「責務から逃れたいと思ったことはあるか」
シルバーアッシュからすると、それはほとんどプロポーズ同然の言葉であったのだが、ドクターは眉一つ動かさず「ない」と答えるだけだった。
「そもそも、君の言う責務ってなにさ」
「感染者による暴動鎮圧、鉱石病に関する講演、前線オペレーターの実地訓練の指揮。ここ数日でお前が取り組んだものだけでもざっとこれだけある。私が把握していないものはもっとあるだろう」
ドクターは机に向かったまま、よどみなくペンを動かして手元の書類にサインをした。それはシルバーアッシュが言ったような「把握していない」業務に関する書類なのだろう。
「それで、責務がなんだって?」
「お前が望むなら、その肩にかかる重荷を取り払って、どこにでも連れ出してやれる。ロドスの目の届かない場所に。お前が何の憂いもなく日々を過ごすことができる場所を私は用意できるだろう」
「あるのかなあ。そんな場所。特にケルシーの目の届かない場所なんか」
まるであの女医を、千里眼の持ち主であるかのようにドクターが言う。
「なら、お前をどこかに閉じ込めてやろうか。誰も手出しできない場所にだ」
「どこに?」
「どこにでも。二重三重にした金庫の中でも、お前のために一から家を建ててもいい。イェラグの極寒の中にな」
「私専用の監禁小屋というわけか。ぞっとしないなあ」
ドクターはそう言って笑ったが、シルバーアッシュにとっては冗談ではなく真剣な提案の類だった。
シルバーアッシュはふと、ドクターを金庫に閉じ込めたとして、彼ならいくらでも生き永らえることができるような気がした。何重にもした金庫の中に監禁されて、水の一滴も与えられずにいても、彼なら何か月、場合によっては何十年も生きていけそうに思えるのだ。
数年ぶりにシルバーアッシュが金庫を開けても、そこには以前と変わらず瑞々しい手肌をして、少年の姿をしたドクターが眠っている。抱き上げると確かな肉体の重みがあり、水仙の香りにも似た、はっとするほど甘い匂いが立ち込めている。ドクターが自ら目を覚ますまで、シルバーアッシュは腕の中の寝顔を見つめているのだろう。
「用が済んだなら帰ってよ。このあとすぐにオペレーターの個人面談をここでやるんだから」
ドクターにそう促され、シルバーアッシュは素直に退室した。しかし部屋を出てすぐに、廊下の片隅に立って、今出てきたばかりの執務室をじっと監視した。数十分経ってもオペレーターが通りかかる気配は無い。ドクターに嘘をつかれたのだろう。それに気づいた後も、シルバーアッシュは特別気を悪くすることはなかった。自分を追い出すために、あのドクターがわざわざ嘘をついたという事実が妙に愉快で、誰かにでも自慢してやりたいような気持ちだった。
自らの役目を投げ出したくはならないのか。そんな質問をしても、ドクターが肯定しないのは彼も分かっていた。少なくとも、すぐさま頷くような男であれば、今ここにシルバーアッシュはいないし、親交を深めてはいないだろう。ただそれでも、いつかそうしてみたい気がするとでも言ってくれたら、自分の好意が許されたような気がするというだけだ。
それから一か月ほど経った頃、ドクターはイェラグに泊りがけの旅行に来ていた。
手には古めかしいトランクケースを下げている。本革で作られたアンティーク調のそれは、シルバーアッシュが留学時代に使っていたもので、元々は彼の父からのおさがりだった。遠出のたびにロドス備品のボストンバッグを使っているドクターに対し、見かねてシルバーアッシュが与えたのだ。
彼の邸宅を訪れるのは、ドクターにとってほとんど一年ぶりだった。ガラス窓に、横殴りの雪が叩きつけられている。外の白さとは対照的に、屋敷の中は真紅のカーペットが敷かれていた。暖房の効いた室内はあたたかく、わずかに灯油の匂いがした。シルバーアッシュに連れられて客間に辿りつく。
