「一ヶ月ほど、音信不通になるかもしれません」
ホテルの最上階にあるレストランで、美空は突拍子もなくそう言った。それを聞いて、毒島は手を止めて言葉の続きを待ったが、美空は前菜をお行儀よく食べていくばかりで、それ以上説明するつもりはないようだった。
普通、音信不通という単語は、失踪する本人ではなく、家族とか恋人とか、もしくは警察なんかが口にするものだろう。
そんな疑問を抱きながらも、この男はこういう話し方しか出来ないのだと諦めたような顔で、毒島は問いかけた。
「仕事か?」
「まあ、そんなところです」
「ふうん」
毒島は、それ以上追求しなかった。こういう仕事をしていれば、家族にも友人にも恋人にも、おいそれと打ち明けられないトラブルが舞い込んでくることを理解しているからだ。
そう、”恋人にも”、だ。
毒島は、ほっそりとしたグラスを傾けて、波打つブランデーをすいと口に含んでみせた。アルコールによって、たった一瞬だけ喉が焼け爛れたかのように熱を帯びる。鼻から抜けていくブランデーの香りを感じながら、毒島は目の前の恋人をじっと見つめた。いや、恋人という言葉が当てはまるのかも怪しい。毒島の視界の中で、ガラス越しの夜景が美空の頬を艶やかに照らしていた。
夏の夜風になぶられながら、美空は深夜の都心を歩いていた。
美空と毒島が、レストランで食事をしてから十五日ほど経っている。そして同じ日数ぶん、美空はこの都心の中へ、久々に足を踏み入れていた。今日に至るまで、とある地方都市に身を潜めていたのである。
たった半月ほど離れていただけだというのに、妙な懐かしさが美空の胸を満たしていた。
この、煩雑とした都会の夜にしか無い、生温かい風が鼻先を掠める。夜特有の涼しさや静けさなどはここには存在しない。生きている人間の、汗や呼気の混じった空気が、肌に張り付いては剥がれていく。
美空は、繁華街に立ち尽くしたまま、唇に浮かべた笑みをより深くする。愉快で仕方が無かったのだ。この自分が、夜の都心というものに一種のノスタルジーめいたものを感じているという事実が、である。
紅い唇の両端を持ち上げて、美空はそっと人混みを見渡した。ネオンの中に、雑踏の白い顔が浮かび上がる。誰も彼も、隠しきれない欲望と皮脂を、肌にまとわりつかせては恍惚とした表情を浮かべていた。そこに、美空が求める男の姿は無い。
美空は、何となく分かりきっていたような、がっかりしたような気持ちになりながら、人の波へ混ざり始めた。そうして歩きながらも、やはり美空の目は、あの下品で明朗な男の顔を探していた。
美空の頭に、ついさっき確認したメールの受信画面が思い出される。きっかり十五日間。つまり、レストランで共に食事をしたあの日から、毒島からの連絡は一度も寄越されていなかった。
それから数時間もしないうちに、美空はとあるクラブを訪れていた。彼にとって、酒を出す店として今夜訪れたのは、ここで二件目である。美空はカウンターに一人で座り、ジャズの生演奏を聞きながら、静かに酒を飲んでいた。
美空へ声をかけようとする者はいなかった。時折、吸い寄せられるように目を向ける者はいたが、どこか浮世離れした彼の様子を見て、僅かな逡巡の後に無言でその場を立ち去るばかりだった。しかし、ただ一人だけ、美空に近づく男がいた。
ふ__と、風が触れるようにして、その男は美空の肩に手を置いた。美空は音も立てずにカウンターへグラスを置いて、そっと背後を振り返った。
白い肌をした男だった。石膏のような肌に、サングラスをかけている。紺のシャツが、肌の色をより際立たせていた。
その男を見て、美空が微笑む。普段彼が浮かべている微笑と違い、明らかな親しみを目元に滲ませていた。
「お久しぶりですね」
「ああ」
