みんなあたまがおかしいようです(4/4)

「へえ。校長室ってこうなってるんですね。あれ、あの金ピカの球みたいなやつはなんですか? サッカー部が県大会まで行った時のもの? 強いんですねうちの高校。初めて知りました」

「……そんなに怒ることないじゃないですか。ただのアイスブレイクみたいなもんですよ。不謹慎? 真剣さが足りないって? そりゃどうも、すみませんでした」

「でも、そんな怒ります? 俺は高校生ですよ。そりゃ十八だから、選挙権もあるし大人と同じかもしれませんけど。まだ高校二年の子供ですよ。それで、こんな風に事情聴取されてるけど、俺はどちらかというと被害者じゃないですか。この事件に関しては」

「……被害者じゃなかったら何なんですか? 加害者とは言いませんよね? 俺は殺してませんよ。わざと自殺するような言葉も言ってません。ひどい振り方だってしてませんもん」

「この聞き取りも三回目? 四回目でしたっけ。前は会議室だかに呼ばれたんで、一気に仰々しくなったじゃないですか。単に他生徒が通りかからない空き部屋が無かった? へえ。まあ、そうですか」

「それで、その時に何度も言った通り、俺は無実ですよ。刑事さんだってこの前そう認めましたよね?」

「……はぁ、被疑者。そういう呼び方もあるんですね。確かにそんな風に呼ばれてるのを刑事ドラマで聞いた気がします。科捜研の女とかですかね」

「で、俺はまだ殺人の疑いがあるって言いたいんですか? 散々現場検証にも付き合って、あの子のスマホに遺書やらLINEの履歴やらが残ってないか確かめた後に、俺が無実だって証明されたでしょう? ……今のは俺の疑問に答えただけ? そうですか。こっちは脅されてるみたいな気持ちでしたよ」

「それで、もう三回も聞き取りをしたのに、まだ確かめたいことがあるんですか? 前回はたしか、当日の夜から朝に逆に遡るかたちで自分の行動を刑事さんにお話ししたんでしたっけ? あれ、帰ってから調べたんですけど犯人の供述の矛盾点を突く時に便利なやり方なんですね。残念ながら、俺の喋った一日の振り返りに矛盾は一つもありませんでしたけど」

「……生意気ですか? すみませんね。こういう時にどんな風に喋ればいいのかお手本を知らないので。生まれて初めてなんですよ事情聴取なんて。いや、もう四回目だから初めてじゃないか。あはは……。いや、反抗するつもりなんてありませんけど、もう四回目ですよ。この取り調べも。態度がいい加減になるのも仕方ないと思いませんか? 俺だって一度目はしおらしくしていたじゃないですか。……その時も俺は態度が良くなかった? そうですか」

「当日のことについて、俺から言うことはもうありませんよ。何度も答えた通りです。告白は、最初にちゃんと断りました。そして『どうして付き合ってくれないのか』って聞かれたので、タイプじゃないんだって答えました。断った後もその子はその場に立ち尽くして泣いたままだったけど、俺は置き去りにして自分の教室に戻りました。その後、実験室前に引き返したりなんかもしていません。教室に戻ったことは、同じクラスの奴がちゃんと見てるはずですよ」

「どうしてもっと優しい言葉で断れなかったのか、ですか? 充分優しく言いましたよ。ああ、タイプじゃなかったって言ったことについてですか? それは、もうどうしようもないじゃないですか。タイプじゃないって一番優しい断り方だと思うんです。例えば歯が黄ばんでて嫌だとか、歩き方が変だから付き合いたくないって時でも理由を濁して使えるでしょう?」

「こんなこと言うと、また生意気だって思われるかもしれませんけど、告白とかうんざりしてたんです。俺は悪い意味で有名人だから、罰ゲームで嘘の告白とか、される側になるのも多かったんですよ。断ったら、それはそれでその女の子がグループ内の子に馬鹿にされるし、だからといって俺がOKしたら『本気で付き合いたいわけないじゃん』って怒られるか、もしくは本気で泣かれるかみたいなこともあったんですよ。全然知らない三年の誰々先輩と付き合ってるんだ、って噂まで流されたりして」

「だから、俺はもう断る時ははっきり断ろうと思ったんです。変に濁したりした方が、相手の子も変な噂の標的になりそうだし、もし断って逆ギレされるだけなら俺一人が嫌な思いをするだけで済むからまあいいやって思って」

