口紅と小鳥

 きっとこのくらいが丁度いい。ロドスを離れるたびに、シルバーアッシュは自身にそう言い聞かせていた。好んだ相手と四六時中いっしょにいたら身が持たない。一ヶ月に何度か会うくらいが理想的な距離感なのだろうと。
 彼は何度もそう考えて、けれど遠ざかっていくロドスの甲板を私用ヘリの中から見下ろすたびに、どうしようもなく胸が締めつけられるのだ。甲板の真ん中には、見送りに来ていたドクターがこちらを見上げ立ち尽くしている。距離が開くにつれて、その姿は米粒のように小さくなっていく。甲板は寒々しい灰色をしていて、ドクターは黒っぽい防護服を着込んでいるために、普通ならば景色に溶け込んでしまうだろう。それでもシルバーアッシュは、まるで紙面に落とした一滴のインクのように、どれだけ離れてもその黒点じみた姿を甲板の中に見つけられる気がした。
 遠距離恋愛中の女学生じゃあるまいし。シルバーアッシュはそう自嘲して、どうにか胸の内の寂しさを誤魔化そうとする。この時の彼は、自身が友情以上のものをドクターに求めているなんて少しも思っていなかった。ただの友人同士であると、そう自認している時からこんな有様だったというのは、後から考えると少し笑えるかもしれない。

 どうしてリップグロスをドクターに贈ろうと思ったのか、シルバーアッシュは自身でもうまく説明できなかった。女装して欲しいと思ったわけではない。ただ、ドクターがこういったもので着飾っているところを見たかったのかもしれない。リップグロスは持ち手が銀色で、中にはとろりとしたピンク色の液体が閉じ込められている。
「それ、口紅?」
「違う。似たようなものではあるだろうが」
「ふうん」
 そう相槌をうったドクターが、真剣な顔で「くち、尖らせてた方がいい?」と聞くのでシルバーアッシュは少しだけ微笑して「そのままでいい」と答えた。
 ブラシの先でほんの少しだけ取ったグロスを、唇の真ん中に置いて塗り広げる。唇はうすく、その作業はすぐに終わった。改めてドクターの顔を見た瞬間に──シルバーアッシュは悪寒に似た何かがぞわりと体を走るのを感じた。不気味なほど美しく見えた。ほんの一滴、唇に色を足しただけの顔が。少女のようだ、とは思わなかった。男でも女でもない生き物に見えた。
「変?」
 おそらく、無意識のうちに顔を歪めていたのだろう。ドクターは不安そうに、それでいてシルバーアッシュの反応を面白がるようにして尋ねた。
「いいや」
 シルバーアッシュはそう答えながら、こまやかに動く唇を見て、不意に下品な妄想が頭をかすめるのを感じた。ドクターの小さい顔が、自身の脚の間にあるものを咥え込んでいる。甘い色をした唇で。彼はその光景を急いで振り払った。そして同時に愕然とする。自分がそういった目で、目の前の男を見ていたのだという事実に。
 唇に塗りたくられたグロスを、彼は手袋を嵌めた手で拭い取った。乱暴に擦られる唇に、ドクターはやや顔をしかめながらも抵抗しなかった。
 対してシルバーアッシュは、自身の妄想にやや呆然としながらも、奇妙な安堵も覚えていた。ようやく答え合わせができたかのように、納得しているのを感じる。思えば自分は、ずっと前からこうやって魅入られていたのではないだろうか? この大きな目や、長いまつ毛や、じっとこちらを見つめる視線に。ただ、気づこうとしなかっただけで。
 拭い取ったリップグロスは、黒い手袋の表面で色を失い、ただてらてらとぬめった光を帯びていた。まるで唾液に濡れたかのように。

 自分は、彼の聡明さに惹かれはしたものの、それをどうにかしたいとまでは考えていなかったはずだ。シルバーアッシュはそう自問する。彼の卓越した知能を讃えて、隣に並び立つ者として認めてもらえればそれで充分だと。それなのに今は、彼を手に入れたいと思っている。
 あの白い手に手を重ねて、もし握り返してもらえたら、どれだけの喜びを得られるだろう。そう思っていたはずなのに、実際はそれ以上のことを望んでいたのだと、その白い指一本一本に舌を這わせたいと思っていたことに気づいてしまったような、そんな愕然とするものがあった。
 
