私は言い訳を考えようとしている時の癖で──周囲のものをぼんやりと捉えようとした。
教室の壁に備え付けられた、放送用のスピーカー。ぷつぷつと穴が開いていて、その一つ一つが洞穴のような暗さを奥底に持っている。埃のせいかやや黒ずんだ壁。黒板の、アルミ製の枠はずいぶん傷が付いていて、それらが白い線となって表面に浮かび上がっている。
それらに視線をさまよわせ──結局は、私の真正面にいる貌鳥先輩に意識のすべてが収束した。
私はここに来て初めて、すべての先入観を取っ払って彼の姿を捉えたような気がした。
白い肌だ。目は大きくて、色が薄い。茶色い目だ。同じように茶色い前髪が、目元に少しだけかかっている。
彼は笑っていた。場違いなほどに優しい笑みだった。まるで、うんと小さな子供に大人が向けるような──ちがう、それよりずっと、憐みを含んでいる目だと思った。私の知り得ない、私自身のことについて微笑を向けているかのようだった。
そこで不意に、差し込んでくる夕焼けがずいぶん薄くなっていることに気がついた。目の前にいる彼の、まつ毛の先まで赤く塗りつぶされていたくらいだったのに。今は、くちびるの端、顔の輪郭の一部分にしか、それは残っていない。
窓の外を見る。夕日はほとんど沈みかけていて、空の上の方は海の底のような色になっている。あと数分もしないうちに、あたりは真っ暗になるだろう。ここから見た夕日は、私の指先で覆い隠せそうなほどに小さく見えた。
「殺しましたよ」
窓の外を見ながら、私は言った。そこに、からかうような彼の声がかぶさる。
「俺の目を見て言ってよ」
「なんで分かったんですか?」
「証拠があったから」
私は彼に向き直った。彼は依然として笑みを浮かべている。
「すぐに認めるなんて、意外──」
「……」
「でもないね。証拠はあるんですかって問いただすタイプでもないし」
まるで私のことを分かっているように言うんだな、と思った。実際にそうなのかもしれない。
「じゃあ、聞かせてよ。経緯」
「先輩が期待してるほどのいきさつは無いですよ」
「それでも、聞かせて」
先輩は少し優しげにそう言ったあと「俺のスマホ、預かる?」と尋ねた。なぜそんな提案を、と私が聞くより先に彼が答える。
「今から話すこと、録音されて後でチクられるんじゃないかって不安かと思って。あ、スマホ以外にも何か制服に隠してるんじゃないかと思ってる? 別室で脱いできて、全裸でこの教室に戻ってきてもいいけど」
「いりません。お気遣いありがとうございます」
それに、と私は指摘する。
「先輩がこの教室で私を待ち構えてたんですから、教室自体に盗聴器でも何でも仕掛けておけるんじゃないですか?」
「あーっとそれは頭になかったなあ。じゃあ、場所を変える? 俺はどこでもいいよ」
私はその申し出を辞退した。
奇妙に思うかもしれないが、私は自身の犯行を言い当てられたことについて、何故か穏やかな気持ちでいた。安らかといってもいい。
それは小さな子供が、自分の失敗を親に隠したまま毎日を過ごして、いつバレるのかとビクビクしていた状態からようやく解放されたかのようだった。今の今まで、私はビクビクなんかしてなかったし、自分のしたことを「失敗」だとも「悪事」だとも思ってなかったくせに。
だから、先輩が私の供述を録音する気でいるのかとか、私を警察に突き出す気なのかなんて、私にはどちらでも良かった。笑えるほどに些細なことであり──そして何故か、私は先輩がこのことを他言する気がないと信用し切っていた。
「でも、場所を変えても何しても、聞かずに帰すことはしないよ」
「そうでしょうね」
「いや、そんな風に身構えないで。俺は君から聞きたいことがあるし、それ以上に、俺からも君に教えたいことがあるんだよね」
◆◆◆
教えたいこと? それは一体なんだろう。
