シルバーアッシュは今日の昼前にようやく、カランドが所持している地方の支店に着いたところだった。普段は重役用の応接室として使われているらしい部屋で身を休める。午後からは工場の視察に行かなくてはならない。部屋の窓から、絵具を水で溶いたような薄青い空が見える。それを目の端に捉えていると、内線がかかってきた。受付を任されている社員が「アポ無しのお客様が社長に取り次いで欲しいそうです」と電話越しに言う。
「名前は?」
「ロドス・アイランド代表、アーミヤ様と」
シルバーアッシュが怪訝そうに眉をひそめた。ロドスのCEOが? 面会の約束をしていないのはもちろんだが、シルバーアッシュが今日、この支店にいることを彼女が知っているのも奇妙だった。代表たる彼女がこんな地方に来ていること自体も。緊急の用事だろうか、と咄嗟に考える。
「いま、下に行く」
それだけ言って、内線を切った。
エレベーターからエントランスに降り立つ。彼の目が、来客用のソファーに小柄なシルエットを捉えた。お行儀よくソファーに腰かけ、膝の上に紙袋をのせて、フードを目深に被った姿。喉が一瞬で乾くのを感じた。
「……ドクター」
どこか呆然とした声で、彼は言った。視線が絡み合い、それを受けてドクターが立ち上がる。まさか、という表情が隠せずにいるシルバーアッシュへ、目の前まで来たドクターがいたずらっぽくこう言った。
「驚いてる」
「……ふつうは驚くだろう」
「まあね」
シルバーアッシュの目が、ドクターの頭頂部からつま先までを注意深く観察する。そこまでして、やはり目の前の彼は本物であるらしいことを確信した。喜びがふつふつと胸に湧き上がる。驚かせるためにCEOを詐称したのはいかがなものかと、本当ならば注意すべきだろうに、彼の意識はそれどころではなくなっている。
「仕事でこっちに来たんだ。感染者についての講演でね」
「……私もここに来ていることはどうやって知った?」
「さっき君がこの会社に入るところを、タクシーの中から見た。だから、本当に偶然」
ドクターが手にさげていた紙袋を差し出して「あげる」と言った。見ると、この近辺で有名なケーキ屋のものだった。ロールケーキが特に人気で、ひとつ買うために二時間待ちすることもざらにあるらしい。おそらく紙袋の中には、それが入っている。
「本当は自分へのご褒美にしようかなって、昨日並んで買ったんだけど、せっかくだしあげる」
昨日、という言葉に反応して「あと何日ここに滞在する?」とシルバーアッシュが聞いた。
「明後日の昼にはここを発つよ」
「ホテルの名前は」
ドクターが質問に答えるまで、数秒の間があった。大きな目が、フェイスシールド越しにじっとシルバーアッシュを見上げる。真意を探ろうとするかのように。物言わず見つめてくる色の薄い瞳に、シルバーアッシュがじれったくなり始めたところで
「ツインで、同室のオペレーターがいるけど」
とドクターは言った。
「それがどうした」
そう言ったものの、彼の声には明らかに落胆の色が浮かんでいた。ドクターが宿泊しているホテルの名前を告げる。その後は、さっさと話を切り上げて宿泊先に帰ってしまった。
「もういいのか」
そう尋ねると「君のびっくりした顔を見に来ただけだし」と彼が答える。
お仕事頑張ってね、と言い残して自動ドアをくぐり抜ける背中。ガラス戸の向こうに行ってしまった彼が、建物の外、ちょうど中から見切れる位置に立つ男へ、何事か話しかけているのが見える。背の高い、白い肌をした男だ。男と共にドクターがその場を去っていく。あれが、同室の男だろうか。シルバーアッシュはぼんやりとそう思った。
ビジネスホテルの良いところは、あの簡素さと清潔さにあるだろう。少なくともドクターはそう考えている。こういう所に宿泊する際、ドクターはいつもひそやかな興奮を覚えていた。記憶が始まってからずっと、ロドスでの集団生活しか経験したことがない。だからホテルでの生活は彼にとって非日常なのだ。
