、それとも何も見ていないのか、晶にはよく分からなかった。男の視線が晶に戻される。目が合って、再び男は少しだけ笑った。
「大丈夫。すぐに『大丈夫になる』よ」
 その言葉の、意味は分からなかったが男が何を伝えたいのかは感じ取ることができた。晶が返事をしようと思った瞬間に、背後のドアが開かれた。看護師が戻ってきたのだ。
 それからの数分間、男は今までと全く違うことを晶に聞いた。「学校は楽しい?」とか「お母さんは優しい?」というようなことを。晶はそのすべてに「はい」と答えた。ただ、途中から疲れて、椅子に座ったまま徐々に背中が丸まっていった。くたびれたクマのぬいぐるみみたいに。疲れちゃった?と男が聞く。
「じゃあ、今度はお母さんとお話しするから」
 看護師が何か言いながら、晶の背中に手を添えて別室へと連れていく。案内された部屋は、さっきの待合室によく似ていた。狭い部屋の半分がキッズルームのようになっていて、カラフルなマットが床に敷き詰められている。壁の一部はガラス張りで、廊下から中を覗けるようになっているらしい。部屋のもう半分はソファーが置かれていて、すぐそばには小さな本棚があった。
 晶はソファに腰を下ろすと、本棚から「ふしぎなかぎばあさん」を取り出した。それは読んだことのある本だった。けれど、はじめての場所で知らない本を読むより、知ってる本を読む方が晶の性にあっていた。晶は静かにその本を読み続けた。白い靴下を履いた足先が、床まで届かず宙に浮いている。子供用のスリッパが、そのつま先に引っかかっていた。
 それからどれくらい経っただろう。頭のてっぺんに重いものが押し付けられる。それが動くのに合わせて、小さな頭もゆらゆらと揺れた。撫でられている、と理解するより先に、男の人の手だ、と晶は思った。背後を見上げると、あの男が立っていた。
「急に触られても、びっくりしないんだね」
 男が晶を抱き上げた。そうされても本を手放さなかったために、そういうポーズを取っているぬいぐるみのようにして腕の中に収まっていた。男が晶のつむじの辺りに鼻先を押し付ける。
「あきらくん、ホットケーキミックスみたいな匂いがする」
 男が本を晶の手から受け取り、ソファの上に置いた。晶を抱き上げたまま廊下に連れ出す。角を曲がる直前で晶を下ろした。待合室近くの廊下で、母親が看護師に付き添われながら立っているのが見えた。母親のそばまで行き、男が言う。
「大丈夫ですよ。先ほども説明しましたが、学校に緊張しているだけだと思います。ほら、一年生の子って、親と離れたくなくて学校に来ても泣いちゃう子がいるじゃないですか。それと似たようなものですよ。大人だって、仕事に慣れるのに──」
 母親と男がいくつか言葉を交わす。頭上で繰り返されるそれを、晶はぼんやりと眺めていた。ようやくそれが終わって、母親が頭を下げた後に晶の手を引いて待合室へ向かう。途中で、晶は一度だけ男を振り返った。男はそれを見てにこりと笑う。
「大丈夫だよ」
 男がそう言ってくれたような気がした。こちらに手を振る男の、白衣の裾が魚の尾のように揺れている。目に痛いくらいの白さを持って。そこでようやく、晶はあることに気づく。あの人、お医者さんだったのかな。晶は今日、母親に何の説明もされずに連れられて来た。ここに来るまでに晶が母親に言われたのは、「病院に行くの」でも「お医者さんに診てもらいましょう」でもなく、「大人しくしているのよ」だけだった。

 細かい傷のついた、リノリウムの床。くすんだピンク色のソファーも、少し効きすぎている暖房もあの頃と全く同じで、晶は奇妙な気持ちになった。
 母親が受付で会計を済ませている。もう高校生になるのに。晶は頭の中でそう呟く。もう高校生にもなるのに、たびたびこの病院に来ているなんて、子供の頃の自分には想像もつかないだろう。受験期には一年に数回は来ていた。
 けれどそれは、晶を治療するためではなく、母親の不安を和らげるためという方が正しかった。晶が不調を訴えていてもいなくても、ここに来ればすべてが解決すると思い込んでいるのかもしれない。働いている看護師もそれを察しているのだろう。そして、あの人も。
 診察室で聞いた声が頭の中で思い出される。
「頭痛ですか。ええまあ。精神的な問題で起こるものもありますからね。まあでも最初は頭痛外来に行った方が良かったかもしれません。もしストレスなどが原因なら、心療内科になるでしょうし……。うちは精神科なので。ええ。はい。晶くんとお話してみます」
 今思うと、当時来るにしてもここは適していなかったのではないだろうか。こどもメンタルクリニックとか、そういう病院が昔もありそうな気がするが。
 会計を終えた母親と共に外へ出る。あたたかい日が続いているせいか、例年より早く咲いている桜が駐車場脇に並んでいる。風は冷たいのに、気温はあたたかい。胸の芯が膿んだようにむず痒くなる。良かったわね、と母親が言った。診察結果を聞いたわけでも、晶が話したわけでもないのに。晶はそれに「うん」と返した。