「この間、改装をした」
「へえ」
「そう変わっていないだろうが、不便に思ったなら部屋を変えさせるから言ってくれ」
室内に足を踏み入れ、周囲を見渡しても特に変わったところは無いように思えたものの、よく見れば部屋から窓が消えていた。ドクターはそれに気づいたが、口には出さなかった。素知らぬふりをして、トランクを広げて荷物を出す。
夕食の時間になったら呼びに来る、と言ってシルバーアッシュは去っていった。こまごまとしたぬいぐるみ(寂しくないようにとポプカルが持たせてくれた)やラベンダーのポプリ(不眠予防にとパヒューマーが)を取り出しながら、窓がないだけでずいぶん狭苦しく感じるな、と彼は思った。
深夜。ドクターはベッドにもぐりこんで眠っていた。毛布を何枚も重ねた、こんもりとしたシルエット。ベッドサイドに置かれている、蓋を外した瓶の口から、ポプリの香りがうす甘く漂っていた。
不意に、部屋の扉が開いた。音と呼べないほどの摩擦を立てて、靴底がカーペットを踏みしめていく。長い尾が薄闇の中で揺れた。それは部屋に入り込んだ男のものであった。
白い足先が、男の目に留まる。ベッドから突き出たドクターの片足だった。甘い匂いのする薄闇の中で、ひどく無防備に晒されている。男はベッド脇に立ち、その足を無造作に手に取った。まるで最初からそう作られていたかのように、小さなかかとは男の手のひらに馴染んだ。肌と肌が触れ合った部分で、甘やかな疼きが湧き上がる。足指の股へ男が指をねじ込んだ。寝汗のせいかわずかに湿っている。感触を楽しんでいるうちに、むずがるようにして足が身じろぎ、手を振り払った。
白い足は、自然と毛布の中にもぐりこんでしまった。しかしドクターはまだ眠りの世界にいるらしい。穏やかな寝息をさせながら、枕に頬を押しつけている。
男はしばらくの間、その寝顔を眺めていた。そしておもむろに、毛布の中へ手を入れる。手はドクターの体を捉え、寝間着の裾から腹の上へともぐりこんだ。温まって蒸された肌を、乾いた手のひらが這いまわる。へそのくぼみに触れた後、うすい胸にまで這い上がり、鎖骨に触れる。声がしたのは、その時だった。
「シルバーアッシュ」
男は──シルバーアッシュは、手を止めてドクターの顔を見た。さっきまで閉じられていた大きな目が、今ははっきりとシルバーアッシュを捉えていた。ほんのわずかに夢の名残を帯びた瞳をしていたが。
「起きていたのか」
「いま、起きた。君のせいで」
ドクターが身をよじる。寝間着の中に差し込まれていた手は、それを受けて抜き取られた。
ドクターは大儀そうに上体を起こした。重たい毛布をどけることさえ一苦労だという風に。その間、シルバーアッシュは弁解もせず立ちつくしていた。うっすらと微笑を浮かべながら。何かの拍子に獰猛な形へ歪んでしまいそうな笑みだった。
「閉じ込めに来たのかと思った」
「閉じ込めに?」
「前に言ってたから。そのために家を建てるだの何だの」
「ああ」
覚えていたのか、とシルバーアッシュが独りごとのように言う。ドクターは「でも」と話の続きを再開した。
「君が部屋にいるってことはまだその気はないんだろうね」
「……」
「だって、そうするには君が部屋の外にいて鍵をかけなきゃいけないんだし」
「今から部屋を出て、鍵をかけるつもりだと言ったら?」
「そうなったら、その時に考えるよ」
脱出方法とか、外部との連絡の取り方とか。のんびりとドクターが言う。まだ半分眠っているような声だ。シルバーアッシュが笑みを浮かべる。
「一度考えたことがある」
「うん?」
「たとえお前を堅牢な檻の中に閉じ込めたとして、お前は少しもうろたえないだろうし、食事を一度として与えずとも、それこそ神話の生き物のように永遠に生き続けるのではないだろうかと」