ベッドサイドに収納された、古ぼけた聖書をドクターが取り出してぱらぱらとめくる。そのどこか子供じみた仕草を、護衛役としてついてきたシャレムが微笑ましそうに見つめていた。窓の向こうは穏やかな晴天だ。あと少しもしないうちに夕焼けが見れるだろう。
「夕食は、今日も下のレストランで食べますか」
「うん」
ドクターは本から目を離さないまま「後でカップラーメンも食べたい」と付け足した。
「いいですよ。小さいのだったら」
「やった」
そう言うと、ドクターは立ち上がりシャレムの隣に座った。ベッドに並んで腰かける形になる。持っていた本を渡して「読んで」とねだった。
「私が?」
「シャレムの声で聞いてみたい」
「そういうことでしたら」
淡く色あせたページは、その見た目に似合わず、なめらかな感触をシャレムの指先に与えた。聖書というものは、たいてい上質な紙を使って作られているらしい。だから火を起こすときには聖書を燃やすのが一番いいのだと、どこかで誰かが言っていた。
「……はじめに、かみは天と地とをそうぞうされた。地は形なく、むなしく、やみがふちのおもてにあり、かみのれいが水のおもてをおおっていた……」
霧の中に溶けていくような声で、シャレムはそれを読み上げていった。甘やかな、粉薬めいた匂いがその声の中に含まれているように思える。ドクターはシャレムにもたれかかり、それを聞いている。傍から見ると、歳の離れた兄弟のようだった。
後ででいいから、コンビニで週刊誌を買ってこよう。あやすように読み聞かせる声を聴きながら、ドクターはそう考えた。しかもとびきり猥雑なやつを。ロドスで読んでいたら、ケルシーに眉を顰められるような類のやつだ。せっかくだから、ロドスではできないことをしたい。
「まだ聞きますか?」
きりのいいところまで読み終えたシャレムがそう訊ねる。
「ううん、いいよ。ありがとう」
聖書を受け取って、あらためてその装飾を見る。えんじ色の表紙に、金色の字が彫られている。ただそれだけだ。シャレムの指先が、ドクターの額にそっと触れた。今はフェイスシールドを外しているので、肌と肌が直接触れ合う。シャレムの手は、いつも触れているようでそうでないような錯覚を抱かせる。室温とほぼ同じ温かさをしているからかもしれない。生ぬるい水に触れているような心地がするのだ。
「コンビニに行ってくる」
「道は分かりますか」
「分かるよ。来るとき見たもん」
ベッドから降りてドクターが言う。コンビニはホテルの隣にある。立地的にも客層的にも、ここ周辺のホテルに滞在した者ばかりが利用してそうな店構えだ。シャレムに限らず、ロドスの面々はドクターに過保護である。彼が数メートル先の建物へ行くことさえできないと思っているのかもしれない。お気をつけて、という声を背に部屋を出た。
コンビニのごたごたとした感じがドクターは気に入っていた。物が多いのに整頓されている。にぎやかな入店音がする割には、店員や客の話し声が全くしないところも好きだった。いかにもビジネスマンという風の男が、弁当売り場前に立ってじっと惣菜を見下ろしている。客はドクター以外にその男だけだった。ドクターは時間をかけて雑誌を吟味した。悩みに悩んだ末、一番表紙がけばけばしいのを選ぶ。不倫、横領、辞任の可能性、というような見出しの隙間から、水着のグラビアが覗いている。
こういう出張のたびに、彼はついはしゃいで色んなものを買ってしまう。小さいブタメンをふたつと、大きなシュークリームもふたつ買う。シャレムは食べないというかもしれないが、それなら明日にでも自分が食べればいいし、カップラーメンは執務室に隠しておやつにすればいい。