「……まあいいんですけどね。ちゃんと捜査してくれるならそれで。俺は絶対にやってないんですから、どんな証拠が出てきても俺のせいにはならないです」

「……そういえばあの子、そう、さやかちゃんはまだ意識が戻らないんですか? いえ、別に個人的に伝えたいことがあるわけじゃないんですけど、もし意識が戻ってくれたら、俺の無実を証言してくれるだろうなって思って。ただまあ、自殺未遂した本人にあれは自殺だったって断言させるのはちょっと気まずいかもしれませんけどね。……そこは『心苦しい』って言うべきところだ? そうですか。小論文の授業の時にでも思い出しておきますよ」

「ああ、それで、最後に一つだけ聞きたいんですが、もしこれから先、明確な『証拠』が出て来たりなんかしたら、捜査ってどんな風になるんですか? ……証拠がどういうものかって、例えば会話の録音とか、遺書とか、メールとか。散々捜査して調べ尽くした、っていうのは分かってるんですけど、もし新しくそういうのが出てきたらどうなるんです?」

「……別に、後ろめたいことがある訳じゃないですよ。ただ、もしそういう確かな証拠があれば、その子が意識を取り戻すより早く、俺の嫌疑が晴れるんじゃないかと思いまして。もう被疑者ではない? そうは言っても、こうやって四回目の聞き取りに呼ばれてる時点で残り一パーセントくらいは疑われてるんじゃないですか? 一パーセントどころじゃないかもしれないけど」

「もし見つかったら会議にかける? ええ、まあ、そうですか。そうでしょうね。いい証拠が見つかるといいですね。頑張ってください」

◆◆◆

 再生ボタンを押した瞬間に、砂嵐が後ろで吹いているかのような、電子機器特有の音が流れ出す。それをかき分けるようにして聞こえたその声は、明らかにあの子のものだった。

「なんで……」

 そこで一旦、声が途切れる。鼻を啜るような音が続き、絞り出すようにしてまた声が続く。

「なんで、菜乃がいいんですか……」

 私は、突然挙げられた自分の名前にひどく驚いた。身構える隙もなく、背中に銃を突きつけられたかのようだった。この録音の直前に、どんな会話がなされていたのだろう。しかしその言葉の意味を考えるより先に、先輩の声がスピーカーから続いた。

「なんでって、タイプだったから」
「……」
「それ以外に、理由なんてないよ」
「……」
「理由があった方が嬉しい? 君にはどうしようもできない理不尽な理由とかあった方が嬉しかったよね?」
「……」

 あの子は何も答えない。数秒間、無言のままの時間が過ぎていった。

「なんで俺が、こんな風に録音していたのか分かる?」

 いま私の目の前にいる方の、つまり現実の方の先輩が尋ねる。録音の方に意識を集中していたかった私はやや苛立ったが、もしかしなくてもこの沈黙がまだ続くことを見越しての会話じゃないかとぼんやり思った。

「君に言ったっけ。罰ゲームで俺に嘘の告白してくる子がたまに居たんだよね。それがうざったくなってきたから、そろそろ教師にチクった方が良いかなって思った時にこの子に呼び出されたんだ」
「罰ゲームで告白しに来たと思ったんですか?」
「うーん、正直この時は本気なんだろうなってうっすら思ってたな。でも、断ったら断ったで後々俺にひどい振られ方をしたって言いふらす子もいるから、そのためにもと思って」
「……じゃあ、」

 先輩の声を遮って、電子音混じりの声が聞こえた。スピーカーから響く、あの子の声だ。私は急いで耳を澄ませた。

「先輩が、どうしても付き合ってくれないって言うなら……」
「うん」
「今から菜乃を殺します」

 あの子の声は震えていた。可哀想なほどに。決意に満ちた風でもなく、追い詰められて、必死に絞り出したもののように思えた。

「今から、菜乃を呼び出して、殺します」
「へえ」
「先輩が付き合ってくれないなら……」
「どこで?どうやって?」
「そこの、女子トイレで。菜乃を呼び出して」

 彼女は不意に、堰を切ったように澱みなく話し始めた。

「先輩、聞こえますか?いま、吹奏楽部が練習しているでしょう?だから私が菜乃をトイレの窓から突き落としても、きっと誰にも聞こえないしバレないです。私が菜乃を呼び出すのだって、あの子は絶対不審に思わないです。そういう子なんです。いつも何も考えてなくて……何も考えないで私について来てくれる子なんです」