 帰宅して、友人とランチに行くのだと言う母親を見送った。その姿が完全に見えなくなったのを確認してから、自転車に乗って家を出た。ついさっき、家に向かうまでに通った道を逆戻りする。
 子供の頃はずいぶん遠くに感じていた病院も、自転車なら少しもしないうちに着いてしまう。母親が自転車に乗れないということを、晶が知ったのは小学校を卒業する頃だった。中学まで練習していたけれど結局乗れないまま大人になったらしい。
 それを知って、なあんだ、と晶は思った。なあんだ、自分も他の子と同じになれない癖に、息子にはそれを求めたんだ、と。
 病院の裏手には公園がある。そう広くはない。遊具がいくつかあるくらいだ。子供が道に飛び出さないようにか、入口以外は腰まである柵に囲まれている。その柵に、もたれかかりながら煙草を吸っている人影がある。さっき診察室で向かい合っていた男。晶に気がつくと、煙草を持っている方の手をひょいと持ち上げた。
 公園もまた、桜の木に囲まれている。薄桃色の花びらがゆるやかな速度で降り注いでいた。その花びらと見比べても、やはり男の肌は抜けるように白かった。
「やだよねえ、分煙の時代」
 あいさつ代わりに男はそう言った。晶は自転車を停めながら「本当はここも禁煙だと思います」と言うべきか迷い、結局口には出さなかった。晶もまた、柵に身を預けて隣に並ぶ。踏みしめられた桜の花びらが、地面の上に散らばっている。
「さっきさあ、子供の頃の君を思い出してたんだけど」
「俺ですか?」
 男は煙草を吸う手を止めて、まじまじと晶を見た。その瞳を囲うまつ毛は長い。あの日診察室で見たものと、全く同じ長さをしているように見える。いやあ、と男が感嘆するように言った。
「きれいになったなあと思って」
 晶は思わず笑ってしまった。そんなの、年頃の女の子が親戚の人なんかに言われる台詞じゃないだろうか。
「大きくなったねって言うんですよ。こういう時は」
「そう?そういうもんかな」
 俺が教えられる側になっちゃったかあ、とぼやく声は昔のままだ。肌も髪も、煙草を持つ指先の仕草も、老いというものを少しも感じさせない。子供の頃に出会った時の彼が、そのままここにいるのだと言われても信じてしまいそうなほどに。
「でも、確かにちっちゃかったよね。たったこれくらいでさ」
 男が両手で示してみせる。
「テディベアみたいだったもん。キッズルームに行ったらぬいぐるみと見分けがつかなくて、どれが君か分かんなかった」
「それは流石に言い過ぎです」
 あの頃、この人はいったい何歳だったのだろう。三十を越しているかどうかくらいに見えた。幼かった分、大人というだけでみんな親と同じくらいの歳に見えたのかもしれない。もしかしたら、大学を出てすぐだったのだろうか。それを踏まえても、やはり今の彼は若々しい。
 そんな風に考え事をしていると、不意に男が晶に顔を寄せた。一瞬、あらぬことを想像して晶は反射的に顔を背けかけた。しかし男は意に介さず、晶が想像していたのとは反対の──後頭部の方へ首を伸ばした。
「……」
 なにしてるんだ、この人。
「……あの」
 晶が頭を手で庇いながら身をよじる。
「煙を吹きかけないでください」
「ええ?いや違うって」
 男が笑って、その拍子に薄い唇から煙が吐き出された。淡く広がって、春の空気の中に溶けだしていく。
「ホットケーキミックスの匂いがするかと思って」
「……どういう意味ですか?」
「あはは、覚えてない?」

 社会は晶にとって、やはり理解しきれないものとして目の前に横たわっている。たとえばバイト先の上下関係。シフトに入る前に、どの順番であいさつをしなくちゃいけないとか。あとは教室の中に蔓延している、意味不明な暗黙の了解とか。部活の中でさえ「お伺いを立てる」ことが求められるのは流石に辟易してしまった。
 大人に近づくにつれて経験が増えていくのだから、本当なら今頃、もっと明瞭に社会や常識が見えてきているはずなのに。歳を重ねるごとに求められるものが増えていくのはあまりに理不尽じゃないだろうか。
 それでも、子供の頃よりは余裕を持てるようになっていた。晶はこの社会のシステムを、またはそれに順応している人たちのことを、軽蔑することができるし、憐れむこともできる。少なくとも、できない自分を責めるばかりではなくなったのだ。
「医局のさあ、飲み会の翌日になにすると思う?」
 男が煙を吐きながら言う。
「参加してた人全員に『昨日はありがとうございました』って頭を下げるんだよ。自分が幹事だとしても」
「うわあ」
 晶はくすくすと笑った。遠い国の、自分とは関係のない場所で起きていることを面白がるように。
 悪いことばかりじゃない、と晶は自分に言い聞かせる。これは、胸の鼓動や血の巡りの仕方と同じように、矯正しようのない部分なのだろうと分かるけれど。でも、それが理由で惹かれ合ったというのは、もしかしたら幸福に満ち溢れているのではないか。好きなものがきっかけになるよりは不道徳的かもしれない。でも、多分、こういう風に仲良くなる方が、ひそやかでむず痒くて、心地よいもののように思えた。