ドクターがホテルに戻ったのは、長く見積もってもニ十分後だろうか。レジ袋をガサガサと鳴らしながら部屋に入る。玄関に入ってすぐの場所は廊下のようになっており、ベッドのあるスペースまで見通せないつくりになっている。その奥から「ドクター」とシャレムの呼ぶ声がした。
ペットに出迎えられる飼い主の気持ちとは、こういうものなのだろうか。なんとなく保護者ぶりたくなって、「いい子にしてた?」と聞きながら奥へ向かう。シャレムの美しい顔がにこやかに出迎える光景を想像しながら進んだのちに、予想外のものが視界に入る。長い尻尾。フィディアのものではない。白地に黒い豹柄の、ふわふわとした毛並みの尾だ。それが、ベッド上から床近くにまで垂れている。尾の持ち主の顔を見るより早く、それが誰であるかをドクターは察することができた。
「シルバーアッシュ」
シャレムとは種類の違う美しい顔が、ドクターを見つめた。昼間見たのと同じ、華やかなスーツを着ている。少なくとも、安い事務机に腰かけているタイプの人間ではないと分かる仕立てだ。彼がここのフロントに入った瞬間、ホテルのグレードを間違えてるんじゃないかと従業員を慌てさせたかもしれない。シャレムがこちら振り返って「おかえりなさい」と言う。二人は対角線上になるように、ややずれて向かい合うようにして別のベッドに腰かけていた。
「本当に来たの」
「迷惑だったか?」
ドクターは答えなかった。自分はそうでもないけど、シャレムには迷惑だったと思うよ、という言葉を飲み込んだ。まさか今日すぐに会いに来るとは思わなかったのだ。見ると、シルバーアッシュの手の中には紙コップに注がれたコーヒーがある。部屋に備えつけのものでシャレムが用意したのだろう。
「ただいま」
コンビニに行く前と同じように、シャレムの隣に腰を下ろしてドクターが言う。
「目当てのものは買えましたか」
「うん」
そう答えてガサガサとレジ袋の中をかき回す。「仕事はいいの?」こちらに注がれるシルバーアッシュの視線を意識しながらドクターが訊ねる。
「終わらせてきた」
「へええ。お疲れ様」
レジ袋から覗く、ブタメンの赤いパッケージを奇妙なもののようにシルバーアッシュが見ている。不意に、シャレムが立ち上がった。
「出かけてきます」
「え」
どこに?何しに?いつ帰ってくるの?そんな風に質問を重ねられても、シャレムはおっとりとした風に「三時間後くらいですかね」と言うだけだった。
「三十秒で帰ってきてもいいよ」
そう言うと、シャレムは笑って「気が向いたら戻ってきます」と言った。外套を羽織って出ていった部下の姿を、ドクターはどこか寂しそうに見送った。可愛がっていた子犬が、お友達の犬の元へ駆けていくのを眺めている気持ちだった。ドアの閉まる音が聞こえた後、ドクターはカランドの主に向き直って「シャレムに気を遣わせたじゃないか」と怒った。
「そう凄むな」
「来るとき前もって電話くらい入れればいい。あと、コーヒーをもらった時にお礼を言ったか?」
「さあ。どうだったか」
「私の子犬をいじめるな」
「あれは見る限りフィディアのように見えたが」
「子犬と同じくらい可愛がってるって意味だ」
「それなら私にとって、あの男は汚らわしい間男ということになるな」
「どうして君はいつもそういうことばかり言うんだ?」
ドクターはさっき買ったシュークリームを取り出すと、「あげる。シャレムの分のつもりだったけど」とひとつをシルバーアッシュに渡した。
「君はもっと可愛げのある振る舞いをしなよ。いつもえらそうにしてるせいで嫌な奴に見える。たまには人に甘えたり、弱みを見せたらいいのに」
「お前がこういった助言をするとは珍しいな」
「いつか本当に好きな人ができた時、気をつけなよ。君自身のために」
