ゆりかご

フィガロには、幼少期から何度も繰り返し見ている夢がある。おそろしく巨大なものが、こちらへ押し寄せてくる夢だ。
夢の中で、フィガロは子供の頃の姿をしている。ミチルやリケよりもずっと小さい背丈だ。そのフィガロに向かって、得体の知れないものが一気に雪崩れ込んでくる。夢は決まって、その「何か」にフィガロが押し潰されたところから始まるのだ。
足を呑み込まれ、仰向けに倒れ込んだフィガロの全身を、何かが凄まじいスピードで覆いつくしていく。視界が塞がれて真っ暗になった中で、ひんやりと冷気を帯びたそれがフィガロの体を呑み込んだ。一ミリほどの隙間も許さず、両脚の間や、指の股にまでそれが押し込まれる。助けを呼ぼうと大きく開いた口の中にまでそれは入り込み、食道の入り口に至るまで満たしてしまう。舌に触れたそれは凍傷を起こしそうなほど冷たく、体温で僅かばかりは溶けるものの、気休めにしかならない。口の中の粘膜から伝わる冷たさは、フィガロの体を芯から凍らせようとする。
フィガロは、思い通りにならない手足で「何か」を押しのけようとした。しかし、それはあまりにも難しかった。息もできないほどの圧迫感の中で、自身の体の末端から、徐々に体温が奪われつつあるのを感じ取った。凍りついた手足は硬くこわばっていて、まるで石のようだと、夢から目覚めつつある意識の中で彼はいつも思うのだった。
目を覚ましたフィガロは、ベッドの中で荒い息を吐いていた。夢の中では凍えるほどの寒さに包まれていたというのに、今は全身に玉の汗をかいている。品の良いナイトウェアがびっしょりと濡れて肌に張り付いていた。
フィガロは、未だ落ち着かない自身の呼吸を聞きながら、部屋に満ちる痛いほどの静けさを感じていた。
(どうせ悪い夢を見るなら、叫び声でも上げていれば良かったのに)
皮肉げに口の端を吊り上げてそう考えた。もしそうしていたら、今頃心配したミチル達が部屋に飛び込んで来てくれていただろうから。
フィガロはぼんやりとした頭のまま、部屋着のカーディガンを上に羽織り、部屋を抜け出した。特別行く当てなど無かったが、あの悪夢の気配が部屋の中に残っているような気がしたのだ。
廊下は暗く、静まり返っている。消音の魔法で足音を消し、夢遊病者のような足取りで階段を登る。何も考えていないはずなのに、両足はとある方向に向かって確実に動いていた。そして辿り着いた場所は、二階の中心に位置する、賢者の部屋だった。
物言わぬドアの前で、フィガロは途方に暮れたように立ち尽くした。そして、今の自分の姿を頭の中で思い描く。くしゃくしゃの寝巻きを着て、明らかに憔悴した顔をした男。しかも、恋人でも家族でもない、特別親しいわけでもないただの「友人」という立場の男だ。そんな男が深夜に突然訪ねてきたら、ドアの向こうにいる善良な人間はどう思うだろう。
フィガロの胸に、生々しい恐怖が満ちていく。おそらく、賢者がフィガロを拒絶することは無いだろう。けれど、出迎える瞬間に、彼の顔に少しでも怯えや苛立ちが含まれていたら、もう二度と彼の目を真っ直ぐ見れないような気がした。
そもそも、自分は一体何を求めてここに来たのだろう。慰めて欲しいのか、気が紛れるようなお喋りをして欲しいのか、それ以前に、賢者が都合よく目を覚まして出迎えてくれる確証もない。
立ち尽くしていたフィガロの爪先が、自室へと帰りかけたその時、目の前でドアが僅かばかり開いた。目を見開くフィガロの前で、ドアの隙間からそろりと小さな頭が現れる。そして、二つの丸い瞳がフィガロを捉えた時、吐息のような声がふっとその場に舞い降りた。
「ああ、やっぱり」
その声には、明らかな安堵が含まれていた。ドアが大きく開かれて、そこから小柄な体がするりと現れる。こちらを見上げる瞳には、フィガロが恐れていた感情は含まれていない。ただ、ひそやかな親しみがじんわりと滲んでいるように見えた。
「なんだか、部屋の前に誰かがいる気がしたんです。そしたら本当にフィガロが立っていたから、少しびっくりしました」
そう言ってフィガロの前に立つ賢者は、あちこちに小さな猫の刺繍が散ったパジャマを身につけていた。髪は寝乱れておらず、表情に眠気は残っていない。ドアの向こうの気配に気がついて、たった今目を覚ましたばかり、という風には見えなかった。
「なんだか、早く目が覚めちゃって」
フィガロの視線を察してか、賢者が答える。けれど、彼の目元にうっすらと残る隈をフィガロはめざとく見つけてしまった。明らかに、十分な睡眠が取れていない証だった。
ずっと、眠れずにいたのだろうか。それとも、昼間に少し仮眠したせいで目が冴えてしまったのか。もしくは、浅い睡眠と覚醒をこの一晩で何度も繰り返していたのかもしれない。
そこまで考えて、賢者の事情をあれこれ詮索しようとしている自分にフィガロは気がついた。例え嘘だったとしても「早く目が覚めた」と賢者が言ったのだから、それを飲み込むべきなのだろう。
