遺書代わりの小説3

 それは昼休み中のことだった。
 私は教室で自席に座り、シール帳を広げてははいじくりまわしていた。小学四年生の頃の担任は寛容で、他のクラスなら禁止されていただろう、シール帳や遊戯王のような「勉強と関係ないもの」を持ち込んでも叱らなかった。
「Aちゃん」
 黙々と、シールを台紙から手帳へと張り替える作業の合間にそう呼びかけられた。見ると、あかねちゃんがそこに立っていた。女の子みたいな顔と、ドラゴンがプリントされた黒いTシャツに半ズボンという、いかにも男の子らしい恰好。いつの間にか、教室には私たち以外誰も残っていなかった。お喋りをしていた女子のグループが、出入り口近くにいたはずなのに。「な、見せたいもんあるから一緒に来て」あかねちゃんはそう言った。
「なにするの」
「ええから」
 彼が私の腕を取る。私は散らかしていたシールを机の中へしまって、シール帳だけを手に立ち上がった。

 あかねちゃんの後を黙ってついていく。廊下中の窓が開け放たれているので、校庭で遊ぶ子供たちの歓声がここまで聞こえてきた。校舎の中は、日向の匂いが充満している。大半の生徒は外に遊びに行ってるらしく、通りすぎる教室を覗いても、両手で数えきれるほどしか人がいない。グラウンドの歓声が別世界のものに思えるほど、奇妙な気だるさと静寂があった。
 二階から三階へ上がり、特別教室が集められた場所まで来ると、その静けさは段違いのものになる。特別教室棟は、昼間でも薄暗くひんやりとしていた。理科室、理科準備室、家庭科室、図工室。そういう部屋ばかり並んでいる。私は妙にどきどきした。昼休みに、特別教室のある場所まで来ることなんてない。
「どこに行くの」
 遠出するならシール帳を持ってこなければ良かったと後悔しながら私は言った。
「ここ」
 あかねちゃんはそう言って、理科室の戸を開けた。中は、廊下と同じように薄暗い。普通教室とは違い、大きい長テーブルが六つあり、それぞれに椅子が六脚ずつあてがわれている。理科室の椅子は、普通教室のと違って病院にあるような丸椅子だ。背もたれが無いのが不便で、私はあまり好きではなかった。その椅子を、あかねちゃんがひょいと持ち上げる。
「廊下に人いる?」
 私は条件反射で廊下の様子を窺った。誰もいない。足音すらも聞こえなかった。
「いないよ」
「よっしゃ」
 あかねちゃんが椅子を持って廊下へ出る。何が何だか分からないまま後に続いた。理科準備室を挟んで隣にあるパソコン室の中に入る。あかねちゃんは窓辺へまっすぐに向かった。もちろん、椅子は持ったままだ。重たげなカーテンを端に寄せて、窓を開ける。一気に室内が明るくなった。開け放たれた窓から、生暖かい風が入り込む。昼間特有の、砂埃混じりの風。
「高いね」
 窓から外を見下ろして、私は言った。すぐ下は、職員用の駐車場になっている。校庭に隣り合う形にはなってはいるものの、砂利が敷き詰められていて歩きにくいことと、車が大量に並んでいるのもあって、そこをうろついている生徒の姿はない。先生たちの車は、赤いのもあれば青いのもある。あかねちゃんが、肩で私を押し返すように身を乗りだす。手には理科室の椅子を持っていた。
「見ててな」
 何を、と尋ねる間もなかった。彼の両腕が、上体ごと反らして大きく振りかぶられる。気づいた時には、あの椅子が窓の外に放り出されていた。間延びした晴天を背景にして。
「うそ」
 椅子は、まるでサイコロのような滑稽さでくるくると回転しながら落下していった。砂利の敷き詰められた地面。整列した色とりどりの車。私は呆けたようにそれを見下ろして──椅子が地面に着地した瞬間、鳴り響いた轟音に悲鳴を飲み込んだ。
 とてつもない音がした。鉄板を百メートルの高さから落としたみたいな音。大げさかもしれないが、当時の私にはそれくらいの音に聞こえたのだ。椅子は、運よく車を避けて地面に落ちていた。けなげな丈夫さで、あの形を保ったまま壊れることなく砂利の上に転がっている。あの音はグラウンド中に聞こえたに違いない。一瞬の静寂の後に、ざわめきがワッと湧き上がった。

