遺書代わりの小説5

 小学生の頃、私は他人より少しだけ絵や文をかくのが得意だったので、何度か表彰される機会があった。表彰と言っても、ほとんどが全校集会中に壇上でやる程度のものだ。
 表彰される作品は大抵、読書感想文や、紙版画、木版画、水彩画あたりだった。特に読書感想文は私の得意分野だったらしい。夏休み明けの読書感想文は何度もそういう機会に恵まれた。

「野田、頼むぞ。お前に賭けてるんだから」
 二年時の担任が、にやりとしながらそう言ってきたこともある。夏休み直前に、宿題諸々を渡されながらのことだった。私は意味が分からず、黙って宿題を受け取った(小二の頃の私は、四年生の時の私より寡黙だった)が、夏休み明けに数カ月ほどたってから、その担任がにやにやしながら手招きしてきた。請われるがまま教室の隅に置かれた担任用机のうしろに回り込むと、足元の棚の中に「テニスの王子様」の単行本がずらりと収納されていた。
「賭けに勝ったんで、××先生に買わせたんだよ」
 つまり、その××先生と、どちらの受け持ちの生徒が賞をもらえるかで賭けをしていたらしい。それで担任は「テニスの王子様」を買ってもらったと。担任はそれ以外にも、ファミリーパックのきのこの山や、個包装された飴を机の引き出しにしまっていて、物静かな生徒しかいない時はこっそりみんなに分けてくれた。
 一度、職員室で教員全体にりんごが配られた時、担任は小さなペティナイフを教室に持ち込んで、教卓でりんごを剝いてみせたことがある。確か、「せいかつ」の時間だったはずだ。みんなが席に着いてじっと見つめる中で、するするとりんごの皮が剥けていく。最後にはクラスの人数分に切り分けて、全員が一切れずつ食べれるようにしてくれた。
 あまり教員らしくない人だった。男性で、小太りではあったが、だらしないというより恰幅が良いという風な見た目だった。よくにやにやとしていて、男子とふざけ合うのを好んでいたように思う。彼に対して「親しみやすい」と思っている生徒と「何を考えているのかよく分からない」と思っている生徒に二分されていた(私はもちろん後者だった)腹の底から低い声を出すうえに、叱るときは廊下にまで響くような大声で怒鳴るので、当時の私はどちらかというと苦手意識を持っていたのだが、今思い返してみると、私含めた大人しい生徒には一度も声を荒げない人だった。

 話を戻すと、その日も私は全校集会で表彰される予定だった。読書感想文が市だか県だかの小さな賞で拾ってもらえたのだ。しかし私は気が重かった。
「なんで?」
 廊下の隅にしゃがみこみ、外から持ち込んだらしい小石の角で、壁の溝をざりざりと削りながらあかねちゃんが聞く。それは中休みの最中だった。遊び回るみんなの歓声が聞こえてくる。私はあかねちゃんのそばで、壁に寄りかかって立っていた。
「だって、いつもと違うんだよ」
「うん」
 相槌を打ってはいるものの、何も分かっていなさそうなその反応に、私は少し苛立ちながらこう続けた。
「いつもと違ってて、みんなと違うことするの、緊張しない?」
「しない」
 即答される。私は内心落胆しながらも、まあそうだろうな、と納得した。あかねちゃんはものすごく堂々と、授業をさぼったりずる休みしたりする。みんなと違うことをして緊張するような性格ならば、こんな風には育っていないだろう。
 十分に把握できていないことを、みんなの前でやらされる状況が、私はすごくいやだった。表彰されるにしても、どんな順番で呼ばれるのか、どんな風に並んでおけばいいのかも前もって知らされていない。勿論、その場で先生や係の子が適宜指示を出してくれるだろうとは分かっているけれど。練習も無しに、全校生徒の前で慣れないことをして、もし失敗したらと心配するのが本当に嫌だった。
「予行練習はないんですか」
 はじめて表彰されるのが決まった時、私は担任にそう訊ねて苦笑された覚えがある。笑わないで欲しい。こっちは死活問題なんだから、と当時は真剣にそう思っていた。だって、運動会も学芸会も、失敗しないように予行練習の機会が設けられているのに、表彰授与にはそれがないなんておかしいだろう。
 私は、溝を掘り続けるあかねちゃんを眺めた。どちらかというと、壁の溝より手に持った小石の方が削れているように私には見えた。

 表彰の時間は、すぐにやって来た。
 体育館で集会が始まってすぐに、表彰されるほかの生徒と一緒にステージの舞台袖で待機する。舞台袖には、小さな小窓がひとつあるきりで、その窓も黒く分厚いカーテンで塞がれている。そのためステージ上の明るさに反して、私たちの周囲は奇妙なほどに薄暗かった。使われていない来客用の椅子や折り畳みテーブルが、重ねて隅の方に寄せられている。それがこの部屋を、より狭苦しく感じさせていた。カーテンの裾からわずかに漏れ出ている、外からの光がやけに白々としていたのを今でも覚えている。
 私は当然ながら緊張していた。舞台袖にいるせいか、校長先生の声がいつもと違う風に聞こえてくる。なぜかは分からないが、ホームシックになっているような、心細い気持ちに私はなっていた。面識のない他学年の生徒たちと、一緒くたにまとめられているせいだろうか? それも、こんな薄暗い場所で。しかしほかの生徒も、おそらく似たような気持ちだっただろう。周囲を見渡すと、みんな私とおんなじ表情をしていたからだ。

