ある地方都市の、その寂れた酒場にドクターが現れたのは、ちょっとした偶然によるものだった。
ドクターが店に入った瞬間、客たちは気だるげにその姿を一瞥した。しかしすぐに興味を失ったと見えて、めいめいがさっきまで見ていた場所に視線を向ける。薄汚れた天井や、ヤニ汚れの目立つ壁や、もう食べ終わってソースで汚れたままの皿に。一人客ばかりで、会話は無い。それぞれが煙草を吸う気配と、店員がグラスをかちゃかちゃ言わせる音だけがしていた。
ドクターは五つあるカウンター席のうち、真ん中に座る男から一つ空けて、左端の席に腰かけようとした。しかしその途端に、男が「そこは使わない方がいい」と言う。見ると、クッション部分の革が破けて、中の綿がはみ出していた。ドクターは礼を伝え、少し迷った後に男のすぐ隣の席につくことにした。
男は浮浪者のような恰好をしていた。服の裾がひどく擦り切れている。先ほどからグラスに差したストローをさかんに吸っているのだが、ずごご、という空気の混じった音しかしていない。グラスの中には氷の溶け水があるばかりだ。男の身なりから、店員も金が無いのを分かっていておかわりを注ごうとしないのかもしれない。ドクターは、アルコールであれば何でもいいと注文した。店員が酒を作っている間、浮浪者の男がまた話しかけてくる。
「残念だったな」
「なにが」
「もうすぐ雨が降るんだよ。夜中まで。寄り道しないでいたら、濡れずに帰れただろうに」
「へえ。嫌だね」
ドクターはおしぼりで手を拭きながら「でも、人と待ち合わせしてるから、結局はどこかに寄らなきゃいけないんだ」と付け加える。男があまりよくない笑い声を立てた。
「車持ちの『彼氏』だといいな」
その言葉に、客のうちの誰かが笑った。店員が酒を出す。グラスのふちに、切り分けられたレモンが刺さっていた。それには手つかずのまま、ドクターが少しずつストローで飲んでいると、隣の男が「食べないならくれよ」と言う。
「残念でした」
ドクターはそう言って、レモンを外してそのままかぶりついた。
店の隅にピアノが置かれていることにドクターは気がついた。この店には不要だとでも言いたげに、壁にぴったりと押しつけられた形でそこにある。
「弾いてもいい?」
店員に訊ねると、彼は今まで存在さえ知らなかったような顔をしてピアノを見た。了承を得て、ピアノの前に座る。埃よけの布を外した。甘くすえた匂いがする。定期的な調律なんてしていないだろう。それでも、音が鳴るだけで十分すぎるほどだった。
ドクターがピアノを弾き始める。はじめて演奏する曲だ。彼がこの地方都市に降り立って、二度ほど耳にした曲である。やるせない愛を歌ったバラード。十五年ほど前に流行ったらしい。それを歌った女性歌手は、何作かヒットを出した後に今は消息を絶っている。この地方は、その女性の生まれ育った土地だった。
たった二度の記憶を頼りにして、ドクターは曲を弾いてみせた。細部までは合っておらず、つたない演奏だっただろう。それでも弾き終えた瞬間に、客の何人かはのろのろと拍手をしてくれた。
席に戻りながら、ドクターは店の空気がさっきとは変わっていることに気がついた。全身を防護服に包まれた、顔も分からない男を歓迎しようとする空気。さっき隣の男から茶化された時に帰ろうとしたら、こうはならなかっただろう。カウンターに戻った途端、男が横から何かを差し出してきた。灰皿に、煙草が一本添えられている。吸い殻や灰で満杯だったが、煙草は真っ白い新品だった。「やるよ」と男が言う。
「俺がおごれるのはそれくらいしかないし」
「ありがとう」
