遺書代わりの小説2

「Aちゃん、音読してるときいっつもふらふらしてる」
 あかねちゃんがそう言っていたのをよく覚えている。

 国語の時間に行われる「音読」が、私には憂鬱で仕方がなかった。苦痛というほどでもない。ただ、起立して人前で読み上げるという行為が、ひどく煩わしいものに思えていた。
 頭の中で文を読み上げるとき、想像上の私の声は、つっかえることなくすらすらと読んでいく。アナウンサーのように美麗ではきはきとした声だ。砂に染みこんでいく水のように、その声が文中で語られるさまざまな物事を、私の頭に刻みつけていく。
 なのに、実際に声に出して読み上げていくと何故だかそうはならないのだ。私の番が来て、教科書を持って起立し、私は口を開く。しかし、私の喉から発せられたのは、想像上の美しい声とは似ても似つかない、ぼんやりと滑舌の悪い声だった。私はその落差に内心動揺する。混乱したまま読み進めていくが、読み間違えたり、行を一つ飛ばしたりはしない。けれども、焦りは増幅し、胸の内でふくらんでいく。「、」で一拍休むタイミングや、読み進めるスピードが私の理想から少しずつずれていくのを感じる。その頃には私はもはや恐慌し、自身が何を読んでいるのかも分からなくなっていた。
 そんな風なので、ようやく音読から解放された時、私は斬首を免れた重罪人のように、ほっと息をついて着席するのだ。そういう時、私の腕はうすく汗ばんで湿っており、机に置いた途端に餅のようにぺたりと張りついていた。
 
 それなのに、むしろ他人から見ると、私は音読が得意な方だったらしい。担任は三者面談の時、母親を前にしてしきりに褒めていたし、吃音の子が発音に詰まってそれ以上進められなくなると、決まって私に後を引き継がせた。私は起立し、吃音の子がどもりはじめた行の最初から読み上げていく。胸の内は決まって焦りを募らせているものの、担任がそれに気づく様子もない。段落の最後まで読み終えると、吃音の子の前後の生徒に、音読の順番が戻るのだった。

「Aちゃん、音読してる時、いっつもふらふらしてる」
 休み時間、あかねちゃんにそう言われて、私は初めて自身のその癖に気がついた。確かにそうかもしれない。音読している間、その焦りによるものか、それとも「本を読んでいるのに立った姿勢でいること」への違和感からか(だって、大人で立ったまま本を読むことなんてないじゃないか)私の両脚は奇妙に火照って立ち続けていることさえも億劫に思わせるのだ。音読の差中、まるで夢遊病者のように上半身をあちこち揺らしているのかもしれない。
「そうかも」
 私はやや恥じ入りながら肯定した。そしてふと疑問を抱く。
「あかねちゃん、なんで知ってるの」
「やってAちゃんが音読してたら、Aちゃんのことずっと見とるもん」
 見てる? 私を? 
 私は不思議な心地であかねちゃんを見つめ返した。アニメキャラを真似して始めたのだという、イントネーションの伴っていない平坦な関西弁。彼自身、奇行や不思議な言動が多い子供ではあったけど、そのつたない関西弁がますます捉えどころを無くしていくように思えた。
「音読、だるいしやってらんないやろ。暇やん」
「ほかのページ読んでたら」
 私も国語の授業の間、よく時間を持て余していたが(なにしろみんなの音読スピードが、頭の中で読み上げるスピードに全く追いついていないのだ)そういう時は先回りして教科書を読んでいた。全く別のお話を読んでいたこともある。授業では「白いぼうし」をやっているのに、私は「アップとルーズで伝える」を読んでいたりとか。それでも、一学期の半ばには教科書のほとんどのお話を読み終わってしまっていたが。
「やから、それがつまんないんやって」
 あかねちゃんは堂々と言ってのける。そういえば彼は、音読の際に自分の番が回ってきても「どこですか」と悪びれず担任に聞くことがままあった。彼が自身の不注意や、周囲に合わせられずにいることをさして恥ずかしいものと思っていなさそうなのがいつも不思議だった。
 担任が教室に戻ってくる。クラスメイトがそれぞれの席に戻った。あかねちゃんもだ。あかねちゃんは、私と同じ列の、ふたり分隔てて後ろの席に座っている。後ろから数えると二番目で、私は前から数えて二番目だった。

 また音読の番が回ってきた。私は起立し、文を読み上げる。
 私はふと、あかねちゃん言われたことを思い出していた。私が音読している時は、いつも私を見ていると。いま、こうやって起立している私のことを、ふたり分空けた後ろの席で、彼は眺めているのだろうか。鏡があるわけでもないので、その姿を実際に見てはいないのに、私は何故だかその様子を詳細に思い浮かべることができた。机に肘をついて、やや前屈みになりながら、気怠そうに私の背中を見上げている。笑っているのか倦んでいるのか、判別できない薄ら笑いを浮かべて。
「緑がゆれているやなぎの下に、かわいい白いぼうしが、ちょこんとおいてあります。松井さんは車から出ました」
「短いから、次の段落もね」
 私は憂鬱になりながら、次の行に目を走らせた。そこで不意に思い立ち、周囲を見渡してみた。同年代の子供たちの、黒い後頭部。誰もかれもが目を伏せて教科書を読んでいる。姿勢の悪い子は、ノートみたいに教科書を広げて、背中を丸めて読んでいる。背を真っ直ぐに伸ばした子は、きちんと教科書を立てて読んでいた。先生も、教壇に立ったまま教科書に視線を落としている。三十人あまりの人間が、同じ教科書、同じページ、同じ文を読んでいるのか。黒くつやつやとした彼らの後頭部に、やや圧倒されながらそう思った。
 黙っている私を不審に思ったのか、担任が顔を上げてこちらを見る。慌てて次の行を読み上げた。
「そして、ぼうしをつまみ上げたとたん、ふわっと何かが──」
 読み終わって着席した私は、片手を伸ばし後ろ手で素早くグ―とパーを繰り返し作った。あかねちゃんに向けての「こっちを見てること、ちゃんと覚えてるよ」という合図のつもりだった。その合図をちゃんと見ていたのか、彼に聞きにいったりはしなかったため、もはや今となっては確かめようのないことになってしまったが。