「そっか、俺が起こしちゃったのかと思ったよ」
人当たりの良さそうな声が自身の口から出てくるのを、フィガロはどこか冷ややかな目で俯瞰していた。何万回、何億回と会話を繰り返してきて、失敗と成功を重ねた上で得た機械的な反応だった。マニュアルをなぞるかのように、誰も傷つけず場を止めることもない言葉が、最適化されて口から出る。賢者は笑みを浮かべたまま「大丈夫ですよ」と答えた。
一体何の用でここに来たのか、と賢者から未だに聞かれていないことに安堵しながら、フィガロは当たり障りのない理由を頭の中で組み立て始めていた。悪夢を見た直後の、胸を掻きむしりたくなるような途方もない不安は、既にどこかへ消えていた。「ごめんね。急に顔が見たくなっちゃってさ。もう遅いから、俺は部屋に戻るよ──」そんな断りをフィガロが考えているところで、賢者が口を開いた。やわらかな、悪意を知らない子供のような声だった。
「俺、ミスラが来たのかなって最初思いました」
「……ミスラが?」
予想していなかった人物の名前に、フィガロは反射的に聞き返した。掠れたその声は、さっき彼が発していたものと随分違っていて、この数秒の間に一気に老け込んでしまったかのようだった。
「はい。でもその次に、もしかしてフィガロかなって思ったんです」
なにか、理由の分からない苛立ちが、フィガロの身を包み始めていた。フィガロ自身でもうまく説明のつかない感情だった。たったいま二人きりで向き合っている最中に他の魔法使いの名前を出されたからだろうか。それとも、この深夜に訪れる者として自分より先に別の魔法使いを連想されたからなのか。
ミスラを想像した賢者の思考は、よくよく考えれば当たり前のことだった。こんな深夜に突然訪れる魔法使いといえば、眠れないから手を貸せと言いに来そうなミスラくらいだろう。だから、ミスラの名前を出されたからといって、フィガロが蔑ろにされている訳でも無いと分かっているはずなのに。子供じみた独占欲のようなものが、胸の底から這い上がってきていた。
困らせたい、と思った。賢者を困らせて、ミスラの名前を出したことを少しでも後悔させたいとフィガロは思った。もしくは、フィガロだけのために、戸惑ったり悩んだりしている賢者の姿が見たかった。馬鹿げた行動だ、とブレーキをかけるほどの思慮深さは、悪夢による消耗で身を潜めていた。
「あのね、賢者様」
「はい?」
ひどく無防備な仕草で、こちらを見上げる賢者の瞳をフィガロが覗き込む。今から自分が告げる言葉で、その瞳に少しでも動揺が表れたなら、絶対に見逃さないという風に。
「俺、賢者様に添い寝してもらいたくて来たんだ」
「えっ?」
賢者の目が丸くなる。
「だって、ミスラばっかりずるいだろう。俺も賢者様とくっついて寝たいんだよ」
それは、ほとんど当て付けのような要望だった。賢者と添い寝をしたいなんて、普段のフィガロであればこんな風にはねだらなかっただろう。もし言うとすれば、こんな直接的な言い方ではなく、もっと回りくどい言葉で、気づいてもらえなくても仕方がないような伝え方をするはずだ。それもそのはずだろう。今のフィガロにとって重要なのは、この要求を受け入れてもらえるか否かではなく、賢者がどんな反応をするかこの目で確かめたいだけなのだから。
賢者の瞳の奥を、フィガロがじっと覗き込む。墨色の瞳の奥に隠れるようにして、縮まった瞳孔が息を潜めていた。そこに、見た目だけは穏やかに細められた自身の目が映っているのをフィガロが見つめていると、不意に賢者の目がふわりと和らいだ。
「いいですよ。一緒に寝ましょう、フィガロ」
そう言って、賢者はフィガロの手を取った。まるでぬいぐるみの手を握るように、賢者の指がそっと包み込む。ぞくりとするほどに温かい手だった。
「……いいの?」
「はい」
そう答える賢者の視線は、先ほどとは僅かに違っていた。少し呆れているような、やんちゃな子供を見守っているような、悪戯っぽく笑っているような目をしている。フィガロは、自分がひどく小さな子供のように思えた。そして不思議なことに、そんな視線を向けられても少しも不快でなかった。実際に、小さな子供のような振る舞いをしていたからかもしれない。
フィガロのどこか幼稚な言動を見抜いたのだろうか。くすくす笑いさえしそうな表情のまま、賢者は続ける。
「だって、フィガロが一緒に寝てくれるなんて、もう二度と無いかもしれないじゃないですか」
そう言って、両手で包んだフィガロの手を、少し強引に引き寄せる。そうでもしないと、来てくれないとでも言うように。フィガロは、迷子の子供のようにただ黙って手を引かれた。
足を踏み入れた部屋は、廊下とそうそう変わらない室温のはずなのに、フィガロには不思議と暖かく感じられた。
添い寝して「あげる」じゃなくて、一緒に寝て「くれる」なんだ。
どこかぼんやりとする頭で、フィガロはふっとそう思った。