 話し続ける彼女の声は、疲労の滲んだ、諦めに満ちた声をしていた。映画のエンドロール前で、犯人が警察を前に供述しているのにも似ている。

「……前から、こうしようと思っていた気がします」
「……」
「先輩だけじゃないです。私がして欲しいことを、みんなあの子が掠め取っていくんです」
「……」
「あの子は普段全然喋らないし、気も効かないし、場を盛り上げようとか、そういうみんなのために何かしてくれるタイプじゃないのに、あの子は人に好かれるんです」
「……」
「あの子は黙ってるだけで、なんでかいい子だってみんなに思われてるんです。だから先輩が思ってるあの子の印象も、本当の性格と違うと思います」
「……」
「黙ってるだけで、何故か頭がいいとみんなに思われてるんです。黙ってるだけで、優しいと思われたり、黙ってるだけで、被害者だと思われてみんなに庇ってもらったり、黙ってるだけで、男の子が声をかけてくるんです。菜乃が無視しようとするから、私が代わりに男子に対応しようとしたら、その度に男子が『お前じゃない』みたいな目を向けてくるんです」
「……」

 あの子の言葉は、ふいにぴたりと止んだ。それまで、熱に浮かされたように話し続けていたのに。
 ようやく発せられた、先輩の返事はひややかだった。

「そう」
「……」
「じゃあ、頑張ってね」

一度、砂が擦れるような音が大きく響き、ぷつりと音を立てて音声が終了した。

◆◆◆

「どう?」

 音声を聞き終えて、まず最初に先輩が口にしたのがその言葉だった。

「驚いただろ? ぱーっと目の前に道が開けたような感じがするんじゃない?」
「いいえ」

 私はそう答えた。
 嘘ではなかった。驚きよりも──あの子の声を懐かしむ気持ちの方が強くあった。同時に、あの子の不在を惜しいとも思った。初めてだった。彼女がここに居ないことをそんな風に思うのは。

 しかしその意識も、ひどく限定的なものであるとも自分で分かっていた。もし彼女が意識を取り戻して、ひょっこり戻ってきたとしたら、また以前のように私は彼女のことを疎ましく思うのだろう。これは幻覚、幻妄の類だ。他者を懐かしんでいるのではなく、懐かしいと思っている自分自身に対しての、自己愛じみた錯覚なのだと分かっていた。
 それに、もし本当に彼女が意識を取り戻し、健康なすがたで戻ってきたとしても、以前のような関係にはなれないのだ。

「つれないなあ」

 先輩は拗ねたようにそう零す。彼にしてみれば、ここにきて初めて、証言や推理を頼りにしていない明確な証拠をお出ししたのだから、もっと驚いて欲しいのだろう。とっておきのおもちゃを見せびらかす子供のようだ。

「私について、何を話してたんですか?」
「え?」
「録音の最初に、『なんで菜乃がいいの』って言ってたじゃないですか」
「ああ」

 先輩はいつも通りの軽薄な笑みを浮かべて答える。

「別に、そのまんまだよ。君より菜乃ちゃんの方がタイプみたいなこと言っただけ」
「先輩にとって不利な言葉が録音されているから、そこをカットしたのかと思いました」
「あはは。な訳ないじゃん」

 本当に?と尋ねたかった。しかしそれをするだけの体力がなかった。私はどっと疲れたような気がして、椅子の背に体を預けた。

 ちり、とまぶたの端に真っ赤な残像が走った気がした。夕焼けの名残だろうと反射的に窓を見た私は、もうとっくに日が暮れていることに気がついた。空のずっと下部だけが、やや明るい黄色をしているだけで、それ以外はほとんど海色に染まっている。空の上部には、小さな月まで出ていた。

 いつのまにか、教室がずいぶん暗くなっている。お互いの表情を確認するにはそう不都合のないほどの暗さではあったが。
 席を立ち、教室の電気をつけようか迷った。何故かは分からないが、自分でも説明のつかない恐怖が、足元から這い上がってきていた。椅子から腰を上げた瞬間に、床から巨大な槍が生えてきて自分の体を貫いてしまうんじゃないかというような、妄想じみた恐怖だ。そんなことあるわけない、と分かっているのに、奇妙に足元から体温を奪っていく。

「さて、それでなんだけど」

 ガガ、と音を立てて、先輩の座っている椅子の足が床を擦った。

「さっき俺が言った言葉の意味は分かったと思う。君があの子を殺した時の状況について、俺の予想とは少し違っていた」
「……私を殺そうとしていた」
「そう!」

 私はまるで暗示にでもかかったような気持ちでそう口にした。
 何度も言うが、その事実について衝撃はなかった。いや、そう思い込もうとしているだけなのだろうか? でも、彼女がそう考えていたとして、実際何になるというのだ。私はあの子を殺した。その逆は起こらなかった。