ドクターは火を借りて煙草を吸った。手袋とフェイスシールドを外した姿で。周囲の客が、妙にそわそわとしている。気になるのだ。あんな風にピアノを弾いてみせて、店に馴染み始めた男がどんな顔をしているのか。さすがに目の前に回り込んでまで顔を見る者はいなかったが、好奇心に満ちた視線が背中に注がれている。彼はフードも外した。彼の視界の中で、煙草を挟んだ指先が、まるで光を含んでいるかのように白い。今やこの狭い店の中で、彼はブラックホールめいた力で人を惹きつけつつあった。幼い顔と、少女めいた鼻梁と、長いまつ毛。
「みんな、ドクターのことを好きになっちゃうんだよ」
いつだったか、ブレイズに言われたことを彼は思い出していた。
「ドクターを好きにならない人はいないよ。最初は嫌いでも、絶対に好きになっちゃうの。嫌ってるように見える人でもね、その人はドクターのことを好きになりたくないのに好きになっちゃって、そんな自分が憎らしくて、好きじゃないふりを必死でしてるんだよ」
あの時、ブレイズはずいぶん酔っぱらっていた。けれど、口調はやけにはっきりとしていた。
「みんな、ドクターのことを絶対に好きになる。その一本道しかないんだよ。それ以外にはどうすることもできないの」
ドクターは黙って隣で聞いていた。ブレイズはどんどん酔いが進んでいって、酒をあおるたびに口からあふれ出した分が顎を伝っていった。唇の端から、なんてお上品なものではなく、顎全体を濡らすようなこぼし方で、それは首から胸元のインナーまでをびしょびしょに濡らすほどだった。
ドクターはふと、背後に誰かが立つのを感じた。彼が振り返った途端に、目の前に文庫本が差し出される。カバーをつけていない、日に焼けて古びた文庫本。見ると、それを差し出しているのは別のテーブルにいた男だった、肉体労働者風の見た目をしている。少し気恥ずかしそうな様子で、ややはにかんでいた。
「俺もお前になにかやりたくなったんだよ」
口の中で呟くように男が言った。
「お前、本は読むんだろう?」
「なんで分かるの」
「なんでって、ピアノを弾ける奴で本を読まない奴はいないさ。俺なんか楽譜をめくったことも無いのに」
「めずらしいな。お前が本なんて」
隣の男が口を挟んだ。
「俺のじゃない。息子の嫁のだよ」
「元嫁だろ」
「まあな」
ドクターが本を受け取る。もう出ていった女の物だから、家に置いておくのも息子が嫌がるし、なんとなく持ち歩いてるだけなんだ、と説明しながら、男はドクターの隣の席に座った。あの革の破けた椅子に。
しばらくの間、その男の話を聞いていた。まだ元嫁が家にいた頃、彼の息子とその女性はいつも喧嘩ばかりしていた。ある日、朝食の席で二人がまた喧嘩を始めた。言い合いはいつも以上に苛烈になり、ついには息子が、さっきまでベーコンエッグを焼いていたフライパンを手に取って、それを元嫁の胸元に押し当てた。薄いピンクのネグリジェを着ていた彼女の胸元には、醜悪なやけどの痕が残ったらしい。
雨の音が外から聞こえてくる。さっきは土砂降りに近い音を立てていたのに、今は勢いが弱まったのか、したしたという心地良い音がするだけだった。
客が入って来たのは、その時だった。ドアが開き、外気が流れ込んでくる。何人かが入口を振り返り――彼らが息を呑むのが分かった。異様な空気ができあがりつつあった。特に、浮浪者風の男の、緊張した様子。この場に相応しくない者を弾き出そうという空気。妙に攻撃的で、それなのに自分の身を守ろうとするような怯えも確かに含まれていた。ようやく、ドクターは客の姿を見た。まだ隣の男の話を聞いている最中だったのだ。彼の視線の先、薄暗い店内に、シルバーアッシュが立っていた。
いつも通りの姿だった。自身がその他大勢より、優れていると自覚している立ち振る舞い。そして、明らかに高級な身なり。特に足元がそうだった。艶のある革靴。それだけで彼はこの場に不釣り合いだった。ドクターとシルバーアッシュの視線が絡み合う。しかしドクターは知らんふりして前に向き直った。まだ煙草を吸い終わっていない、と言い訳するように頭の中でつぶやいた。
