遺書代わりの小説6

 その日の中休み、クラスの女子に「四葉のクローバーを探すのを手伝って欲しい」と言われた。私は了承し、放課後にその子と校庭に出て、クローバーがたくさん生えている一角に二人して行った。
 しゃがみ込んだ格好で、クローバーの群れに手を突っ込んでかき分ける。「四葉は手で探すのが一番いいんだよ」とその子は言っていた。折り重なるように密集したクローバーから、目だけを頼りに四葉を探し出すのは確かに大変そうだった。けれど、彼女の言う「手で探す」の意味もよく分からず、私はただ曖昧に頷いておいた。
 放課後ではあったが、まるで昼間のように日が照り返していた。私たちの背にも、日差しがゆったりと降り注いでいる。あせもができてしまいそうなほどに、背中が火照っていくのが分かった。今思い返すと奇妙なことなのだが、当時の私にとって、太陽は実際よりずっと近くにあるもののように思えていた。二十歳を超えた今の方が、空にずっと近い背丈をしているはずなのに。あの頃は、空のもっと下の方に太陽があったような気がする。それはいつも私たちのすぐそばにあって、ふと気がつくと、頭のてっぺんや背中をじりじりと焼いているのだ。
 日なた特有の、あたためられた砂の匂いがする。背後で、遊び回る子供たちの歓声が聞こえていた。彼らの何人かが走りだすと、足先で巻き上げられた砂埃がこちらにまで届いた。そういう時、砂地の埃っぽい匂いがいっそう強くなるのだった。
 ほどなくして、四葉のクローバーは見つかった。慎重に、茎の根元近くから摘んだ。その子に見せると「良かったじゃん」と言われた。
「欲しかったんでしょ。良かったじゃん」
 おかしなことに、なぜかその子の中で「私が四葉のクローバーを欲しがって、彼女に手伝わせた」ということに事実がすり替わっているらしかった。本当は逆であったはずなのに。私は奇妙に思いながらも彼女の言葉に頷いた。小学生の頃、こういうことは多々あった。そしておそらく、私の方も無意識にそういうことを誰かにしていたかもしれない。
 まだ校庭に残る、と言った彼女を置いて、私は家に帰ることにした。校庭の隅に置いていたランドセルを背負い、手には四葉のクローバーを握りしめて。生徒玄関前を通りかかった時、私はあかねちゃんとばったり会った。彼は外玄関の、レンガづくりの階段に座り込んでいた。正確には、座っていたとは言えないかもしれない。背負ったままのランドセルの底を階段に引っ掛けるようにして、お尻からずり下がるように脚を伸ばして腰かけていた。赤い半袖のTシャツに黒い半ズボン。あかねちゃんはぼんやりと空を見上げていて、けれど私に気づいた瞬間に腰を上げた。
「帰り?」
「うん」
 私はそう答え、「あかねちゃんは何してたの」と尋ねた。
「なんもしてへん。ここにいただけ」
 あかねちゃんは、途中まで一緒に帰ると言った。彼の家は反対方向だったが、「まだ家に帰りたい気分じゃない」という理由でついてきた。二人並んで歩き続ける。通り過ぎていくコンクリートの壁や、空き地に張られた立ち入り禁止のロープを、あかねちゃんが指先で無為に触れていく。
「なに持ってんの?」
 あかねちゃんに言われて、私は手の中のものを彼に見せた。四葉のクローバー。さっき持ち帰ったものだ。あかねちゃんはしげしげとそれを見た。
「自分で見つけたん?」
「もらった」
「はーん」
 本当は自分で見つけたものだけど、心情的には嘘ではなかった。あかねちゃんはなぜだか愉快そうに、私の手と顔を交互に見た。にやにやとしたまま、あかねちゃんが言う。
「別にいらないって顔しとるで」
 そうかもしれない。私は不意に、手の中のクローバーが色あせたものに見えてきた。ずっと握っていたためにくしゃくしゃになったその見た目も、黄ばみ始めた葉っぱの付け根も。クローバーはほとんど羽虫の死骸のように、小さく縮こまった姿をしていた。私はそれを、無言で用水路に投げ捨てた。特に躊躇いはなかった。クローバーは紙くずよりずっと頼りなく、流水に飲まれて視界から消えていった。私もあかねちゃんも、それ以降四葉について言及することなく、お喋りを続けていった。
「プリキュア見てる?」
「見とらん」
 アニメと漫画とゲームは、私たちの共通の話題だった。あかねちゃんは女児用と思われる作品でも面白ければなんでも見る、あの頃にしては珍しい男の子だった。私の方も、勧められさえすればなんでも見た。金色のガッシュとメルヘヴンは、あかねちゃんに言われて見始めたものだ。
 プリキュアは、ちょうどシリーズ一作目が始まっている頃だった。私は飛び飛びでしか見ていなかったし、大人になった今では内容もほとんど忘れてしまったものの、あの革新的なオープニングだけはずっと頭に焼き付いていた。
「いちなんさってまたいーちーなーん」
 私は突然、そのオープニングを歌い始めた。プリキュアを見ていないと言ったあかねちゃんに、曲だけでも素晴らしさを伝えたかったのかもしれない。しかしまあ、唐突な行動だったなと今になって思う。あかねちゃんはしばらくの間、黙って神妙に聞いていたのだが、不意にブラックジャックのオープニングをかぶせるように歌い始めた。
「きせつーはめーぐーりー、もりはーそめーらあーれー」
 私は少しびっくりして、でもあかねちゃんが、なんだかにやにやしたまま目を合わせてきたので、彼の考えていることが分かったような気がした。あかねちゃんが歌うのを聞きながら、私もやめずに歌い続けた。まるで張り合うように、私も彼も、どんどん声を大きくしていった。あかねちゃんがおどけるようにわざと歌詞を伸ばして歌うと、私もそれに倣った。歌いながら肘で押し返し合う。時折にやにやしながら互いに目くばせをした。道の端で、歩きながらもつれ合って、もう喉が痛くなるくらい声を出していたところで──私たちはこらえきれず、声をあげて笑った。喉が張り裂けるんじゃないかというほどの笑いだった。息継ぎすることもままならなくて、笑い転げる合間に、なんとか呼吸を整える。
 自分の肉体が、制御不能になってしまったかのような興奮の中で、私はふと自分の腕が目についた。さっき、あかねちゃんと散々ぶつけ合ったところだ。その、肘の部分が、やけに生白く見えた。白くて、やわらかそうで、まるで哺乳瓶のゴム質部分のようだった。自分の肘はこんな風だっただろうか?
「なに見とるん」
「腕が白い」
 何を今さら、という顔をして、あかねちゃんは咳をするように笑った。さっきの余韻がまだ喉に残っているに違いない。
「昨日も一昨日も、白かったで」
 そうなんだ、と私は思った。あかねちゃんが言うならそうなんだろう、と。
 そろそろ帰るわ、とあかねちゃんが言うので、私たちはその場で分かれた。気がつくと、外は暗くなりかけていた。あたり一帯が青く染まっている。道の脇に水仙が咲いていて、息を呑みそうなその花の色が、うす青の中に滲んでいた。私は片腕を目の高さまで掲げた。空気の中に透かして眺めたのだ。私の肘はやはり白く、奇妙なかがやきを持ってそこにあった。