今までの対話を経て、彼はもう散々色んなことを指摘してきただろう。その一番重大なこととして──この対話の締めくくりに、私があの子を殺したことを、糾弾したのだろうと思っていた。
まだあるのか? 私の知り得ない、もしくは私が見て見ぬふりをしている私自身のことについて。
あの日。
実験室横のトイレの中は、薄暗く湿っていた。四角形の窓の向こうに見える、真夏みたいな青空。それを遮るように、窓の真ん中に立ち尽くしているあの子。昼間の日差しを浴びて、その背中は妙に黒々としている。
ほとんど突発的な思考で、私はこんな風に考えた。
もし、あの子がこの場からいなくなれば、あの青空を遮るものは無くなるのだ。
例えば、窓の外へ突き落とすとか。
それは発作のように突然湧いて出た発想で、けれどもその一方で、私はずっとそうしたいと思っていたようにも感じた。
あの子がクラスの輪をかき乱している時、大声で教師の悪口を言って、その教師からちらと視線を向けられている時、勝手に大はしゃぎして大声をあげて、クラス中の注目の的になっているのを隣で感じた時、私はいつもそうしたいと思っていた気がする。
窓の外から聞こえる、吹奏楽部のトランペットの音が、低く、長く、足元から頭上まで突き抜けるように響いていく。
今ここで、あの子を窓の外に突き落としたとしたら。
その音は、このトランペットの音にかき消されて誰にも気づかれないだろうか。
自分でも奇妙なほどに、彼女を殺すための算段が、この一瞬で着々と整いつつあるのを感じた。
「さやか」
そう言って彼女に近づいた。彼女はかぶりを振るような仕草をした後、窓枠に手を置いて、窓によりもたれかかったらしい。その上半身が窓の外に向かってやや傾く。
危ないよと私は言った。それは本心から出た心配の言葉だった。本当に、危ない。あと少しでも、その上半身が傾けば、少しでも、彼女の両足が軽く浮いてしまったら──。
「そういうのが、聞きたいんじゃない」
彼女は泣きながらそう言った。背後からでも分かるくらい、顔を何度も拭っている。指先まで引っ張り上げたカーディガンの袖に、白っぽい膜のようなものが張り付いている。多分、乾いた鼻水なのだろう。それとは別に、鼻を塞ぐようにハンカチも手にしていた。
まだぐしゃぐしゃと泣きながら、あの子はくぐもった声でこう漏らした。
「やっぱり、瞳先輩のことが好きなんだと思う」
その言葉は、私の中で出所の分からない高揚感を覚えさせた。
そうだ。人はみんな、そういう風に考えるんだろう。自己弁護と他責を繰り返しながら、まるで万華鏡みたいに認識を取り替えっこして、自分のプライドを保つのだ。その場その場で、自分に都合の良いように考えていく。そうでもしないと生きていけない。誰しもが、そうする権利を持っている。
だからこの子は、ここで死んだって良いはずだ。
何も繋がっていないのに、そんな風に私は考えた。
「さやかにダメなとこがあったわけじゃないと思うよ」
「そんなのを聞きたいんじゃない」
そうだろうね。
「菜乃、いっつもそうじゃん」
その通りだ。
「いつも菜乃は分かってくれない」
私には分からないけど、きっとその通りなんだろう。
「危ないよ」
私はそう言いながら、彼女に気付かれないように細心の注意を払って彼女の足元にかがみ込んだ。陽の差す空間から逃れたことで、全身が一気に冷えていく。肩から背中にかけて、痺れるように震えるのが分かった。
「ねえ、危ないって」
その声から逃れるように、私の声を嫌悪するかのように彼女はかぶりを振ってより窓枠に体重を預けた。つま先立ちをする直前みたいに、内履きのかかとが浮き上がる。
「ほら」
私は言った。全身が小刻みに震える。これから起こり得ることへの恐怖で? いや、これは多分、歓喜によるものだろう。
「ねえ、下、見てみなよ」