シルバーアッシュは返事をしなかった。ドクターがシュークリームを一口かじる。カスタードと生クリームが、混じり合って口の中にあふれていく。唇の端についたそれを舌先で舐め取った。シルバーアッシュの視線が注がれているのが分かる。彼はシュークリームの包みさえ開けずにいた。膝に置かれた、骨ばって大きな白い手。
自分はどうしてこんなにもシルバーアッシュに強くあたってしまうのだろう、とドクターはひっそり考える。確かに自分本位なところがある男だけれど、こうして仕事終わりに会いに来てくれるだけでも、ずいぶんと健気に思える。ついさっきのことも、彼ではなく他の誰かがしたことであれば、叱りはするけど笑って許していただろうか。
自分は、彼の好意が失われる未来が怖いのかもしれない。ほとんど確信めいた力強さでドクターはそう思った。子犬みたいに自分につきまとっている彼が、いつか他の誰かに同じようなことをして、こちらに見向きもしなくなったら。そう考えると、胸がじくじくと痛むような気がした。
結局のところ自分は、シルバーアッシュの好意の意味が分からず、それでいてその好意がいつか失われるのが嫌でたまらないだけだ。気まぐれな好意を引き留めることほど愚かな振る舞いは他にない。理由の明白な好意を彼は好んでいた。シャレムがこちらに向けるものもその種のものだ。以前、ファントムを助け出す手伝いをした。その義理を返すために親切にしてくれる。それと、彼の元々の礼儀正しさもあるだろう。
「君に聞いてみたいことがたくさんあるよ」
シュークリームを食べ終えて、ドクターはそう言った。
「なら聞けばいい。我々は分かり合う必要がある」
「聞いてもどうにもならないから、聞かないんだよ」
食べないの、と未だシルバーアッシュの手の中で居心地悪そうにしている未開封のシュークリームを見て尋ねる。整った顔は、手元に視線を落としたまま、かすかな微笑を浮かべていた。しかしその口元は、こわばっているようにも見える。もしくは、嘲笑や自嘲を含んでいるようにも見えた。
「私もお前に尋ねたいことが山ほどある」
「どんなこと」
「なぜ見せつけるように他の男と仲良くしているのか」
「……」
「お前が可愛がっている男たちと、私との違いは何であるかのかも」
「そういうことを、言い出すところが違うんじゃない」
「なら、それを控えたら、私への扱いは変わると言うのか?さっきの男のように、別れを惜しんで引き留めるようになるとは到底思えないが」
「……」
ドクターは、この世に神がいるなら愚痴を聞かせてやりたい気持ちになった。ベッドから降りて、シルバーアッシュのすぐ目の前まで距離を詰める。面白がるようにこちらを見上げる目と視線が絡まる。その顔を、ドクターは抱き寄せた。自身の胸にもたれかけさせるようにして。
「……ええと、よしよし」
口の中でつぶやくように言う。この男が求める慰めや謝罪が、どういう形のものであるか分からないまま、ドクターは頭を撫でてやった。それ以前に、慰めや謝罪を求めての言葉であるのかも不明であった。
「君を嫌ってるわけじゃないから」
嫌ってるわけではない。意識して他のオペレーターと差をつけたり、そっけなくしているつもりではなかった。ただ、困惑しているだけだ。彼の好意に対して。肉厚な耳が、ドクターの顎先をくすぐる。ぴくぴくと跳ねては毛並みをそよがせているフェリーンの耳。
「なに?」
ぐ、と彼が何かを言いかけた気がした。頭をかかえたまま背を丸めて耳を寄せる。すると、それを押し返すようにシルバーアッシュが身を乗り出した。
「う」
ドクターの頬に、鼻先が擦りつけられる。まつ毛が触れ合いそうなほどすぐ間近でかち合う視線。淡い色をした瞳孔が、ドクターの顔を覗き込む。ぐるるるる、と音がした。喉を鳴らしているのだと気づく。そのまま、じゃれあうように頬をすり寄せてきた。
「……」
ドクターは戸惑いながらも受け入れようとした。鼻先に続いて、唇も肌に触れていく。熱く湿った息が撫でるように頬を這っていた。ぞわ、と手指の先から力が抜けていく。その瞬間だった、ぷつ、と何かが食い込んだのは。