「だから俺は……、あの子が君をトイレに呼び出して、そして君を殺そうと──窓から突き飛ばすか何かしようとして、君に抵抗された。そこで取っ組み合いになって……最終的には君があの子を殺すことになった。そういう経緯だと思ってたんだよね」
「期待通りにはならなかったんですね」
「期待?」

 彼がこちらを小馬鹿にするように笑った後、「よーく思い出してみて」と言った。

「本当に、さやかちゃんは君を殺そうとしなかった?そういう素振りを見せなかった?俺は君の供述を疑ってないんだけど、君が気づかなかっただけじゃないかなって、少しは思ってる」
「……」

 思い返してみる。殺した当日のこと。何度思い出してみても──殺されかけたようには思えなかった。
 あの子は、やけに窓枠に身をもたれ掛けさせていた。すがりつくように。あれはもしかしたら、私が窓近くまで来るよう、誘導する意図があったのだろうか? 私を近づけさせ、油断した瞬間に突き落とす──本当に?
 私をなじるようなことを言ったのも、自暴自棄によるものではなく、私が内心苛立って、冷静さを失うようにしたかった? もっと近づいてきたら、これじゃ足りない、あと一歩は近づいたら、あの腕を引き寄せて一気に……。

「そうは見えませんでした」

 いくら想像してみても、殺意を向けていたようには思えない。

「先輩に話した時点で、脅しのつもりの狂言か、私が来る頃にはもうそんな気は無くなっていたんだと思います」
「本当に?」
「念を押されても、私はそう感じたんですとしか答えられませんよ。あの時殺意があったがどうかなんて、それこそ証拠もないし、あの子の意識が戻るまで証明のしようがないことじゃないですか」

 私が突き落とす直前、あの子はより一層窓枠に縋りついて、はるか下の景色を見ていた。それは私がかけた声のせいでもあるだろうが、私がなかなか至近距離まで近づかないのを焦ったくなって、そうしたのか? 
 やはりどれだけ考え直してみても、確信を抱くまではいかず、堂々巡りになるだけだった。

◆◆◆

「はあ。ドライだねえ。そこらへんもっとロマンチックに語ってくれたら、感動的になりそうなのに」

 そうはいっても、私がこんな風に主張するのを先輩も薄々分かっていたんじゃないだろうか。学園モノのドラマみたいに、私はあの子を信じてるんです!と鬼気迫る顔で言うタイプでもない。自分のことながら、そう思う。

「まあ、菜乃ちゃんらしいといえばそうだけど」
「そうですか」
「これはぶっちゃけただの雑談なんだけどさ」

 と、前置きしたうえで先輩が言う。

「だからあの日の放課後に、女の子の飛び降り死体……いや、死体未満が見つかったって聞いた時は、君のことだと思ったんだよね」
「さやかにああ言われたからですか?」
「そう!」
「有言実行で、脅迫通りに私を殺したと」
「そうそう」

 相槌を打つ彼の様子はなぜか楽しげだ。ようやくノってきたじゃん、とでも言いそうなくらいである。

「それなのに、警察が言うには俺に告白してきた方が死んで……じゃなくて、意識不明の重体だって言うんだから驚きだよね」
「そうでしょうね」
「俺はね、まさかの入れ替わりとか、あの子が君に罪をなすりつけるために別人の死体を偽装した、みたいなことまで想像したんだけど、真相が分かってみると拍子抜けしちゃったな」
「探偵小説みたいな発想ですね」
「それくらいは疑わない?そりゃ、犯人の君からすると何もかも分かってたようなもんだろうけどさ」
「そうでもありませんよ」

 私は否定した。実際、私は何も分かっていなかった。あの子が私を殺すと言い出していたことも、先輩のことも。
 今になって思うが、第三者からは一番疑われていただろう先輩のことを、真犯人の私がその内情をほとんど知らないままでいたのが奇妙にさえ思える。彼について分かっていたのは、その噂と停学処分を受けたという事実だけで、その人柄も、どんな風に話すのかも今日に至るまで私は一切知らなかった。

 巻き込まれただけの彼が加害者だと疑われていたことについて、申し訳ないな、と当時の(つまりしらばっくれている時の)私は思っていたが、その一方で、彼ならうまくやり過ごすだろう、という確信も何故だかあったのを覚えている。なにせ、停学一年の男だ。

「分からないからこそ、先輩に聞いてみたいことがあるんですけど」
「えー、なに?何でも聞いてよ」

 先輩が、乗馬の真似事みたいに座ったまま椅子の脚を浮かせる。ゆりかごみたいに、不規則な動きで前に後ろにと彼の体が傾いていた。上機嫌だな、と思った。別に、どうでもいいんだけれど。