サングラスの男が答える。男は美空の隣に座らずに、立ったままカウンターへ腰を預ける。男の右手には、まだ氷の溶けていないグラスがあった。それで唇を湿らせながら、男が口を開く。
「あんたの顔を見るのは、もっと先になるかと思ってたんだがな」
「どういう意味ですか?」
「もうしばらくは、あんたはここに来ないだろうって教えられたんだよ」
「おやおや」
美空は苦笑する。アルコールで濡れた紅い唇が、何かの生き物のように複雑にうねった。
「随分口が軽い人がいたんですね」
「口が軽いかは分からないが、下品なのは確かだ」
男はまたグラスへ口をつける。しかしグラスの中のジントニックは、少しも減っていないように見える。
「その話をされたのは、おれくらいだろうから安心しなよ」
「……座らないんですか?」
美空が自身の隣を指し示す。サングラスの男は首を振った。
「連絡しなきゃならないとこがあるんだ」
そう言って、男は静かにその場を去った。美空はカウンターへ目を落とす。さっきまでそこに男がいたのが嘘のように、気配も匂いも消えていた。ただ、ジントニックの香りだけが、鼻を掠めたように思えた。
それから30分もしない頃だろうか。店に、一人の男がやって来た。
美空は、その男が入ってきた瞬間にそれを察することができた。美空から見て、店の出入り口は真後ろにある。そのために、男を目視することなどできなかったはずなのに、美空は何もかもが分かっていたようだった。その男の顔も、脚の運び方も、身に付けているスーツのブランドまで、目で見たように分かっていたに違いない。
店の入り口から、真っ直ぐに近づいてきた足音が、美空のすぐ真横で止まった。そのまま、声をかけることすらせずに、美空の隣へ腰掛ける。そこは、先程美空がサングラスの男に勧めた席だった。
その間、美空は微動だにしなかった。やや俯き加減にカウンターへ視線を落とし、口元にあの微笑を浮かべていた。美空がやっと反応を見せたのは、美空の太ももへ、男が手を置いた瞬間だった。骨張った、男らしい手が、美空の肉付きを確かめるような手つきでそこに置かれている。ふ、と美空が僅かばかり息を漏らした。スラックス越しに、二人の体温が交わり合う。先に口を開いたのは、男の方だった。
「てめえはほんとうに、可愛くねえ男だな」
低い声だった。成人し、そして普通以上に体を鍛えた男が出した声だろうと、聞いただけで分かりそうだった。その声が、妙ないじらしさを含んでいる。すねた子供が発したような、甘やかな余韻があった。美空は、胸をそっとくすぐられたような気持ちになった。
「一言くらいは、知らせかなにか寄越してもいいんじゃないか」
「ついさっき、帰ってきたものですから」
「でも、酒を飲み歩く時間はあったんだな」
男の声が、どんどん子供っぽさを増していく。あからさまに機嫌を損ねていた。それを聞いて、美空は思わず笑ってしまった。
「毒島さんを起こしたら悪いと思ったんですよ。もう、遅い時間でしょう」
子供に言い聞かせるように、美空は言う。隣の男__毒島は、返事をしなかった。むっつりと黙り込んだその姿に、いよいよ子供を相手にしているような気持ちになる。
美空はようやく、隣に座る毒島へきちんと顔を向けた。カウンターに肘を付いた、端正な横顔がそこにあった。白い額に、ゆるくカールした前髪がかかっている。クラブの複雑な照明を浴びて、その前髪が作る影が、彼の顔を凄絶なほどに美しく彩る。
美空の予想に反して、毒島は苛立ちを顔に出していなかった。ただ、何の感情も読み取れない白い横顔だけがそこにある。それがより一層、彫刻めいた美しさを際立たせていた。
美空が口を開く。ひどく愉しげな声が出た。
「より男前になりましたね」
「ちえっ」
毒島が顔を歪めた。眉を寄せて、唇の片端を下げる。ようやく彼の顔に、感情らしいものが宿った。そこまで顔を歪めても、毒島の美しさは微塵も損なわれていなかった。