窓の向こう、二階分の高さから見下ろした場所にある地面。トランペットの音が、まるで福音のように鳴り響いた。
「危ないよ」
さやか、と呼んであげた気がした。でもそれは気のせいだったのかもしれない。
さして力は必要なかった。ただ、ひっくり返すみたいにして、彼女のつま先を手ですくい取った。私の言葉を聞いて、彼女が上半身をより窓枠に預けて、下を覗き込んだ瞬間に。
まるで片側に重みを乗せられたシーソーみたいに、彼女の体はあっけなく向こう側へと傾いた。視界を横切った、白い内履きのつま先。雷みたいな残像を残して消えていく。
悲鳴さえ彼女はあげなかった。あの体がどこかにぶつかったのだろう音も、トランペットの音に紛れてほんの小さくしか聞こえなかった。どこかの教室で、窓を勢いよく開けたのかな、と思うほどのものだった。
開け放した窓からは、梅雨を前にした風が入り込んでいた。その向こうにある青空は、まるで夏みたいだったけれど。
◆◆◆
「あっけないね」
貌鳥先輩が言った。
本当に、その通りだと思う。あんな突発的な犯行で、どうして成功してしまったのか。それに、自殺だと処理されかけている。
でも、仕方ないのかもしれない。
憧れの先輩にふられた、という決定的な出来事が直前にあったし。クラスメイトにしても、あの黒板の落書きもあったからと、水面下で自殺に納得しているような空気があった。
「バレるかもって、ヒヤヒヤした?」
「いいえ」
「自信満々だね」
「というより、現実味が無さ過ぎて、自分のことのように思えなかったのかもしれません」
そこで、先輩も同じようなことを考えていたのか、ふと思いついたような顔でこう口にした。
「そういえば、あの黒板……」
「私がやったんですよ」
「うそお」
これも予想しているものかと思っていたら、本当に驚いた顔をしてまじまじと私を見返している。「どうやってやったのさ」と半信半疑な風に聞いてきた。
「前日の夕方に書いておいたんですよ」
「嘘。難しくない?」
「当日の朝に書くよりはずっと楽だと思いますよ」
だって、下校時刻直前にまでなると、校舎の中に残っている生徒なんてほとんどいなくなる。一部の運動部が、校庭や部室棟に残って活動しているくらいだろう。私はほとんど人目を気にせずのびのびと黒板にお絵描きができた。
「そうはいっても、書いた日の夜から朝になるまでの間、巡回の警備員とかに見つかるよね?」
「見つかりはしたけど、微笑ましいドッキリだと思って放置したんじゃないですか?」
誰も登校していないくらい早朝に、相手を呼びだして告白する友達を想って、こっそり応援の言葉を残しておいた。
悪意のあるメッセージだという先入観が無ければ、そう思って残しておくのかもしれない。そのお友達の告白が終わったら、すぐに消すつもりのものだろうと。
まさかクラスの大多数が登校してきても、消されずに見世物のように晒されてたなんてその人は思ってもいなかっただろう。
「それに、私としては巡回の人や先生に見つかって、消されても仕方がないくらいの気持ちで書いてました。絶対に成功させよう、みたいに張り切ってませんでしたもん。そもそもとして、あんなクラス中に知られるような、大規模な悪戯にするつもりはありませんでした」
「嘘くさいなあ。じゃあ君としてはどんな風になるのが理想だったの?クラスメイトに見られるのは想定にあったんでしょ?」
「見られるにしても、最初に登校してきた二~三人に見てもらえたら良い方だなと考えていました」
その数人に見られた後に、そのうちの誰かがさやかのためを思って(もしくはクラスにいじめまがいのことがあると露見させたくなくて)消すだろうと想定していたのだ。
「一番初めに登校してきた一人が、消してしまっても全然良かったんです。私は一人か二人にでも、見てもらえたらいいと思ってました」