「その音声を、早いうちから警察に提出していれば、長々と疑われずに済みましたよね?」
「おっと」

 一瞬、彼がバランスを崩して後ろに倒れこみそうになる。それを寸でのところで押さえ込んだ。

「そうしていれば先輩は、むしろ被害者扱いされていたと思うんですけど」
「急に饒舌になったね」
「知りたいことがあればちゃんと声に出して聞きます」
「じゃあ知りたいことも無ければ俺とは雑談もしたくないのかな」
「……」
「だから、黙んないでよ。ああ、ここで会ってすぐの時にも同じようなこと言ったっけ?そういう風に黙られると俺がいじめてるみたいに見えるとか何とか」
「さあ」

 でも、いじめてるのはそう間違いでもないだろう。なにせ彼は、私と推理ごっこをしている間、あの録音音声についてずっと存在を明かさずにいたのだから。あれを早々に匂わせていたら、もっと早いうちから私に自白させることができたんじゃないだろうか?
 いや、彼からすると、確実に私から聞き出せるまで、泳がせたかったのか?なんにせよ、犯人じゃないふりをして大人しく彼の話を聞いていた私は、ずいぶん滑稽に見えたはずだ。

◆◆◆

「もう一度聞きますけど、その録音音声を警察に提出しなかった理由はなんですか?」
「こだわるね」
「ここまできて、分からないことがあるのは怖いです」
「怖い?」

 先輩は少し笑った。

「菜乃ちゃんにも怖いことがあるんだ?」
「私が先輩にいろいろお話した分、先輩も私の疑問に答えてくれてもいいと思います」
「そこ、『答える義務があります』とは言わないんだね」
「そう言った方が良かったですか?」
「ううん。生意気な女だなって思っただろうね」

 女。その呼び方に、妙に胸がざわめいた。飲み干したはずのものが口の中に戻ってきた時のような不快感を覚える。普通は「女子」と呼ぶべきじゃないだろうか。

「じゃあ、菜乃ちゃんの可愛さに免じて答えてあげるけど」
「はい」
「別になんてことないよ。隠してた方が、俺にとって都合が良さそうだなって思っただけ」
「……」
「本当に?って顔」

 先輩が微笑を浮かべる。何か企んでいるのでは、と咄嗟に思ってしまうような、怖いほどに優しげな笑みだった。

「だって、俺の立場になってごらんよ。付き合ってくれなきゃあの子を殺しますって脅されて、実際に死んでたのは俺を脅迫してきた子の方だった。それだけで、手の内を全部晒すのは不安になるでしょ」
「そうですかね」
「君とあの子が共謀して俺を陥れようとしてた可能性だってまだあるし。それになにより、俺はあの子の自殺未遂に全く関わってないんだから、大人しくさえしていれば俺が犯人になるような証拠なんて、何一つ出てこないに決まってる。自殺幇助もしてないわけだし」
「『頑張ってね』って言ってたじゃないですか。さやかに向かって」
「それは、あの子が君を殺すことに関してだろ。あの子の自殺を後押ししたわけじゃない。だから、当面大人しくしていれば、最悪犯人扱いは免れるなって思った」
「やけに慣れてますね」
「停学一年なもんでね」
 
 大人に責任追及された時の身の振り方くらいは分かってる。そう言いたげな顔だった。

「そんなわけで、不利になるようなことさえ起きなければ、この証拠は俺だけの秘密にしておこうと思ったってわけ」
「不利になるようなことってなんですか」
「君」

 先輩が、まっすぐにこちらを見て言った。

「君が血迷って、『さやかはあいつに殺されたんです!』みたいなことを言い出したりとか」
「言いませんでしたよ」
「そうだね」

 先輩はまた、さっきみたいに優しげな、というよりも、こちらを憐れんでいるような笑みを浮かべる。実際、私が可哀想だからこそ、こういう表情を引き出せているのかもしれない。彼の目から見た私は、馬鹿で滑稽で可哀想な人殺しであるはずだし。

「だからまあ、君の出方待ちとも言えたのかもね」
「良かったですね、私が大人しくて」
「本当に」

 冗談のつもりで言ったのだが、先輩は心から同意してるらしい。

「じゃあ、捜査に協力する気はなかったんですね?」
「協力?」

 先輩がわざとらしく嫌そうな顔をしてみせる。

「俺にうっすら容疑がかかってる立場でそれをするのは悪手だと思うよ、菜乃ちゃん」
「そうなんですか」
「なんにせよ、本格的に俺が疑われるか、君とあの子が揉み合った形跡が現場に残されていた、くらいのことを教えられるまでは最初から言わないつもりだったな」
「はあ」
「だいたいね、俺が告発してなんになるのさ」