「帰るぞ」
靴音を響かせて、背後まで来たシルバーアッシュが言う。そして店員に視線をやって「いくらだ?」と尋ねた。
「いや、さっきいいものを聞かせてもらったんで、お代はいりませんよ」
そう答えても、シルバーアッシュはまた同じように値段を聞いた。善意を無下にされた、とでも言いたげに店員が渋々答える。彼はカウンターに金を置いた。教えられたよりもずっと多い金額で。腕を取られて、無理やり椅子から引き剥がされそうになったドクターが、名残惜しそうに煙草の火を灰皿でもみ消す。ご機嫌斜めだな、と思いながら大人しく店の外へ連れ出されることにした。
雨はまだ降り続いている。窓ガラスを伝う雫を、ドクターは後部座席でぼんやりと眺めた。さすがあちこちに支部のある会社の社長ともなると、私用のために運転手付きの車を出せるらしい。
「何件まわった?」
外に視線を向けたまま、ドクターはシルバーアッシュにそう訊ねた。元々、同じ日の同じ場所で仕事がかち合うと分かっていたので、用事が済んだら二人で過ごそうと約束していたのだ。ドクターは同行していた職員たちを先にロドスへ帰らせて、店でシルバーアッシュを待っていた。あのあたりには酒場が多いから、そのうちのどれかで時間をつぶしてくれたら自分の方から迎えに行く、と言われたためである。自分を見つけるのに何件店を訪ねたのかとドクターは聞いたのだ。
「あれが最初だ」
「へえ?」
「あの店にしては珍しく、ピアノを弾く音が聞こえたと通行人が話していた。それでお前だと気がついた」
「ふうん」
ドクターがつまらなさそうに返事をする。実を言うと、彼はわざと一番治安の悪そうな店を待ち合わせ場所に選んでいた。そっちの方が、自分を見つけるのにシルバーアッシュが手こずりそうだからと。店を何件もまわって捜し歩く彼の姿を見てみたかったのだ。
ドクターはふと思い出したように、懐からあの本を取り出した。開くと、ある二枚のページだけが袋とじのように貼り付いていた。ペリペリと剥がし中を覗く。茶色い何かの跡が、ページ全体に乾いて残っている。とろみのある液状のものを塗りつければこうなるだろうか。例えば、皿に残ったソースとか。
はにかんだ──こわばった顔で、本を渡してきた男の姿を思い浮かべる。解読不能に近かったが、文面を想像するのは簡単だった。【隣の男はジャーナリストだ】とか?
「君、タレコミ屋につけ狙われる覚えとかある?」
「私の失脚を望む者はどこにでもいるだろうな」
「人気者だねえ」
しかし実際のところ、この密通を受け取るより前から、隣の男は身分を偽っているのだろうと予想がついていた。浮浪者めいた格好をしているのに、手肌は荒れていない。爪は短く切りそろえられていて清潔に保たれており、何より異臭もしなかった。ドクターは、頭の奥がじんわりと痺れていくのを感じた。
「眠いや」
あくびを噛み殺し、ぼんやりとした声で言う。シルバーアッシュの胸に頭をすり寄せた。ミルクを飲み干した後の子猫めいた仕草で。
「眠るといい」
「なにか話してよ。寝るのがもったいない」
大きな手がドクターの後頭部を包み、より密着するように引き寄せる。あやしているつもりなのだろうか?寝たくないと言ったのに。それでもシルバーアッシュの体温はひどく心地よかった。ほとんど目を閉じかけたまま、うっとりと意識の底に沈みかける。しかしそれを遮ったのは、他でもないシルバーアッシュだった。淡く閉じていた唇を、無理やりこじ開けられる感触。
「あぇ」
