吐く息が白い。もう春先だというのに雪が降っている。ドクターは手を擦り合わせた。積もるほどには降っていない。ほんの少しの熱と風で、かき消えてしまいそうなほどにかすかな雪だ。
ドクターはホームの片隅に立って、列車から次々に降りてくる人を眺めている最中だった。そのうちに、目当ての人物が乗降口から現れる。百九十をゆうに超えた長身。仕立ての良い黒いコートを身に着けて、頭にはコートと合わせたのか、これまた黒く艶のあるビロード地の帽子を被っている。フェリーンの耳を片方だけ隠すように斜めにした被り方だ。いかにも貴族っぽい格好だなあ、とドクターは思った。
古めかしい、アンティーク調の列車を背景にしているために、古典文学の挿絵のような光景に見えた。彼を視界の端に捉えては、頬を染めて振り返るご婦人たちの反応は当然のように思える。彼は端正な顔立ちをしているし、口元や指先の仕草にさえ上流階級らしい気品が感じられる。もし今この瞬間、彼に声をかけられてお茶にでも誘われたら、その女性は自分が老婦人になった後もこの日のことをおとぎ話のように孫に語り聞かせるだろう。しかし残念なことに、今ここで彼が声をかけるのは美しく着飾った令嬢ではないのだ。
男がホームを見渡し、ドクターの姿を捉えた途端に微笑を浮かべた。黄色い声が上がる。それは男とドクターの対角線上にたまたま立っているご婦人が、自身に向けられた微笑であると勘違いしたためだ。男がドクターの元へ近づく。ドクターの目の前まで(もちろん、道を塞ぐように立ち尽くしている女性を避けて)来た時、ホワイトムスクの香りが彼の鼻先を掠めた。
「シルバーアッシュ」
「待たせたようだな」
「ううん。全然」
君こそ、列車の長旅でくたびれたんじゃない?そう続けようとしたドクターに、シルバーアッシュが不意に手を取った。温かい手だった。ドクターはその時初めて、自身の指先が赤く染まっているのに気がついた。
「冷えている」
何故か少し愉快そうにシルバーアッシュが言った。
「やはり長く待ったんだろう」
「別に」
ちょうどその時、彼の使用人が荷物を重たげに抱えて二人のそばまで追いついた。
「先にホテルに戻っていてくれ」
使用人にそう言って、シルバーアッシュは帽子を外すと「これもだ」とトランクケースの上に置いた。
「被らないの?」
「こういうのは窮屈で気に障る」
「メーテルみたいで良かったのに」
そんなやり取りをした後に、二人は駅の外へと向かった。いかにも観光地らしい、レンガ作りの町並みが広がっている。二人で街を散策しながら「そういえば、メーテルとはなんだ」とシルバーアッシュに聞かれて、ドクターは「さあ、なんだったっけ」とだけ返した。
鉱石病についての講演のために、ドクターがロドスを発とうとする直前にクーリエが慌てた様子でやって来た。彼によると、ドクターがちょうど向こうの街を出る日──つまりロドスに帰る日に、シルバーアッシュもその街へ仕事の用で降りるのだと。できたらで構わないのですが、と前置きしたうえで、ロドスに帰る日を一日遅らせられないだろうか、という要望だった。二人がちょうどすれ違うのを、クーリエもついさっきトランスポーターから知らされたらしい。
ドクターは彼の提案通り、自分だけ帰宅を一日遅らせることにした。元から帰還後に、休みが挟まれるよう予定していたのだ。ホテルと列車の都合さえつけば特別難しい要望でもなかった。
いつの間にか雪は止んでいた。それでも春というより秋口のような寒さをしていたが。二人がどこかの店に入りたいと思うのは自然な流れだった。そこに「行きたいところがある」とシルバーアッシュが提案し、ドクターはある洋服屋の前に連れられた。
どっしりとした扉を押すと古めかしいベルの音が鳴り響いた。奥から飛んできた店員が、こちらが名乗らずとも「シルバーアッシュ様」と呼んだのを受けて、ドクターが胡乱げに言う。
「君の贔屓の店か?」
「何度か仕立ててもらったことがある」
もしかしなくても、ここは高級テーラーというやつか。そう気づいた途端にシルバーアッシュがドクターの背を押して「これに見合うコートを見繕ってくれ。この服の上から着る想定でだ」と言った。若い男の店員はかしこまりましたと答える。
おそらく新人なのだろう不慣れなこの店員は、しかしプロとしての矜持をきちんと持って、この小柄で不審な男が上得意とどんな関係であるかという好奇心を微塵も出さずに採寸室へと案内した。ドクターは恨みがましそうな目をしながら店員の後をついていく。おもちゃ屋さんに連れて行ってあげると騙されて、ショッピングモール内をあちこち親に連れまわされた子供のような表情だった。
「ひと月以内に、完成品を君の所に届けるってさ」
採寸を終えたドクターが、シルバーアッシュの元に戻りながらそう言った。採寸を待つための別室で、華奢なティーテーブルと光沢のあるソファーが並んでいる。「早いな」とコーヒーを啜りながらシルバーアッシュが言った。
ドクターが真向いの席に座り、大儀そうにフードとフェイスシールドを外してから卓上のクッキーをわしわしとかじった。少年と少女のあわいにいるような顔があらわになる。あの年若い店員がバタバタとやって来て、ドクターにホットチョコを出した。どうやらこの新人は、接客と給仕が仕事らしい(採寸をしたのは彼とは別の、青インクの染みたメジャーを首からさげたにこやかな老人だった)
「次にロドスを訪ねる際に持っていこう」
「うん」