「そりゃ、なんで?」
「このクラスに最低一人は、あの子に悪感情を持ってる人がいると他のクラスメイトに教えたかったんです」
こんな大がかりな嫌がらせを仕掛けるくらい、あの子を嫌ってる生徒がこのクラスにいると、そう数人に匂わせるだけでよかったのだ。水面下でその気持を吐露できさえできればもう満足だった。
ここまでで分かるように、ほとんど私個人の憂さ晴らしのつもりだったのだ。そこからいじめに発展するとか、そもそも本人に知られるまでいくなんて思ってもみなかった。それなのに。
「思ったより大騒ぎになっちゃったんだ?」
「ええ、まあ」
「まさか登校ラッシュを過ぎても、消されずに残されてるなんて想定に無かった?」
「はい」
「それは君の想定違いのせいっていうよりも、思っていたよりもあの子がみんなに嫌われてた、の方が原因としては正しいのかなあ」
本当に、それに関しては私の想定外だった。
正直に打ち明けると、彼女を殺した後より、黒板事件の後の方が、私はビクビクしていたと思う。指紋を拭きとってもいないし、目撃例だって聞き取りをすればあるかもしれない。だから、クラス中が内密に処理しようと考えていたことに、心底ほっとしたのだ。
◆◆◆
「じゃあ、次は俺の番になるのかな」
にこやかに、貌鳥先輩は言った。犯人の供述を聞いたばかりだというのに、どうしてそんな顔をできるのだろう。
「君がさっき言ったことをまとめると、あの殺人未遂は、突発的なものだった。前もって計画していたものではない。そしてあの子を追い詰める要因になっただろう黒板のことも、君はあそこまで大々的にするつもりなんてなかった」
「そうですね」
「俺はそれを信じるし、疑ったりなんてしないけど、俺の予想とは少し違ってたから驚いてるよ」
「予想?」
「証拠があったから、って言ったでしょ」
証拠。そうだった。私が殺したのだと彼に見抜かれた直後に、「証拠がある」と言われたのだ。
その証拠から思い至った予想と、私の供述は違っている。ということは。
「疑ってるんですか?」
「いやいや。さっきも言ったでしょ。信じてるし、疑ったりなんてしないって。顔を見れば、嘘じゃないなって俺にもわかる」
そんなに、私は分かりやすい表情をしているだろうか。私は彼の顔を見ても、それが嘘か本当か少しも分からないのに。
「だから多分、俺の持ってる証拠の方が、どちらかというと狂言だったのかもしれない」
証拠が「狂言」とは、一体どういうことだろう。私はてっきりその証拠というのが、物的証拠であると確信していた。
しかし狂言という言い回しを考えると──もしかしなくてもそれは、「告発」のような、誰かからの証言のことを言っているのかもしれなかった。
「その前にまず、君に一つ謝らなきゃね」
「謝る?」
「そー」
そこまで言って、彼はぱちんと自身の両手を合わせた。
「君に対してさ、なんで警察に話しておかなかったの?って責めたじゃん。事件に関係してそうなことなのにって」
「……ああ、黒板のことですか」
彼が何を指して言っているのか、私はすぐに理解できなかった。その話をした時のことは、もうずいぶん遠い昔のことのように思えていたから。
「俺の方も、わざと警察に話してなかったことがあるんだよね」
「……へえ」
「おっと、驚かないんだ」
「驚いたけど、納得もしました」
当たり前か。
彼は多分、一番容疑者に近い場所に居たし、なんでも話したりなんかはしなかっただろう。少なくとも、自分が不利になりそうなことはあえて言うのを避けていたはずだ。
けれど、そう軽々しく捉えられるのは、その「わざと話してなかったこと」が、さして事件に影響してない、小さなことだけに留まるだろう。彼がこうして、改まって切り出したということは。
「じゃあ、聞かせてあげよっか。その『証拠』を」