「分かりやすいご機嫌取りだな」
「でも、嬉しいんでしょう」
毒島は答えずに、美空の太ももに置いていた手を、内股へすべりこませた。それからしばらくの間、二人の間に沈黙が落ちた。背後の演奏に聞き入っているのかもしれないし、ただ会話が思いつかないだけかもしれない。もしくは、二人の間で育ちつつある燻りを楽しんでいるように見えた。ふと、美空が思い付いたというふうに声を上げる。
「関根さんには、後でお礼をしなきゃいけませんよ」
「分かってらあ」
出来の悪い弟を諭す姉のような口調だった。
「そんなに、わたしが信用できませんか」
「ああ。できないね」
「へえ__」
美空の声が一気に険を帯びる。意識的に、そういう声を出していた。お返しのように、分かりやすく拗ねてみたのである。浮気を疑ったことについて、形だけでも毒島に謝罪させてみたかったのだ。しかし毒島はそれに構わず、いつも通りの堂々とした声で言ってみせる。
「おれはな、二種類の人間しか信用しない。死体と、やらせてくれた女だけだ」
「やらせてくれた男は、信用しないんですか」
「しない」
やけに真面目な声で返されて、美空は思わず笑ってしまった。彼にしては珍しく、小さく声を上げて笑っていた。
先ほどの、形だけの不機嫌さはすっかり失われていた。そもそもとして、毒島が現れた時点で、美空はそれなりに機嫌が良かった。
毒島が、こんな夜中に、わざわざ自分に会いに来た。しかも、前もって見張りめいたことを他人に頼んでまで。それが、愉しくて仕方がなかった。手を叩いて笑い出したいほどだった。
美空の頭の中に、メールの受信画面が思い浮かぶ。夜の雑踏の中で開けた、白々とした携帯の画面。「音信不通になるかもしれない」と自分から言っておいて、いざ連絡が来ないことに落胆した自分のことが、美空は今更になって恥ずかしくなってきた。
東京に帰ってきた、と毒島に連絡するのが躊躇われた。こんな夜中に伝えておいて、翌朝になっても返事が来なかったら、ひどく惨めな気持ちになるのだろうと思った。本当は、こんな問答を繰り返しているこの状況の方がずっと惨めであることを分かっていたのに。
そんなことを考えていると、太ももに置かれていた毒島の手が、不意に離れた。失われた体温を名残惜しく思っていると、意外なほどの力強さで肩を抱き寄せられた。
「行こうぜ」
毒島に連れられて、反射的に席から立ち上がっていた。連れられながら、美空はそっと言ってみる。
「どうしましょうか」
「なんだよ」
「”やらせて”も、金は払わないし信用もしてくれない男に、相手をしてあげていいものかと思って」
怒るかもしれない、と思いながら美空は言った。まだ、こういう関係になっていなかった時の、毒島とのやり取りを思い出す。怒った声でなにか喚くのかもしれない、と考えていた。しかし実際は、そうではなかった。
「ばか」
毒島は、呆れたような拗ねたような声で、そう返しただけだった。美空は、なんだか自分が負けたような気持ちになって、大人しく毒島の後をついていった。
二人並んで、夜の繁華街を歩く。あの生温かさは、随分薄れたように思う。夜も更けて、出歩いている人が少なくなったからだろうか。それとも、隣にこの男がいるからかもしれない。美空は、熱を帯びた頬を夜風で冷ましながら、そう思った。
一体、なにがどうなってこんなことになってしまったのだろう。
遊び相手として、女と関係を持つことは何度もあった。しかし、同性で、しかも同業者に近い男と、このような関係になったことが、美空は未だに信じられないような気がした。
美空も毒島も、女と遊ぶことを止めてはいない。実際、それはそこまで気にならないのだ。女と遊んでいる時の毒島は、平時より愉快で面白いので美空は見ていて飽きないと思うし、毒島も普段の自分がああなために、美空へ貞操を強要する気配はない。