「買いかぶりすぎだよ」
ドクターは呆れたように言う。そうしながら「座りなよ」とベッドの片隅を手で叩いた。促されるままシルバーアッシュが腰かける。
「閉じ込められたら驚くし、ご飯も水もなきゃ私は死んじゃうよ」
「だが、試したことは無いだろう」
「シルバーアッシュ、もしかして君、酔っぱらってるんじゃないのか」
頭のおかしな男を見るような目をしてドクターは言った。シルバーアッシュはそれを聞いても機嫌良さそうに微笑むばかりで、やはり酔っ払ってるのではないだろうかとドクターに疑問を抱かせた。
「もし、お前を本当に閉じ込める時が来るとしたら」
「うん」
「私も一緒に、その檻か金庫の中に入るだろう」
「……なんで?」
「そうすれば、お前は私の死を見届けざるを得ない。余生を私の亡骸と共に過ごすしかなくなる。私の死体を毎晩抱いて寝る羽目になるだろうな」
「……」
「お前もいずれ死ぬなら、それこそ好都合だ。その檻は私たち二人の棺桶になる。誰の手出しもできない密室で、腐食した死体が混ざり合うのを想像してみろ」
「変なことを想像させるな」
ドクターはやはり言葉の通じない生き物を見るような目をしている。しかしさっきよりはずっと、シルバーアッシュに対する警戒は薄れていた。古今東西、無口な妖怪より饒舌な妖怪の方が親しみを持ちやすい。
ドクターの頭の中で、自分たち二人の腐食死体が、フライパンで焼く前のホットケーキミックスのような姿になる。ところどころにダマがあって、カビのような色が浮かんでいたら尚リアルだろう。それが監禁部屋の中で混ざり合うのだ。ちょうどその部屋は、ここのように窓の無い息詰まるようなつくりをしているはずだ。
「君、ちゃんと水を飲んだか?」
「水?」
「酒を飲んだ後に十分な水を飲まないと、酔いが回りやすくなる」
「ご期待に沿えず悪いが、アルコールは一滴も飲んでいない」
「じゃあ、人のぬくもりに飢えてるんだ。だから変なことを考えるんだよ」
おいで、とドクターは言った。ベッドの端に寄って、人ひとり分のスペースを作る。
「添い寝してあげるよ。嬉しいだろう?一緒に死体になるよりずっと健全だ」
この男にとって、模範解答のような返答だったのではないだろうか。彼にしては珍しく、そんな風に自信を持ってシルバーアッシュを見たのだが、返ってきた答えは「それはまたの機会に取っておこう」だった。こちらを慰めようとする子供をいたわるように、彼はドクターの頭に手を置いた。そのすぐ後に、踵を返して部屋の出入り口に向かう。
「どこに行くの」
「水を飲みに」
「なんで」
「盟友の忠告には従うべきだろう?」
ふざけているとしか思えない言動に、自分の気遣いが雑に扱われたように思えて「後悔するぞ」と悪役のようにドクターは言った。その後に、もう一生寝てやらないからな、とも付け足す。それを聞いたシルバーアッシュは、どうやら少しだけ笑ったらしい。
真夜中の来訪者が居なくなった後、ドクターはまた寝直すことにした。次に起きた時、このやり取りをまるで夢の中の出来事だったように思い違いをするかもしれないと思った。しかし一か月前にシルバーアッシュが言ったことを覚えているのだから、きっとこの話も覚えているのだろう。
自分が死ぬ間際に、このやり取りを思い出せればいいとドクターは思った。それが敵に刺し殺されようとしている時なのか、爆撃を受ける直前か、交通事故かはたまた自殺かは分からないが。そして、混ざり合う腐食死体とホットケーキミックスのことまで思い出せれば、死ぬ瞬間でも少しは愉快な気持ちになれるだろうから。
シルバーアッシュに対してだけは、願望を叶えてやれなくて申し訳ないな、と思うかもしれない。