先輩がスマホを取り出す。私たちの間にある机の上にそれが置かれた。
ああ。私は不意に理解した。ここに来てからの、彼の言動の端々に顔を覗かせていた──「こっそりボイスメモでも回してるのかな」という彼の言葉や、「君の供述を録音する気はない」という否定──その発想に至ったワケを。
スマホの画面には、録音アプリが表示されていた。そこに書かれている日付。あの子が飛び降りた日のものだ。
「ねえ。告白されてる時に録音するのはさ、意外と簡単なんだよね。いかにも飽きたようなふりして、スマホ取り出していじってたらいいんだから」
それが私にとって思い当たる日付である前提で、彼が話す。
「私が突き落とした瞬間の会話とか、録音してるのかと思いました」
「まさか!だって女子トイレの中のことじゃん」
「でも、必要があればそれくらいのことはするでしょう?」
先輩は妙に微笑ましいものを見るような目で笑った。私が気の利いた冗談でも言ったと思ったのかもしれない。本心からそう思っただけなのに。
「これはね、俺があの子に告白されてる時に録った音声」
再生ボタンに指先を添えたまま、彼が言う。まるで言い聞かせるように。
「告白された時によくあることなんだけどね、断ると、大抵の子がぐずって俺を引き留めようとする」
「あの子もそれをしたんですか」
「そう!そしてその最中に言われたんだよね」
「もし付き合ってくれないなら、これからあの子を呼び出して、トイレの窓から突き落として殺すって」
「ねえ菜乃ちゃん、分かる?ここで言う『あの子』は、君のことを指してるんだよ。巣守菜乃ちゃん」
◆◆◆
向かい合ってまず思ったことは、思ってたよりも不細工だな、ということだ。
この子の存在自体は前から知っていた。というか、通りかかるたびにこちらをじっと見てきたり、騒ぎ立てたりする子がいれば自然と目につくだろう。ほとんどゲームみたいなものだ。やけにこちらに好意を寄せてくる女子が出てくるのも、何もしてないのにやけにこちらを嫌ってくる男子がいるのも。
環境を一新しても、そうなるよう最初から決まっていたみたいにして、どこかで見たような人間ばかり集まるのだ。
そういう人にばかり囲まれないように、自分ができることは何なのだろうか。それがここ数年ずっと考えていることだった。
いい子みたいに、周りに愛想よく、敬意を示して接していればいいのだろうか? 生意気だと注意されてきた口癖の一つ一つから直せばいい? それとも、手足の動かし方から変えればいいのか?
何か問題が起こるたびに、もしくは「お前のせいだ」と責められるたびに、自分の周囲を取り巻くものが、奇妙で、理解の及ばないものになっていくのを常々感じている。まだ十八歳だっていうのに老人みたいなことを言いたくはないけれど、自分にとって世間というものは、理解することさえもできない、手に負えないものとなっていた。
「さっきも言ったけど、付き合えないから」
目の前で、俯いて立ち尽くしたままの女の子にそう言った。正直、かなり優しい言い方をしてるんじゃないだろうか。優しいというか、親切というか。
だって、気まずいのをこらえて告白を断ったっていうのに、相手は泣きじゃくったままその場から立ち去ろうとしないのだ。長引けば長引くほどこっちが悪者にされているような気になってくる。
女の子は俯いて、カーディガンの袖でしきりに顔を拭っている。ボブに切り揃えた髪の一本一本が、くたびれたように肩や襟口に埋もれている。
髪の隙間から見える、泣いて赤く火照った肌も、疲労や悔しさのためなのかくしゃくしゃになった制服も、まるでベッドに横たわっている病人を見るような気分にさせた。