「仕事は楽しい?」
 ある日、ロドスのバーの中でシルバーアッシュはそう聞かれた。まるで母親が、学校でのことを子供に尋ねるような口調だった。シルバーアッシュが視線を寄越す。バーのカウンターの中に、ドクターが立っていた。「お遊び」で今日だけバーテンダーをやっているのだという。味に保証はできないから、お金は取らないと。
「母親のような物言いだな」
「だって、なんだか君、最近やつれてるように見える」
 シルバーアッシュは苦笑した。彼の前にはオレンジ色のカクテルがひとつ置かれている。ドクターがこしらえたものだ。一口飲んだだけで、舌が痺れそうなほどに甘いカクテル。
「なのに、目だけはやけに爛々としてるし」
 覗き込むようにしてこちらを見るドクターに、シルバーアッシュもまた見つめ返した。フェイスシールドを着けていないために、表情がよく見える。明かりを絞ったバーの中で、白い顔がぼんやりと揺蕩うように浮かんでいる。注意深い動物のように、こちらを見つめる目。まつ毛の影が目元に落ちている。
「特に、私の顔を見てる時なんか」
 悪事を言い当てられたような心地だった。シルバーアッシュは黙ってカクテルに視線を落とした。シャツの中で、肌がじんわりと汗ばんでいる。
「そうだろうな」
 その返答に、ドクターが動揺する素振りはない。もはや投げやりにも思える気持ちで、シルバーアッシュはまっすぐにドクターの顔を見た。取り繕うことをやめて、その瞳や口元を見つめる。ドクターはやはり、何を考えているのか分からない顔で、黙ってシルバーアッシュを見つめ返していた。
 自分の中にある、ドクターへのよくない感情を自覚してからというもの、彼の目に映るドクターの姿は、全てが意味を持つようになった。例えば、静脈の透けた白い手首や、照明を見上げるときに必ず瞬きする目元だとか。「シルバーアッシュ」と呼びかける唇の動きが、全て意味を持ちシルバーアッシュの中で息づき始める。
 信仰とは、こういうことを指すのかもしれない。そう思いながら、あと何度かドクターと顔を合わせたら、ベッドに誘ってみたいとシルバーアッシュは考えていた。

 シルバーアッシュは夢を見ていた。
 夢の中で、彼は小鳥を眺めていた。小さな、可愛らしい、白い体をしている。その小鳥は、思慮深く聡明だ。やすやすとシルバーアッシュの足元に下りてくるような、軽率なふるまいなどしない。注意深く彼の真意を図ろうとする。枝にとまったまま、黒目がちな目でじっと観察し続けていた。可憐な鳴き声を聞かせてやったりもせずに、押し黙っている。
 ようやくシルバーアッシュの手の中に下りてきても、小鳥は警戒するのをやめない。羽も脚も、いつでも飛び立てるように身構えている。首をかしげ、彼の瞳を確かめるように何度も覗き込んだ。
「それ、口紅?」
 小鳥が言った。いや、それはくちばしを少しも動かしていない。だから小鳥が言ったはずもないのに、何故かシルバーアッシュはそうだと確信している。
「違う」
「ふうん」
 シルバーアッシュは、自身がそう答えるのを聞いた。その声は彼の喉から出たわけではなく、どうしてか頭の中に反響するようにしてその場に落ちた。
 小鳥はようやく、彼を信頼したらしい。ゆるやかに脚を折り畳んだ。スズメじみてふっくらとした胴体を、手のひらのくぼみに沿うように埋めて、身を落ち着ける。安息の地を見つけたとばかりに、うっとりと目を閉じて羽をしまい込んだ。小鳥の寝息が聞こえてくる。耳をくすぐるような、衣擦れのようにささやかな寝息だ。その時だった。シルバーアッシュが小鳥を握りつぶしたのは。