「あ……?」
痛みにしては鈍い感触に、反応が遅れる。顎に向かって何かが伝っていくのを、唾液か何かかと思い込んだ矢先に、濃い鉄錆の匂いがした。
シルバーアッシュが顔を遠ざける。見ると、獰猛な笑みの中で、唇から覗く牙に赤いものが付着している。噛まれたのだ、とようやくドクターは理解した。分厚い舌が頬の血を舐め取る。傷口に唾液が滲んで、軽い痛みを覚えた。
「シルバーアッシュ」
そう呼びかけようとした口が、塞がれた。シルバーアッシュの唇で。血の付いた舌がねじ込まれた。口内に残っていたカスタードと生クリームの風味に、鉄錆の匂いが混じり合う。ドクターは一瞬で吐き気を覚えた。唇や舌の感触に意識を向ける余裕すら無いほどに。
「まずそうな顔だ」
愉しげに言う声がした。ようやく顔を離して、唇の端に血の名残をつけたままのシルバーアッシュのものだった。
「……」
「そう怖い顔で睨むな」
そう言いつつも、少しも怖気つく様子はなかった。
そろそろお暇しよう、とまるで常識的なお客様のようなことを言って、シルバーアッシュは部屋を出ていった。その入れ違いにシャレムが戻ってくる。不自然なほど間を置かずに。早かったね、とドクターが言うと「実は、部屋のすぐ外で事が済むのを待っていたんです」とシャレムは言った。
「……」
なら、叫び声か何かを発していたら助けに来てくれたのだろうか? 部屋を出たシルバーアッシュが彼と鉢合わせた瞬間の空気は、あまり想像したいものではなかった。シャレムは、かすかな微笑を唇に浮かべながら(それでもほとんど真顔に近い表情で)ドクターの顔をじっと見た。そして、へたり込むようにベッドに座っている上司へ言う。
「ドクター、傷の手当てをいたしましょう」
「傷?」
シャレムは黙って自身の頬を指さした。それを見て、ようやくああ、と納得する。血を舐め取られてからのことばかりが頭に残っていた。
「あの方を婦女暴行で通報しておきますか?」
「私は女性じゃないよ」
「それは分かっていますが……」
シャレムの細い指が、ドクターの顔を押さえて傷口の様子を確かめる。なまぬるい指だ。すぐそばにまで近づいたシャレムの顔は美しい。それを見て、ドクターはますますシルバーアッシュの好意の意図が分からなくなった。懸想するなら明らかにこちらの方だろう、と。
「ねえシャレム」
「なんでしょうか」
「君から見て、私とシルバーアッシュはどういう仲に見える?」
「仲の良いご友人でしょう」
打てば響くような速さで、シャレムがそう返した。そう、とだけドクターは答える。わずかながらの安堵が胸に広がった。本当にわずかなものであったが。少なくとも、血を飲ませたり、突然頬に牙を立ててくるような異常さは、表には出てきていないのだろうと。
「ですが」
穏やかな声が、ドクターの思考を遮った。
「ですが、あのご当主さまは、それ以上の関係になりたいと願っているのでしょうね」
フロントに薬を借りてきます、と言ってシャレムは立ち上がり、部屋を出ていった。優雅としか形容できない立ち振る舞いだった。さっきの言葉が劇を締めくくる台詞であったと言われても信じてしまいそうなほどに。
「…………」
手持無沙汰に、ドクターは部屋を見渡した。そしてふと、床についた一点の染みに気づく。マットに染み込むようにしてできた赤黒いそれは、さっき頬から垂らした血液に違いなかった。シルバーアッシュが腰を下ろしていたベッドのそばについている。
ドクターはそれを黙って見つめていた。奇妙な、それでいてグロテスクなものを目の当たりにしたように。それは頬につけられた傷よりもずっと、生々しいものに見えた。自分とシルバーアッシュの両方が意図しないまま、他者にも見える形で、その場に残してしまったものとして、ひどく醜悪に。