何がどんな風に変わっていただろう

俺が賢者様に聞いてみたいことは、数え切れないほどにある。
「俺のことをどう思ってますか」「俺に触れたいと思ったことはありますか」「俺のことが好きですか」「俺のいないところで、俺について考えたことはありますか」「他の誰かを前にしてるのに、俺のことを思い出してしまったことはありますか」「この世界は好きですか」「この世界にまだ残っていたいと思ったことはありますか」「元の世界に戻らない未来を考えたことはありますか」「俺と離れ離れになりたくないと思ったことがありますか」「俺とお別れするくらいなら、元の世界に戻りたくないと思ってくれたことがありますか」
勿論、この中のどれか一つでさえ、賢者様に聞いてみたことはない。聞いてみたって、賢者様を困らせるだけなのは分かりきっている。そうなるくらいなら、俺の胸にずっと仕舞い込んでおく方が良いはずだ。

そう分かっているにも関わらず、ふとした拍子にこの気持ちを曝け出してしまいそうになる。それは例えば、今みたいに賢者様と二人きりで、身を寄せ合っているような時だ。
「寒くはありませんか」
俺にそう問いかける賢者様の声は、夜空の下でもひどく温かい。その声を聞いただけで、肌を覆っている氷が溶けていくような気持ちになる。
「俺は大丈夫です。賢者様こそ、具合が悪くなったらすぐに言ってくださいね」
「俺も全然寒くありませんよ。ヒースのおかげです」
そう言ってこちらを見上げる笑顔に、胸がぎゅっと締め付けられる。夜空を見上げるふりをして、賢者様から視線を逸らした。これ以上見つめていたら、自分が何をしてしまうか分からなかったから。
俺と賢者様は、魔法舎の屋根の上に腰掛けて、身を寄せ合って星を眺めている。魔法のおかげで二人ともそんなに寒さを感じていないはずだけど、何となく俺も賢者様も自然と体をくっつけて座っている。そのうえ、一枚のブランケットで二人の体をくるむようにして羽織っていた。この薄布の内側で、俺と賢者様の体温が混じり合っている。そう考えただけで、俺は堪らない気持ちになった。
「きれい」
夜空を見上げて、賢者様が声を漏らす。ひどく幼い響きをしているのは、きっと湧き上がる感動をそのまま口にしたからだろう。
賢者様は元の世界に居た頃も、この世界に来てからも、夜空なんて飽きるほど見てきたはずなのに、まるで初めて目にしたみたいに、この夜空を眺めている。かくいう俺も、目の前に広がる空が見覚えの無いものに思えていた。夜空というのは、こんなにも吸い込まれそうな色をしていただろうか?星はこんなにも輝いていた?夜の匂いも、夜風の冷たさも、今初めて知ったような錯覚に陥る。知らないものばかりに囲まれて、俺の体は恐怖なのか感動なのか分からない衝動に包まれていく。
俺は隣の賢者様を、気づかれないようにそっと盗み見た。まっすぐに生えたまつ毛の下で、大きな目が瞬いている。薄墨色をしたその目が、黒曜石のようにちらちらと光り輝いているのが分かって、俺は思わず息を呑んだ。
いつの日か、賢者様に教えてもらったことがある。賢者様の下の名前は「星々が輝くさま」という意味を持つと。
「多分、そんな大仰な意味で付けたわけじゃないって分かってるんですけど、なんだか気恥ずかしくて」
そう言って照れ笑いをしている最中の瞳も、今と同じようにきらきらと輝いていた。それを見て、胸が締めつけられるのを感じた。おそらく、この世に存在する、いろんな善いことや、美しいものは、全てその瞳の中に閉じ込められているのだろうと、たった一瞬でもそう確信してしまった。きっと賢者様の両親は、この綺麗な瞳を見て、俺とおんなじ事を考えて、その名前を付けたのだろう。
そんなことを思いながら、賢者様の横顔を覗き見ていたけど、彼が不意に俺の視線に気がついた。心臓が一気に凍りつく。きょとんとこちらを見上げる顔に、背中を冷や汗が伝っていった。多分、夜空ではなく賢者様を見ていた俺のことを、彼は不思議に思っている。それだけならまだしも、不気味に思うか、気持ち悪いとまで思うかもしれない。賢者様に限ってそんなことは、と考えたいのに、俺の卑屈な心は保身のように悪いことばかり考えてしまう。早く、この場をとりなすような事を言わなければ。そう焦る俺の耳に、場違いに幼い声が飛び込んできた。
「ヒースの目、きれい」
「え?」
「ヒースの目の中に、夜空が映ってすごく綺麗です」
そう言って、幼い子供みたいな顔をして俺を覗き込もうとする。俺は一瞬だけ困惑して、けれどそんな居心地の悪さがすぐに吹き飛んでしまった。
だって、すごく綺麗だったから。
俺を覗き込む賢者様の瞳が、すごく綺麗だった。夜空を溶かし込んだみたいに、深い色をした瞳の中で、眩い光が煌めいている。俺は吸い込まれるようにして、賢者様と自然に見つめ合った。
賢者様の瞳は、凪いだ水面のように静かだった。見つめているだけで、自分の内側が透き通っていくようだった。あれこれと考えていた悪いことが、ゆっくりと浄化されて、うなじのあたりから外へ流れては消えていくような、そんな風に思えた。
賢者様は、言葉を忘れたように口を閉ざして俺を見つめている。俺は、賢者様に本当のことを言って良いか迷ってしまった。賢者様が見惚れているのは「俺の瞳に映る夜空」ではない。夜空を見上げていない俺の目に、それが映っているはずがないのだ。
賢者様が見惚れているのは、多分「俺の瞳に映った賢者様の瞳」のはずだった。
俺はそれを指摘できないまま、静止したように時間だけが過ぎていく。息苦しいほどに、体が熱を帯びていった。賢者様の瞳の中に、俺の顔が映っている。薄墨色の水面に閉じ込められている自分の姿は、他人のように見えた。
息が絡み合う距離で、俺はあらぬことを口走りそうになる。
「元の世界に帰らないで、ずっとここに居てください」
そう伝えられたら、何がどんな風に変わっていたのだろう。言葉にできないまま、その気持ちだけが胸の中で積み重なっていく。その想いで胸が張り裂けそうだったけど、きっとこれで良かったのだ。この気持ちを伝えない限りは、俺はまだ、この人にとって「夜空を映した瞳」でいられるから。