口内にわずかな痛みが走った。舌先を二本の指でつままれて、口の外に引きずり出されている。ドクターは咄嗟に、運転席の方へ視線をやった。異変に気づいてくれることを期待したのだ。しかし上体を無理に引き寄せられたために、座席の陰にすっぽりと体が隠れている。諦めて、シルバーアッシュを上目遣いに睨みつけた。愉快そうな顔でこちらを見下ろしていた。息がかかりそうなほどに端正な顔を寄せて、彼がささやく。
「何を盛られた?」
ドクターは睨みつけたまま、無言で首を左右に振った。舌がより引っ張られる。痛みに顔をしかめながら「あにも」と答えた。シルバーアッシュの笑みがいっそう濃くなる。しかしその変化は、バケツ一杯分の水に墨汁を一滴落としたほどの変化だったが。
「お前の話を聞くに、店で隣にいた男のどちらかだろう?もしくは両方か?」
検討はついていた。あの煙草。浮浪者の格好をした男が寄こした煙草だ。アルコールの方は白だろう。そうと分かって無防備に吸ったのは、どうせ彼が迎えに来るのだという保険があったからだ。
それと、人を疑うことを知らない人間のように、振舞ってみたかったというのもある。どうせあのタレコミ屋か何かだって、そう大それた事をする気はなかったはずだ。いつまでもスキャンダル一つさえ掴ませない社長に嫌気がさして、待ち人らしき男をつついてみたくなったか。それとも皮肉の通じない一般人を気晴らしにいじめてやりたかったのか。どちらにしても、心底どうでもいいことだった。
まだ尋問は終わっていないのか、シルバーアッシュが舌を解放するそぶりはない。ドクターはその手を引き剥がそうとした。しかし、この握力の差でできるはずもなかった。いい加減渇きを覚えた舌先が、その表面にじわりと唾液を滲ませる。それは舌を伝って、シルバーアッシュの指先にまで垂れていく。透明な液体がじりじりと手首の方へ這っていくのを、ドクターは恨めしそうな目で見た。一瞬の躊躇いの後に、指へ軽く歯を立てた。シルバーアッシュが手を離す。驚くほどの呆気なさで。
「どうした?」
「……」
「そう凄むな」
さっきとは打って変わって普段通りの声量で喋る男の目を、ドクターはじっとりとねめつけた。シルバーアッシュは美しい唇に微笑を浮かべ、見つめ合ったまま自身の手首に舌を這わせた。そこを伝う唾液を、見せつけるように舐め取る。いつもなら罵声の一つくらいは投げていただろうに、今この場には第三者がいて、そのうえついさっきの顛末を知らないのだ。ドクターは怒りを隠さない表情のまま、明らかに運転手へ聞かせる意図をもって
「膝枕して」
と口にした。
しばらくの間、後部座席から聞こえる衣擦れの音を、部下は訝しがらなかったのだろうか。ドクターはさっきの言葉通り、座席に寝そべって恋人の太ももに頭を預けていた。ただ普通と違うのは、シルバーアッシュの腹側に随分位置が寄っていたことと、ある部分をさすっていた手だろうか。形を確かめるように撫でていた手が、布地を押し上げて張り出したそれに、ほんの少しだけ躊躇うような動きになる。
それでも口にジッパーを咥え、ゆっくりとそれを引き下ろした。現れたモノに、ついばむようにして唇を押し当てる。彼が女性であったなら、口紅の跡がべったりとついていただろう。
ドクターは先端に唇を押し付け直した。そのまま、喉を開いて奥まで咥え込む。シルバーアッシュの口から、小さな呻き声があがった。それを聞いてドクターは満足気な吐息を漏らす。薬による眠気は、確かにまだ彼のまぶたを重たくしていた。しかしそれ以上に、体の内側にある興奮が、彼の肌に汗を浮かせている。
こんな場所でするなんて、下品極まりないだろう。しかし最初に手を出したのはシルバーアッシュの方なのだ。何も気にする必要はない。音を立てないように、細心の注意を払って頭を動かす。そうしながら、久しぶりに恋人と過ごす休暇に自制心を失いつつあるのはシルバーアッシュの方だけではないことに、ドクターはようやく気づいたのだった。