ドクターはほとんど無意識に、コートの支払いをシルバーアッシュが担うだろうと考えていた。そしてシルバーアッシュの方も最初からそのつもりだった。二人で出かけた時、全ての会計がシルバーアッシュのポケットマネーで済まされるのがお決まりのようになっているのだ。
「ねえ」
「なんだ」
「もしかして、恥ずかしかった?」
「なにがだ」
「ぼろいコートを着た男を連れて歩くのが」
採寸室の鏡で自身の姿を見返した時、ドクターの顔にほんの少しだけ憂鬱の影が落ちた。コートがずいぶん安っぽく見えたからだ。それ自体が量販店のものであるから仕方ないにせよ、分厚い防護服の上から着ているせいで、どうしても不格好になってしまう。裾は長すぎるし、肩のあたりは明らかに体のラインに合っていなかった。
防寒さえできればいいからと、見栄えを気にしたことは一度もなかったのだが、高級テーラーの鏡を前にするとどうしたって目についてしまう。ドクターは、相手がこの店に連れてきた真意が何となく分かるような気がした。
しかしドクターがそう尋ねた途端に、シルバーアッシュは優しげな微笑を浮かべてみせた。今までずっと、こちらを面白がるような笑みばかりしていたのに。
「いいや?」
微笑んだまま彼が否定する。
「お前に買い与えたいと思ったからそうしただけだ」
「……」
ドクターは、じっとシルバーアッシュの目を見つめた。そういえば、こんな風に笑える男だったな、と思いながら。
「そう」
それだけ言って、ホットチョコを口に含む。あまい。寒さでこわばっていた手足が、ほどけていくような心地がした。ドクターはテーブルの下でこっそりと両足を伸ばした。すぐにシルバーアッシュの革靴にぶつかる。そのままぐいと奥に押し込んでやった。
「当たってるぞ」
「君の脚が長いから」
「それは失礼した」
しばらく押し相撲のように、お互いに押し返していたものの、ドクターが疲れを覚え始めたところでこのじゃれ合いはすぐに終わった。疲れ切って、ソファーの背もたれに全身を預けながら、ドクターが尋ねる。
「君、チェス以外の趣味ってないの」
「趣味」
「うん」
すぐに答えが返ってくるかと思いきや、シルバーアッシュにしては珍しく少し考え込んでいるようだった。彫りの深い目元から鋭さが消えて、代わりに憂いを帯びたものになる。プラットホームにいたご婦人らがここにいれば、胸を押さえて倒れこんだかもしない。
数秒の間のあとに、シルバーアッシュはドクターと視線を合わせて、愉快そうに目を細めた。
「ある」
「どんな趣味?」
「惚れた相手に金をつぎ込むことだ」
ドクターはティーカップを持ち上げたまま動きをとめた。淡い湯気が彼の鼻先を覆う。長いまつ毛に縁どられた、大きな目がシルバーアッシュのことを見つめ返していた。何の感情も浮かんでいなさそうな瞳で。
ほとんどミリ単位ほどの変化で、ドクターの頭がゆっくりと、じれったくなるような速度で傾けられ、そして──
「じゃあ、私は役に立てないね」
そう返した声に、他意は少しも感じられなかった。
「そうでもないがな」
シルバーアッシュはきわめて慎重に言葉を選んでそう言ってみせたのだが、ドクターはそれに気付かないまま、残りのホットチョコを飲み干していた。「いつも世話になってるお礼に、その趣味に付き合ってあげようと思ったのに」と、とぼけているのかと疑いたくなるようなことまで付け足しながら。
ティーカップを受け皿に置こうとして、ドクターはこちらに伸ばされた手に気がつく。シルバーアッシュの手が、彼の髪に触れていた。細くて柔らかい、猫の毛を思わせる彼の髪に。色のうすい目が、顔を動かさないままにその手を追う。
「なに?」
シルバーアッシュは答えないまま、その指先でドクターの目元をくすぐった。反射的に目を閉じる。骨ばって硬い指の背が、まつ毛を撫でていくのが分かった。
「なに」
目を閉じたまま、彼はもう一度言った。けれど、その質問に答えが返ってくることはやはりなかった。まぶたをくすぐっていた指が離れる。ようやく目を開けたものの、視界の中で特別何かが変わったわけでもなく、シルバーアッシュが奇妙なうすら笑いを浮かべているだけだった。
「髪に糸くずでもついてたのかと思った」
「本当にそう思うか?」
シルバーアッシュの言葉に、ドクターは訳がわからないという風な顔をしてみせた。
店を出ようとする頃には、ドクターの機嫌は少し収まりつつあった。少なくとも、採寸室に連れて行かれた時の、不貞腐れた子供のような表情はしていなかった。何が彼をそうさせたのか、ドクター自身もよく分かっていなかったが。
「また来たいな」
ドクターが言った。それは一般人における「また誘ってください」と同じ社交辞令のつもりも含まれていたのだが、子供じみて素直な気持ちで、本当にそう思っていたのも事実だった。
「気に入ったのか?」
「うん」
「お前がそう言うなら」
そう言った瞬間に、二人の背後から「ぜひ!」という声がかけられた。裏返った声の闖入者に、二人がぎょっとして振り返る。あの若い店員が発したものだった。あからさまに驚いた目を向けられて、店員の頬が赤く火照っていく。少なくとも、最良のタイミングでなかったことは確かだった。それでも、この人の良い青年が、友人なのか恋人なのかよく分からない関係の二人を、この店でまた出迎えたいと思っているのが愉快なほどに伝わってくる声だった。
ドクターは少し気を取り直して──彼なりの労りをもって──「また来るね」と店員に小さく声をかけた。
外に出てドクターが店内を振り返ると、竹製の定規を握った手が奥から伸びてきて(おそらく採寸を任されていた爺さんのものだろう)あの年若い店員の頭を小突いているところだった。