 先輩が、ここにいない誰かを嘲笑するような口ぶりで言う。ここにいない誰か。それは、何の手がかりも掴めなかった警察のことだろうか。それとも、彼に偏見を持って接している教師陣か。彼以外の生徒、もしくはあらゆる全て。

「どうだっていいんだよ。あの子が誰に殺されかけたかなんて」

 投げやりに、どこか退屈そうに彼は吐き捨てる。

「家族でも大切な人でもないっていうのに、俺が真犯人を突き止めたいと思う?俺が殺したと思われてさえいなければ、どうだって良かったに決まってるだろ」

◆◆◆

「家族でも大切な人でもないっていうのに、俺が真犯人を突き止めたいと思う?俺が殺したと思われてさえいなければ、どうだって良かったに決まってるだろ」

「それは、私も同意できますけど」
「しちゃうんだ」
「でも、そう言う割には先輩のしてることはおかしいですよ」
「おかしいって?」
「真犯人を突き止めたいわけじゃないんでしょう?それなら、先輩はどうして私をここに呼び出したんですか?」

 彼の主張を聞いてから、ずっと頭の中に浮かんでいた疑問を口にする。

「私を呼び出して、犯人だって突き止めておいて、その主張は通らないと思いますよ」
「へー、鋭い」

 一ミリもそう思っていなさそうな声で、先輩が言う。

「じゃあちょっと話題を変えようか、菜乃ちゃん」

 私はそれに反対しなかった。何かしらの意図があってそうするのだろうと、さすがの私でも察することができた。

「ここでお喋りを始めてすぐ──俺は君に、友達が自殺未遂したのにどうしてそんなに平然としていられるのか、みたいなことを聞いたね」
「ええ」
「今だから言うけど、俺が本当に聞きたいことは別にあった」
「あの子を殺しておいて、なんで平然としていられるんだ、みたいなことですか」
「惜しい!半分当たってる」

 半分。半分と言われても、それ以上は思いつかない。

「いや、もっとあるよね?ほら、人殺しの大多数は気にしてそうなこと」
「人殺しの大多数が何を考えてるのかなんて知りませんよ」
「犯人だとバレやしないかびくびくするもんじゃない?普通は」
「先輩に説明した気がしますけど、今までずっと、現実感がなかったからですよ。もっと計画を練ってあの子を殺していたなら、自分が殺したんだって実感があったのかもしれませんけど、勢いであの子を殺したので」
「それにプラスして、自殺だと処理されるような好条件が揃い過ぎていた。俺にふられた直後だったから。だから内心──少しは安心してたんじゃない?」

 なんだ、分かってるんじゃないですか。いちいち私に質問しなくたって、先輩の中で推測できてたんでしょう? そう口にしかけたところで、先輩の目が私の視線を捉える。

「でも、それとは別に、君が犯人だってみんなに知られてしまう可能性が、もう一個だけある」
「……先輩が警察に言いふらしたら、」
「違う」

 妙に力強く、彼が否定する。「俺から君のことを警察にチクったりはしない。そこだけは信じて」

「俺が何もしなくても、君の行いがバレる方法がもう一個ある」
「……」
「もしかしてほんとに気づいてない?」
「もしかしなくてもそうですよ」
「さやかちゃん」

 どこか楽しげに、彼はその名前を口にした。まるで何でも解決できる、魔法の呪文であるかのように。

「あの子はいま、意識不明の重体で、意志疎通もできずにいる。でも、あの子が意識を取り戻したらどうなると思う?」
「言うかもしれませんね」

 私があの子を殺そうとしたことを。
 足先が、ゆっくりと冷えていくのを感じた。あの子がいつか目を覚ます可能性。もちろんそれを考えていなかったわけではない。
 けれどそれは、どれくらいの確率で起こりうることなのか? 正直なところ私は、あの子が意識を取り戻すなんて未来は、おとぎ話と同じくらい空想めいたお話に思えてくる。

「あの子が目を覚ますと思ってるんですか?」
「逆に、それを考慮しないわけがなくない?」
「二階から飛び降りたんですよ。それで数週間経っても意識は戻らない」
「いやー、科学の進歩ってすごいんだよ。菜乃ちゃん」