正直、罰ゲームで告白しに来たのかと思っていた。そもそもとして呼び出してきた時点で、顔を真っ青にして、これから戦地の真ん中に飛び出すみたいな怯え切った表情をしていた。いくら緊張しているからといって、この世の終わりみたいな顔をして告りに来る子なんてそうそういない。早くこの責務から逃れたいと思っているようにも見えた。
だから、これなら振るのに気を使う必要もないなと思って気が楽だったのに。珍しく自分の推測が外れていたらしい。
「どうしてもですか」
涙で濡れた声で、彼女が尋ねる。目を合わせようとしないまま。
ため息をつきたくなった。一度は断った相手に、そんな風に要求されて気が変わる人なんて世の中にいるのだろうか? でも、もしかしたらいるのかもしれない。さっきも言ったように、世間というものは自分にとって、理解しようのないものになっていたから。
「先輩に付き合ってもらえなきゃ、もうどうしようもないんです」
「どうしようもないって、何?」
「……ハブられたり、馬鹿にされたり……」
「はあ」
ハブられたり馬鹿にされたりって、それは俺が常日頃からされてることなんだけど、と言いたくなる。そもそも、そんなに悲観ぶるほどのことだろうか? ハブられても内心馬鹿にされていても、それで殺されるわけでもないし。嫌なら、学校自体に来なければいい。このご時世、逃げ場はいくらでもあるだろうに。
「どうしてもって言うならさ、俺に何かしてくれたりするの?付き合ったメリットとして」
「……先輩が、したいって言うなら……」
「うん」
「……処女をあげるくらいは、私……」
「うーん」
別にそういうのが欲しくて言ったわけじゃないんだけど、もしかして脅迫と取られたのだろうか。そういう提案よりは、ノートのコピーを取りますとか、荷物持ちしますとか、そういう発想の方が嬉しかったな。いや、それだと昭和の不良と舎人みたいになっちゃうか。
君にして欲しいこと、今対面したばかりだっていうのに、数えきれないくらいいっぱいあるよ。
例えば、赤いリップを使う子は嫌いだからできるだけナチュラルな色にしてよとか、その前髪のピンは嫌いだから外してよとか、告白する時くらい目を見てくれる子じゃないと嫌だなとか。
でも、それ全部直して欲しいって言ったところで、それを叶える頃には君は俺のことを嫌いになってるし、それなら最初から付き合わない方が楽しいよ、と冷静に諭せたらいいのに。現国の成績が良ければこういう時に役立つのかな。いや、どちらかという小論文の方だろうか。
「本当に何でもする?」
そう言うと、彼女はようやく顔を上げた。涙に濡れた目と真正面から見つめ合う。泣いていたせいで腫れぼったくなっていたけど、その目だけは、割と可愛く見えた。こうして向かい合ってから初めて、ちゃんと俺を見てくれたからなのかもしれない。でもその目も、すぐに逸らされた。悪いことをしたみたいな、俺を怖がってるみたいな風に。
「じゃあさ」
俺は少し考えてから、こう口にした。
「君がいっつも連れて歩いてるお友達、いるじゃん。肩くらいまで髪を伸ばした子」
それは、目の前のこの子と同じくらい記憶に残っている顔だった。別に、特別目立つような子でもない。顔は可愛いから、目を惹きはするけど、それだけだ。
ただ、一日中まっすぐに黒板を見て時間を潰すこともさして苦にならないんだろうなっていう、不気味な感じは何となくあった。
直接話をしたこともないのに、こんな風に思っているのは失礼かもしれないけど、多分向こうも俺に対して似たようなことを考えてる。
大きな目をした子だった。長いまつ毛を伏せて、遠目からじっとこちらの様子を窺ってくることがあった。土の中から外敵を観察するみたいに。
その目がやけに苛立った。どうしてかは分からない。自分も同じような癖して、俺のことを非難するような目をするんだ?と尋ねたくなった。本当に、俺はあの子のことを何も知らないのに。
「あの子とセックスさせてよ。そしたら君と付き合ってあげてもいいよ」