 その瞬間に、彼は目を覚ました。
 ぼんやりとした視界に、白いシーツが映っている。まるで地平線のように視界を横切り、その端には枕が転がっていた。そして目の前に、あの小鳥が倒れている。
 夢の中の小鳥は、握りつぶした瞬間に低いうめき声をあげていた。そして今は、こまやかに痙攣しながら、ベッドの端にぐったりと横になっている。憐れなほどにくたびれて、羽根の一枚一枚に疲労を滲ませて。
 呆けたようにその姿を眺めていると、突然小鳥の体がぐわりと巨大化する。二本の白い突起が体から伸びる。その突起の先が丸みを帯びていき、なだらかな形を得る。棒じみた突起はいつのまにか、人間の素足の形をしていた。力なく投げ出された脚を視線でたどる。そこには人間の上半身があり、着古したスウェットや、色素の薄い髪もあった。
 シルバーアッシュは、自身がさっきまで寝ぼけていたことを知った。目の前に横たわるドクターの姿は、痙攣してなどいないし、暴力の痕も見当たらない。ただ、うなじの後れ毛の一本ずつに疲労が滲んでいるのは小鳥と一緒だった。情事後特有の、熱を帯びて気だるげな姿。身につけているのはスウェットの上だけで、両脚は剥き出しになっている。
 不意に、ドクターが寝返りを打ってこちらを向いた。一瞬だけ顔をしかめ、目を開ける。
「起こしたか」
「……ううん」
 掠れた声がそう答えた。ドクターが這うようにシルバーアッシュの元へ近づき、彼の懐にすぽりと収まった。二人の体が密着する。シルバーアッシュの寝巻きを捲り上げたかと思うと、彼の腹筋に両手がぺたりと押し当てられた。冷えた指先だった。
「…………」
 ドクターは、こうしてくっついて寝ることをよく好んだ。セックスはそうでもないのに。しかしシルバーアッシュはその理由が分かる気がした。彼は体温が低い。常人よりもずっと。他人と肌を温め合って、ようやく普通ほどのぬくもりを得られるのではないだろうか。
 根拠はないのに、なぜかそう確信していた。そうであった方が彼らしいと思う。飛び抜けた知能を持つ彼は、他人の手を借りないと健康な肉体でいることもできない。おとぎ話の呪いのように甘美な話に思えた。
 喉の渇きを覚えて、舌で唇を湿らす。そういえば、小鳥の夢を見る前に別のことを思い出していたような気がした。バーで、ドクターの作るカクテルを飲んでいた時のことだろうか。あれは一体何ヶ月前のことだったのか、シルバーアッシュは思い出そうとする。あの時から今に至るまで、今回のを含めて三度ドクターと寝た。
「乾燥してる」
 懐から聞こえた声に、視線を落とす。ドクターがこちらを見上げていた。動物じみた、大きな目で。何のことかと思っているシルバーアッシュに、言葉を続ける。
「唇が」
「ああ」
 ついさっき、唇を舐めた。そのせいもあるだろう。さして気になりはしなかったのだが、ドクターはそうではないらしい。
「待ってて」
 そう言って、するりとベッドを抜け出してしまった。その直前の、すらりとした脚が目の前に並び、すぐに視界から外れていく光景が目に焼きついた。かさこそと、ネズミが巣作りするような音が背後から聞こえる。振り返ってわざわざ見るのも悪いような気がして、黙ってその音を聞いていると「目を閉じて」という声がかかった。
 黙ってその通りにする。ドクターがベッドに戻ってきたらしい。浅く上下するスプリングと、シーツが擦れる音。閉じた瞼の裏が暗くなり、ドクターがこちらを覗き込んでいるのが分かった。呼吸を整える。何か、胸を沸き立たせるようなことが行なわれようとしている。金属が擦れ合う、ひそやかな音。息を詰めた瞬間に──とろりと、ぬめりを帯びた液体が口に触れた。
 乾いていた唇に、それが染み込んでいく。彼は反射的に、わずかに舌をのばして絡め取ろうとした。ドクターの唇が押し当てられたのだと思ったのだ。舌と唾液が触れたのだと。液体の冷たさは奇妙に思えたが。
 しかし彼の舌は何も捉えられず──代わりに、ひそやかな笑い声が頭上から降ってきた。ひそやかで、けれども跳ねるようなくすくす笑い。シルバーアッシュは目を開けた。鮮やかなピンク色が、目の前にあった。チップブラシの先端が、その色で染まっている。
 やや唖然としながらも、シルバーアッシュは目の前のそれが何であるのか思い出した。リップグロスだ。あの時ドクターの唇に塗ってやった。捨ててもいいと言って押しつけるように渡したもの。
 視界には、こちらに屈み込んだドクターの白い両膝が並んでいる。おそらく今、自分の唇はちぐはぐなピンク色に塗りたくられているのだろうと彼は思った。頭上から聞こえてくるくすくす笑いをぼんやりと聞きながら。