遺書代わりの小説1

 あかねちゃんのことを、書こうと思う。できるだけ鮮明に、小学四年生の頃まで記憶を辿って、まるで小説を書くようにして。
 小説とは言うものの、これはほとんど遺書と同じだ。私はずっとあかねちゃんのことを書きたいと思っていた。私自身の趣味や生活について、誰かに知ってもらいたいと思うことは、凡人なりに何度かある。ツイッターやインスタグラムをする大勢の人たちとおんなじくらいに。けれど、それ以上の衝動を伴って書きたいと思うのが、あかねちゃんのことなのだ。
 「あかねちゃん」その名前を、二十を超えた今でもよく思い出す。小学四年生から五年生までの間、クラスメイトだった友達だ。

「あかねちゃんはね、ちょっとだけおかしい子なの」
 母親がそう私に言い聞かせる姿を、よく覚えている。それは一体いつ、どこでのことだっただろう。私はよそ行きの服を着て、母親と並んで立っていた。母親は私の髪を手でとかしながら、目を合わせずに、どこかをぼんやりと見ながらそう言っていた。周囲にはうるさすぎないほどの喧騒と人の行き来があった。もしかすると、病院の待合室でのことだっただろうか?それともフードコートの中?保護者会かなにかで母親も学校に来ていた時だったかもしれない。
「あかねちゃんだけじゃなくて、あかねちゃんのお父さんもお母さんも、おかしいの。ママはね、あかねちゃんのご両親のことを知ってから『ああやっぱり』って思ったんだもの。あんな子になるなら、やっぱりワケがあったんだろうって」
 「おかしい」という言葉の選び方に、私は母親の怯えを感じ取った。おかしいに似た言葉は世の中にたくさんある。「変」とか「変わってる」とか。けれどもそれらの言葉の中には、一種の親しみやすさとか、手に取れる場所にある物への安心感とかが含まれているような気がした。■■さんったら変わってるんだから、という風に。母親の口にする「おかしい」の中に、それらはない。不安。怯え。視界に入れることすらしたくない、不気味なもの。
 大人があかねちゃんについて話している時の表情と、私たちがお化けについて話している時の表情は、よく似ている。
「お母さんは、あかねちゃんが嫌い?」
 私がそう訊ねると、母親は首を振って否定した。母親が目を合わせる。悲しそうな、憐れんでいるような顔をしていたのを、私は今でも覚えている。嫌いじゃない、と母親は言った。
「ママはね、あかねちゃんのこと、嫌いじゃないの。ただ少しだけ、可哀想だとは思ってる」
 