「いこ!」
 あかねちゃんが、乱暴にカーテンを引き寄せた。しかし窓は開けたままなので、風を孕んだカーテンがこちらを責めるみたいに揺れていた。未だ立ち尽くしている私の腕を取って、あかねちゃんが走り出す。足をもつれさせながら、私は後に続いた。共犯、という言葉さえ思いつかなかった。廊下は無人だ。その中を走り抜ける。私は息を切らした。
「笑うなって!」
 あかねちゃんが笑みを含ませながら叫ぶ。その言葉で、自分が笑い声をあげていることに気がついた。息継ぎの合間に、咳き込むようにして笑っている。喉から血の味がした。私は一体何がおかしくて笑っているのだろう。さっき鳴り響いたあの轟音に、地面に叩きつけられた椅子に、とんでもないことをしてしまったと恐怖していたはずなのに。
 でも、先に笑ったのはあかねちゃんの方だったじゃん。そう言い返す余裕さえない。並走するあかねちゃんは声には出さずに、顔だけでにやにやと笑っている。さっき三階に上がるのに使ったのとは、別の階段にたどり着く。位置的には対角線上の場所だ。あかねちゃんが足を止める。
「息、整えて」
 はあはあはあと、軽く乱れた呼吸のまま私の背を叩いて彼が言う。内緒話をするようにひそめた声で。どちらともなく、口をつぐんだ。誰にもバレてはいけない。私たちが犯人だということを。無言のまま、ゆっくりと階段を降り始める。自然な流れで手を繋いだ。
 階段を一段ずつ下りていく。そのたびに、周囲のどよめきが足先から生々しく伝わってきた。下りた先は、二階。私たちの学年の階だ。校舎に残っていた少数の生徒が、何があったのかと落ち着かなそうにしている。しかし現場とは正反対の位置にあるからか、みんなそれほど動揺していないように見えた。何人かが、廊下の窓から顔を出して騒ぎの原因を探っている。
「あー」
 あかねちゃんが、サイダーを一気飲みしたあとみたいな声を上げた。階段の壁に背を預けて、達成感に浸っているような顔をして。
「楽しかった」
 彼が満足気にそう零す。そんな彼とは反対に、私は馬鹿みたいに後悔していた。なぜ手を貸したのか。どうしてあかねちゃんについていってしまったのか。恐怖と罪悪感が、今になってひたひたと足元まで迫ってきている。私は繋いでいた手を離し──恐ろしいことに気がついた。
「落とした」
 あかねちゃんがこちらを見る。
「なにが?」
「シール帳」
「はあ?」
「教室から持っていったやつ」
 私たちはしばらくの間見つめ合っていた。私は顔を真っ青にさせていたと思う。落としてしまった。私があの場にいた証拠を。私はあかねちゃんが、私と同じように取り乱すであろうと想像し、それに怯えながら見つめていたというのに──彼はあっさりと頷いて「なら取りに行ってくるわ」と言った。
「ダメだよ」
「なんで? Aちゃんはここで待っとればええよ」
「先生たちがもう来るよ」
「へーきやって」
 待っとってなあ。そんな風にのんびりと言って、彼は元来た道を引き返していった。一人取り残された後、私はいてもたってもいられず──けれど彼を追いかける勇気もでないまま、呆然とその場にしゃがみ込んだ。
 こういう時の悪い癖で、私は最悪の事態を思い描いていた。あのシール帳が駆け付けた先生たちに拾われる。そりゃ名前なんて書いてないけど、同じクラスの子なら私のシール帳だと分かるかもしれない。第一、私はそれに貼っているのと同じシールをいま学校に持ち込んでいるのだ。調べられたらすぐに分かってしまう。親にも言いつけられるだろう。あかねちゃんにも迷惑をかけてしまうかもしれない。いや、本当なら私は、巻き込まれ、迷惑をかけられた側なはずなのに──
 そんな風にぐるぐると考え続けていた矢先に、「ほい」と固いものでほっぺをはたかれた。顔を上げる。あかねちゃんがいた。シール帳を手に持って。
「あったで」
「……先生は」
「いや、落ちてたのはパソコン室の方やから。せんせえたちはみんな理科室の方に押しかけてたで」
 そこであかねちゃんは、意地悪そうに少しだけ歯を見せて笑った。「なんのために理科室の椅子、わざわざパソコン室から落としたと思う?」そっか。そういえばそうだった。後ろで見ている間は、なぜ部屋を変えるのかなんて不思議にも思わなかった。あかねちゃんからしても「みんなを混乱させるため」くらいの理由でしたのだろうが、思わぬところで役に立った。
「先生に変な目で見られなかった?」
「田辺に『勝手に入るな!』って理科室の方から怒られたけど、『忘れ物です』って怒鳴り返して普通に入ったわ。ついでに窓も閉めてきた」
 田辺とは、他学年の神経質な中年教師だ。やっぱり引き返さない方が良かったのでは、と一瞬思いはしたが、証拠隠滅もできたのなら良かったのかもしれない。私は心から安堵した。安心しきって、脱力した私がシール帳を受け取らずにいると、彼は勝手に手帳を開いた。なにかいじくっていたかと思うと、その指が私の顔に伸びてくる。ひやりとしたものが、頬にくっつけられるのを感じた。あかねちゃんがシール帳のページを見せてくる。
「これとおんなじのはっつけた」
 彼が指さすものは、帽子を被ったハムスターが四葉のクローバーを抱きしめている、キラキラしたちっちゃなシールだ。私はふっと笑った。彼からシール帳を受け取る。立ち上がり、二人一緒に教室に戻った。騒ぎはどんどん規模を増していた。