 表彰自体はあっけなく終わった。校長先生が、マイクに拾われない程度の小声で生徒の名前を呼ぶ。それに合わせて各自が前に出て行って表彰状を受け取った。
 全員分の表彰が終わったら、連なるようにして下手側の舞台袖にぞろぞろと向かっていく。そこにも先生が一人待機していて、私たちを迎えると微笑んで、それぞれの学年の列に戻るよう促した。
 私は意味もなく周囲を見渡した。さっきいた舞台袖と内装はそう変わらない。パイプ椅子が壁一面を覆うように積まれていた。地震なんかがきたら一気に雪崩れ込んできそうだな、と思った。それを塞き止めるような配置で、パイプ椅子の山の手前にホワイトボードが置かれている。私はホワイトボードの下に、奇妙なものを見た。二本の脚だ。ボードからそのまま脚が生えているかのような絵面だった。私は前の生徒に続いて歩きながら、その物体に目を凝らそうとして──それが目の前から消えたかと思うと、ふっとホワイトボードの裏から何かが踊り出してきた。
「わっ!」
 私はびっくりした。あかねちゃんが「ばあ」という風に突然飛び出してきたからだ。驚きすぎて、声を上げることもできなかった。反射的に足を止める。他の生徒もそうだった。たったいま舞台袖からアリーナ側に出ようとしていた六年生も、足を止めてぎょっとこちらを振り返っている。唯一、付き添いの女の先生だけが小さく悲鳴を上げていた。
 ほんの数秒間、妙な沈黙がその場に落ちていた。誰も何も言わなかった。あかねちゃんはにやにやしてこちらを見るばかりだったし、私も他の生徒も、どうするべきか分からず押し黙っていた。おそらく他の生徒や教師陣は不思議そうに舞台袖の中の様子を窺っているのだろう。いつまで経っても生徒たちが出てこないからだ。ようやく女の先生が「あなた、なにしてるの」と口にした。その声は叱るというよりも、困惑しきって怯えているように聞こえた。
 先生は何度か口を開けては閉ざし、お叱りの言葉が思いつかなかったのか、それとも集会を滞りなく終わらせる方を優先しようとしたのか──最後にはこわばった顔であかねちゃんと私たちを見比べたあと「あなたも早く戻りなさい」とあかねちゃんの背を押した。
「はあい」
 そう答えて、あかねちゃんが私の真横に滑り込んできた。ようやく動き出した列と一緒に私たち二人も舞台袖から出る。表彰されていた生徒たちの中に、一人男子が増えていてもほとんどの生徒たちは気がつきもしない。さすがにクラスメイトたちは、一緒に出てきたあかねちゃんを不審そうな目で見ていたけれど、その興味も一瞬のことだった。
 私とあかねちゃんは、クラスの列の一番後ろに座った。いつもの背の順とは違い、みんなの頭と背中が見渡せる。表彰だの何だので抜けていた子の特権だ。
「よかった」
「なにが?」
「うち、一番後ろに座ってみたかったから」
 あかねちゃんがひそひそと言う。私も彼も、同じくらいの背丈をしていて、低いわけではないけれどクラスで一番の身長、というほどでもなかった。
「あかねちゃん、後ろに座ったことあるじゃん」
「え、ないって」
「あるよ。先生に連れて来られたとき」
 いつだったか、全校集会の時間になってもあかねちゃんの姿が見当たらなかったことがある。体育館に向かっている途中から私はそれに気づいていたが、まああかねちゃんのことだしな、と気にしないでいた。集会が始まって、今みたいに床に座って校長先生の話をぼんやりと聞いていたら、その途中で体育館の出入り口が開いて、あかねちゃんが先生に連れられて入って来たのだ。その教師は、高学年の担任で、背が高くこわい顔をした男の人だった。あかねちゃんの折れそうに細い腕を掴んで体育館の後方に向かっている。
 あまり物音を立てずに出入り口を開けたおかげで、その二人に気づかなかった生徒も大勢いるだろう。しかし私はそれをしっかりと目撃していた。あかねちゃんは、少しも怖がっていないようだった。きまり悪そうにしたり、反省している風でもなく、むしろ勲章を見せびらかすようににんまりとしていた。あの時も、列の一番後ろに彼は座っていたはずだ。
「そうやったっけ?」
 あかねちゃんは本当に覚えていないらしい。困ったように首をすくめて、それきり話は終わった。
 私は、いつからあそこに隠れていたの、とか、ドキドキしなかった? とか、いろんなことを聞きたかった気がしたけど、その全てをきれいさっぱり忘れてしまった。ただ、舞台袖からそのまま持ち帰ってきた賞状を、手の中で邪魔そうに持て余しては集会が終わるまでの時間を過ごしていた。