 笑顔を貼りつけたまま彼が続ける。

「いつ目を覚ましたっておかしくないのは確かだし──これから医療は進歩していくはずでしょ? それで、脳死と植物状態の違いって授業でやった? もしかしなくても、目を覚ましてなくても脳波の動きでその人の意見を読み取れたりできる未来もいつか来るんじゃない?」
「一気にSFみたいなことを言い出しましたね」
「別にいいじゃん。俺が言いたいのは、君があの子に告発される可能性は、あの子が生きてる限りずーっとあり得るってこと」
「……先輩は、私に忠告してるんですか?」

 先輩が何を言いたいのか分からない。彼は警察に言いつける気はないと言った。あの子が生きてる限り、私が警察に突き出される未来はゼロではない。しかしそれを知っていたからといって、私は何をすべきだというんだ。
 毎晩神さまにお祈りして、あの子が目覚めないようにとお願いしておくくらいしか、私にできることはないように思う。

「ここまで言っても分からない?」

 妙に優しげな笑みを浮かべて、言い含めるように彼は訊ねる。私が犯人だと突き止められてから、彼のこういった表情をよく目にしてきたと内心思う。まるで私に同情しているような視線。確かに私は犯罪者で、人殺しで、同情に値する人間であるが、彼が向けてくる笑みには別の意味があるように思えた。
 たとえば、彼が見据えている先の未来に、私を憐れんでしまうような出来事が待ち受けているのだとしたら。
 「分かんないかなあ」と彼が言う。

「俺は君を脅迫してるんだけど」

◆◆◆

「この音声は誰にも漏らさないって言ったよね? でも、唯一の例外として──さやかちゃんが意識を取り戻した時だけ、君の許諾を得られたらこの音声を提出しようかと思ってる」

 先輩がスマホを机に置く。無造作な手つきで。机上にぶつかった瞬間に固い音が響く。なぜか胃が締めつけられるような心地がした。

「なぜかは分かる?」
「……」
「答えてもいいんだよ」
「……私が犯人だとあの子に告発されても、その証言が不利になるように」
「そう」

 話しながら、彼はスマホをもてあそんだ。机上に置いたまま、手首をひねってコマのように回転させる。彼が手を離しても、慣性によってスマホはゆるやかに回り続けた。残像で、円形の物体のようにも見えてくる。

「もし──『菜乃に突き落とされたんです』ってあの子が主張したとしても、そのすぐ後に菜乃ちゃんへの明確な殺意が表れている音声が出てきたりなんかしたら、さすがにさやかちゃんの証言を警察がまるっと信じ込むことはできないんじゃない? 俺は司法に詳しくはないけど」

 回り続けていたスマホは徐々に速度を落とし、じれったくなるような遅さになって、最後には完全に停止した。

「それを踏まえて、君は事情聴取で『あの子を殺そうとした覚えなんてありません』って証言してもいい。それがお気に召さなかったら、君を突き落とそうとしたあの子と揉みあいになって、結果的にああなってしまった、っていう正当防衛狙いの主張をしてもいいかもね。まあこっちの場合は、最初に嘘の供述を警察にしてたことになるし、不可抗力だとしてもある程度の罪には問われるかも」

 それでも、故意に殺したと見なされる場合より、ずっと罪は軽いだろうけど。先輩はそんな風に付け足した。

「だから俺は、君の罪が軽くなる証拠を持ってるわけなんだけど」
「……」
「だったら、俺に媚を売っておいた方が良いって君にも分かるよね?」

 「俺は君を脅迫してるんだけど」と彼は言っていた。その意味がようやく、理解できた気がする。

「……なんで」

 私はそう言おうとして、口の中が乾いていることに気がついた。掠れきっている自分の声に、焦りがより増していく。舌で口内を湿らせて、仕切り直す。

「……それならなんで、先輩は私の供述の方を録音しなかったんですか?」
「うん?」
「私がどうやってあの子を殺したのか、先輩に話していた時のことを……」

 確かあの時も、盗聴しているかどうかの問答をした。してないと言いつつも、本当は何かしらの手段で声を録っていて、そのデータは先輩の手の中にあるのかもしれない。しかしそうだとしても、今ここで脅迫のネタに使うなら、私があの子を殺したのだとはっきり明言しているあの音声をネタに揺すった方がいいはずなのに。
 「ああ」と先輩はにこやかに頷いた。人を脅している最中だとは思えない顔で。