「あかねちゃん、これ何かわかる?」
 そう言って手のひらにのせて差し出したものを、あかねちゃんは奇妙な物を見るようにしてじっと凝視した。まつ毛の長い、大きな目。私はあかねちゃんの目に映る「これ」が、どういうものに見えているのかを想像する。親指ほどの大きさで、頼りないプラスチック製の、中で透明な液体が波打つ「これ」
「なんやこれ」
「甘くておいしいの」
「甘い?」
「砂糖水みたいな」
 あげる、と早口で言って投げるようにあかねちゃんに渡した。あかねちゃんの手のひらに転げ落ちていくそれは、家を出る前にこっそりポケットに入れてきた、小さなガムシロップだった。
 以前お喋りをした時に、あかねちゃんは喫茶店に行ったことがないと聞いた。親は行ったことがあるみたいだけど、自分は連れて行ってもらえないと。だからあげようと思ったのだ。きっとこれを見たこともないし、舐めたこともないだろうと思って。私は母親について行って喫茶店に入るたびに、母親が頼んだ分のコーヒーについてきたそれを、舐めさせてもらえる。こんなに甘くておいしいのに。
 あかねちゃんはそれを手のひらにのせたまま、目の高さまで掲げてしげしげと眺めている。私はそれを、早くポケットにしまってくれないかなあと内心ドキドキしていた。学校にこういうものを持ち込むのは、先生に禁止されている。見つかったら何を言われるか分からないし、それがどんな形で先生たちの間に広まっていくのかと想像すると胃が縮んでいきそうだった。ただでさえあかねちゃんは、問題児で、いじめっ子で、「いんばいの子供」だと言われているのに。
 少し遠くから、喧騒が聞こえる。同じくらいの歳の子たちがはしゃぐ声。私たちは校舎の影に隠れるようにして、校庭の隅の非常口前にこそこそと身を寄せ合っていた。ランドセルを背負ったまま、お尻をつけずにしゃがみこんでお喋りしているので、窮屈といえば窮屈だった。ランドセルを開発した人は、どうしてこんなにも重くて体を締めつける作りにしたのだろう?視界の端、地平線みたいに遠くに感じる鉄棒のそばで、下級生が走り回っている。
 私はドキドキしたままあかねちゃんの様子をこっそり見ていたが、ガムシロップに注がれていた視線が、不意にぱちりとこちらへ移った。ガムシロ越しに目が合う。なぜか悪いことがバレたみたいな気持ちになって、思わず目を逸らしそうになったところで、あかねちゃんがにっこり笑った。
「ありがとな、Aちゃん」
 そう言ってポケットにしまうあかねちゃんの笑顔は、すごくすごく可愛かった。漫画のキャラを真似して始めたのだというつたない関西弁も、よく似合っている気がした。あかねちゃんの顔を見る。まっすぐに肩まで伸びた茶色い髪。それこそ漫画とかアニメのキャラみたいに大きな目。あかねちゃんを嫌っている女子も、この顔だけは「リカちゃん人形みたい」だと褒めていた。襟元がすこし伸びたTシャツに、汚れの目立つ俊足のスニーカー。ランドセルの肩紐部分は、中糸がほつれて少しボロボロになっている。乱暴者なあかねちゃんらしかった。
「家帰ったら舐める」
「うん」
 そこまで言って、あかねちゃんは不意に周囲を見渡したかと思うと、ぐっと顔を寄せてきた。にんまりとした、意地悪そうな笑みを浮かべて。
「Aちゃん、秘密守れる?」
 囁くようにそう言うと、あかねちゃんはガムシロップを仕舞った方とは別のポケットに手を入れて、あるものを取り出してみせた。
「…………」
「Aちゃんにだけ、特別」
 あかねちゃんの指先がつまんでいたのは、薄っぺらくて正方形をした何かだった。表面にきつく皺が寄っていて、限界まで中の空気を抜いたのだろう。中に包装されているモノの形がくっきりと浮かび上がっていた。その薄っぺらい正方形の真ん中に、フエラムネみたいな楕円形が浮かんでいる。
 個包装のお菓子かな。小学生の私は、そんな風に考えた。「ちょっと高級なチョコ」がこんな風に、一枚ずつ個包装されているのを知っている。しかし本能的な何かが、これはチョコではないと頭の中で告げていた。そのうえ、お菓子でもないと。もっと不気味で、異質で、下品なものであると感じていた。
「これ、ガム?」
「ちゃう、ゴム」
「ガム?」
「ゴム」
 あかねちゃんはしたり顔で、指先につまんでいる包みをくるりと回転させてみたが、裏も表も特に変化はなく、やはり「薄っぺらい包み」にしか私には見えなかった。あかねちゃんは鼻先を寄せたまま「親父の財布から盗ってきたんよ。千円貰おうとしたらこれがカード入れの隣に入ってて」と説明する。
 私には未知の経験だった。父親の財布から何かを盗むという行動も、そもそもとして父親の財布に勝手に触るというのも。それでも、あかねちゃんは私にとって友達なので、その行動に違和感を抱きはしても
、非難することなんて思いつかなかった。
「大人になったらさあ、うち、これを股につけるんやって」
「あかねちゃんが?」
「うん、これ着けてな。うちの親父も夜になったらこれしてるんやで」
 私には想像がつかなかった。その包みの中に押し込まれているのだろうフエラムネのような何かを、あかねちゃんが脚の間につけるということを。そもそもとして、私はあかねちゃんの脚の間にあるものを見たことなんてなかった。プールの着替えも、トイレだって別だから。
「覚えておいてな」
「なにを」
 そんなことを考えていたからか、あかねちゃんの言葉に反応するのが遅れた。あかねちゃんは立ち上がって、いひひと笑いながらこう返した。
「うちが、これ、Aちゃんに教えたってこと」
 私も立ち上がり、あかねちゃんと並んで帰る。あかねちゃんとは家が反対方向なので、校門前で手を振って別れた。放課後なのに、校舎裏に留まってお喋りしていたのもそのためだった。
 あかねちゃんと別れた後、私はいつも少しだけ安心する。ほんのちょっと張りつめていた緊張の糸が、ようやくほぐれるのだ。それは野生の動物が、やっと外敵のいない場所へ辿りつけた時のような安堵だった。あかねちゃんが嫌いというわけではない。単に私が人見知りで、お喋りをするのが苦手なだけだ。けれどそれ以外にも、緊張の原因があって、おそらくこちらが大部分を占めていた。あかねちゃんが他の子より──子供だけでなく、周囲のどの大人とも違う──変わった人間性をしていることも理由の一つであったが、一番の理由は”あかねちゃん”が男の子であるためだった。
 私たちの年齢だと、男子と女子が仲良くしているだけで変に注目されてしまう。
 それでも、私はあかねちゃんと一緒にいるのが好きだった。あかねちゃんは快活だ。気が強いところもあるけれど、私のことが嫌いで変に意地悪しようとしている訳ではないと、分かっているからかもしれない。
 この日から二十年ほどの月日が経つけれど、私は今でもあかねちゃんのことをこんな風に表現できる。明るくて、優しくて、私に意地悪しようとしない。
 小学五年生のあの日、あかねちゃんが担任の先生の娘を妊娠させた時も、私はあかねちゃんを嫌うことができなかった。