しかし、暗黙の了解で、所謂タブーとして二人の間に横たわっているのは、「男相手に関係を持たない」だった。
その”関係”というのは、セックスだけを指しているのではなく、憎しみでも闘争心でも、何かしらの強すぎる感情を抱くことも含んでいるのだろう。もし、相手が自分以外の男に、強い執着めいたものを見せたとしたら、おそらく、怒り、戸惑うだろうという確信がお互いにあった。勿論、そんな事態になったことがないので、実際にどうなるかは分からないのだが。
__こういった関係を、世の中では何と言い表すのだろう。
美空は、未だ答えの見えない難題について考える。愛だの恋だの、そういうものとは程遠い感情のように思えていた。しかし、それこそ勘違いなのかもしれない。何度考えてみても、美空の中にある空洞は、答えを見つけることができない。案外、毒島の方がこういった物事に整理を付けているのだろうかと思うものの、この男の胸の内を想定するのは、美空にとって無理難題に近かった。
「__なんだよ」
美空の視線に、毒島が気づく。不可解そうに眉を潜めていた。夜の中で、ネオンの光が頬の輪郭を照らしていて、泣きたくなるほど綺麗だった。
美空の唇に、知らず知らずのうちに微笑が浮かぶ。
「毒島さん」
改まったような声をして、美空が言った。
「もし今ここで、わたしが手を振り払って逃げ出したら、どうしますか」
「は?」
毒島が立ち止まる。美空も同じように足を止めた。海の底のような夜の中で、二人だけが動きを止めて見つめ合っている。
「なんだ。ごーかんまだーって叫んで逃げるとか、そういうのか」
「まあ、そういうものだと思ってください」
眉を寄せて、ぽかんと口を開けた表情で、毒島は真剣にそう聞いてみせる。美空としては、何かしらの意味のある問いかけではなかった。こんな風に困惑する顔を見たかった、と言っても間違ってはいないだろう。上手く説明できないが、こんな意味の分からない質問に、冗談でも叱咤でも、どんな形であれ毒島が答えてくれたならいい、という気持ちもあった。まるで親に構ってもらおうとする、子供のような思考である。
「もしかしてお前、そういう禅問答みたいなやつが好きなのか?坊主だから」
「坊主は関係ないでしょうし、禅問答みたいでもないと思います」
どうやら美空の問いかけは、毒島を本気で困惑させたらしい。未だに毒島は目を剥いて、まじまじと美空を見つめている。その視線に、美空は忘却しかけていた幼少期の記憶を思い出す。名前も顔も思い出せない誰かの、怯えと困惑が入り混じった視線。美空が自身の異常性を表に出すたびに、対面する者は皆そういう目を向けてきた。
美空は、毒島がこれからどんな行動をしてみせるのか、無意識のうちに探ろうとしている自分に気づく。美空を振り払って立ち去るのか、怒り出すのか、痛ましいものを見る目をするのか。大体にして、ほとんどの人間はそういった反応を見せる。まるで物語を楽しむように、それらの反応を確かめようとする癖が、彼には身についていた。
しかし、美空の予想に反して、毒島の行動はそのどれにも当てはまらなかった。毒島は、美空の肩に回していた手を離した。そして、その手で美空の手を握った。
どこか子供じみた、他意の無い仕草だった。指を絡ませるなんてことはしない、本当に言葉通りの「握手」である。二列ずつに並ばされた小学生が「隣の人と手を繋いでください」と教師に言われて、その通りにしてみせたような、そんな握り方だった。
まさか、本当に逃げ出すのかと思ったのだろうか。
美空はやや呆然とした気持ちでそう思い、そして、妙なおかしさがこみ上げてきた。
手を握るだけで、こんなにも愛おしく思わせる人がいる。
美空は目の前にいる、乱暴で、下品で、女好きで、陽気で、思い込みが激しく、見境の無い、可愛らしい男のことが、一層好きになってしまった。