「別に、そんな複雑な意図があるわけじゃないよ」
「……」
「何度も言うけど、俺は君を犯人として、警察に突き出したいわけじゃないからね」
「……」
「それに……」

 先輩が上体を屈めて、下から覗き込むようにして私の目を見つめる。

「選ぶ余地を与えたかったんだよね」
「選ぶ余地……」
「そう。だって、殺した証拠をばら撒かれたくなかったら言うことを聞けなんて、他に選択の余地がなさ過ぎるでしょ。相手は言われるまま従うしかないじゃん。でも俺が持ってる証拠は、さやかちゃんが意識を取り戻すっていう最悪の事態が起きた時くらいにしか活かされない証拠なわけで──」
「……」
「だから、無理やり従わせるんじゃなくて、あくまでも君の意思で、俺を選んで欲しかったんだよね」

◆◆◆

「それで、君はどうしたい? 俺の言いなりになる?」

 彼が席を立ち、机に手を置いてこちらを覗き込む。

「もしあの子が目を覚ましても、『あれは自殺でした』って君を庇って証言してくれるって信じてるなら、無理強いはしないよ。そういう美しい友情が君たちにあるのならの話だけど」

 私は何も答えなかった。けれど無意識のうちに頷いていたのか、それとも私の表情から何かを読み取ったのかは分からないが、彼は満足そうに笑みを浮かべて「決まりだね」とだけ言った。

 今の自分は、おそらく冷静ではないのだろう。しかし落ち着いていたとしても、私は彼の提案を呑んでいたように思えた。彼の要求を突っぱねて、以前と同じように平穏に暮らそうと思っても──彼はあらゆる手段で私を追い詰めるような気がしたのだ。

 教室の中はもう、ずいぶんと暗くなっていた。もしかしたら、月がもう出ているのかもしれない。いや、どうだろう。私にそれを確かめる余裕はない。少なくとも、彼を前にしている今この瞬間は。

「じゃあ、まず服を脱いでもらおっかな」

 一瞬、耳鳴りのように何も聞こえなくなった。心臓の鼓動が、体を突き破りそうなほどにばくばくと鳴っている。
 椅子に座ったまま後退しかけるも、それより早く彼の手が胸元に伸びてきた。椅子の脚先と床が擦れ合う、不快な音。制服のネクタイの結び目に、指を引っかけて強引に引き寄せられる。
 彼との距離は数ミリも離れないままに終わった。むしろ、上体が椅子の背もたれから浮いたせいで、相対した彼の顔はさっきよりずっと近くにある。

「それとも、キスからの方がいい?」

 彼が甘く、微笑した。笑った途端に吐息が吹きかかる。生温かい空気が、鼻先を掠めた。この男にも体温はある。それを理解した瞬間、自分でも意味の分からない恐怖が脳裏を満たした。もしいま手の届く距離にカッターナイフでも落ちていたら、躊躇いなく彼の顔に振りかぶっていただろうと思うほどに。

「俺も突き落として殺す?」

 でも、俺はさやかちゃんみたいにはならないよ。そう囁かれた。いや、幻聴の類だろうか? だって彼の唇は笑みを描いたまま動いていない。けれど色の薄い彼の目が、明らかにそう言い聞かせていた。
 ほとんど胸倉をつかまれているような姿勢のままで、首を左右に振る。声は出せなかった。砂を飲んだかのように喉が渇き、痛みを伴っていたから。

「ねえ、勘違いしないでよ。俺はね、君を怖がらせたいとか、痛めつけたくてこういうことをしてるわけじゃないんだから」

 彼はそう弁解し、「ほら、見て」と言いながら、制服のポケットに指先で触れた。

「コンドーム」

 ああ。もし声が出ていたら、私はそんなふうに声を漏らしていただろう。ポケットの、おそらく箱ごと突っ込んだのだろう台形の膨らみ。

「持ってきてるんだよ。安心させてあげたいから。最初から、君にひどくするつもりなんてなかったし」

 ひどくするつもりなんてなかった? それは私にとって、こう言い換える方が正しかった。最初から私と「そういうこと」をするつもりで、この場に呼び出したんだろうと。

 私は彼の瞳を覗き込んだ。そこにわずかばかりでも──人道的な意識が残ってさえいたら、それに縋りつきたかった。しかし彼の目は、私の視線を捉えた途端に、よくない光を帯び始めた。興奮を得て爛々とし始める、透き通って異様な目。瞳孔が開き切っている。

「あはは。ね、菜乃ちゃん。キスしよっか」

 今度こそ本当に、制服の襟元を掴まれて引き寄せられる。体が一気に浮き上がった。唇が触れ合う。生温かいものを感じた。ただそれだけだった。それに反して、指先は冷えて、凍りつきそうな程になっていたけど。