 結局、あの騒ぎについては、五時間目の合間に流された放送で区切りがついた。
「昼休み中に鳴った大きな音について、屋上で作業をしていた工事の人が、道具を落としたことによるものです」
 多分、校長先生のものと思われる声が、淡々とそう告げるのを聞いた。五時間目が始まっても尚、不可思議な事件のせいでどこか浮ついていたクラスメイトも、その放送で一気に興味を失せたように大人しくなった。結局、人やものが怪我をしたわけでもないのだから、その程度の騒ぎだったのかもしれない。あかねちゃんが呼び出される気配もない。私はあかねちゃんが犯人だとバレずに済んだことに安心した。

「野田さん、それは?」
 中休みに入った途端、私は担任の先生にそう聞かれた。浅黒い肌に前髪を下ろした、気弱そうな担任の顔。四年生の頃の担任は、まだ三十代にもなっていないような若い男性だった。彼の視線を辿って頬に手を伸ばし、私は思わずあっと声を上げていた。あかねちゃんに貼られた、あのシールだ。剥がすのをすっかり忘れていた。昼休み後は、グループ学習のように他の子と向かい合って作業することもなかったので、誰にも気づかれずにいたらしい。そもそも、騒ぎで浮足立っていた子たちには、私の顔なんか注視する余裕もないだろう。急いで剥がそうとする私を見て、担任が苦笑する。
「砂城くん?」
「うん」
 何も言わずとも、あかねちゃんのいたずらでされたものだと解釈したらしい。担任は、どこか疲れ切った顔で微笑を浮かべた後──その目に、わずかながらの疑心がよぎるのを私は見た。大人が子供に疑いを持つとき特有の顔。信用ならない生き物として決めつけた瞬間の目。
 それは、私に対してのものではない。今しがた自分で口にした砂城あかねという存在が、頭の中でついさっきの事件と結びつきかけたのだろう。あかねちゃんは問題児であると、周囲の大人に知られている。
「水で落としてきます」
 慌ててそう言い残し、私は手洗い場に走った。探られたらと思うと怖かった。しかし担任がそれ以上追及することもなく、あかねちゃんも見かけ上は平穏無事に、椅子のことなど忘れたような顔をして毎日を過ごしていた。