「汚れちゃわない?」
ドクターの言葉に、改めて自分の格好を見下ろす。コートを脱いだだけで、あとは普段と変わらない服装だ。それに反して、目の前の彼は防護服も下着も全て取り払われている。唯一身につけているシャツも、たった今自分が脱がせている最中だった。薄い体を隠すにしては、あまりに頼りない布地の感触を指先に感じながら、自分は答える。
「コートを羽織れば隠れますから」
「そっか、そうだよね」
本当は、服を着たまましたいだけだ。普段と同じ格好であれば、相手が「ムリナール・ニアール」であると彼が正しく認識してくれるような気がした。こういう事をする際に、誰かの姿を重ねられるのは吐き気がするほど嫌だった。
縋りつくように、首に手を回される。慣れた手つきだ。初めての時はこうではなかった。おずおずと、怯えるように肩に触れた指先を覚えている。今思うと、あれはほとんど強姦に近い行為だった。
口づけをねだられたので、その通りにする。唇を合わせるだけの軽いものだ。お互いまだそこまで昂っていない。彼の髪に指を通しながら言う。
「意外でした」
「何が?」
「こうやって、口づけを許すことが。あなたは好きな相手のためにとっておく類の人間に見えましたから」
そういう、古臭い情緒をこの男は持っているように見えた。いかにも大衆が好みそうな、ありふれた三文小説の登場人物ように。ドクターはほんの一瞬だけ目を丸くした。そしてすぐに笑顔を浮かべる。無邪気な、子供が浮かべるような表情で。
「どうして?ムリナールのことは好きだよ」
「────」
「だって、上手だから」
彼が身をすり寄せてくる。「早くしたい」と言いながら。首筋から鎖骨までの肌が、驚くほど白い。
「……ええ、仰せのままに」
騎士のような台詞が、自然と口から出たことに苛立つ。剥き出しになった薄い胸に手を這わせた。生温かい肌だった。
始まりは至って簡単で、ドクターとの関係も一言で言い表せるほど明瞭だった。つまるところ、性欲を発散する相手として使われているだけだ。それも、自分から望んで。
あの日。執務室のドアをノックしても、中から返事が聞こえてくることはなかった。ドクターは不在なのだろう。彼のサインが必要な書類を持ってきていたが、デスクに置いて後日取りに来ればいいと考えた。以前もそんな風にして、書類の受け渡しをした覚えがある。
だから、特に躊躇することなく執務室の中に入った。その直後にソファーに横たわるドクターの姿を見つけた。うつ伏せになって、薄いブランケットを腰から下にかけている。寝ているのか? 反射的にそう思った。起こさないようにしてデスクへ向かおうとしたその瞬間、場違いな声が聞こえてきた。
「……ん、は……、」
思わず足を止めて、彼の姿に見入った。押し殺した声とともに、彼の下半身がゆるゆると動かされている。見られていることに気づかないまま、ある行為に没頭しているようだった。
その声を聞いただけで、彼が何をしているのか分かった。普段の自分であれば、彼に気づかれないようすみやかに部屋を出ていただろう。それでもそこに留まっていたのは、あることに気づいたからだ。下腹部に伸びているだろう彼の手。ブランケット越しでも分かるその動きは、明らかに「前」ではなく「後ろ」を弄っていた。手に握った何かを、後ろの穴に出し入れしている。それに合わせて、腰がカクカクと突き上げられていた。
「ん、あ、ぁ、ぁ……」
しばらくの間、彼の痴態を眺めていた。室内に、じっとりと甘やかな匂いが立ち込めている。彼の呼気と汗が混じり合った匂いかもしれない。ソファーの中で窮屈そうに畳まれている彼の足先は、腰を突き上げるたびにひじ掛けを軽く蹴っていた。声をかけたのは、それからどれくらい経った頃だろう。「ドクター」と、ただその一言だけを、荒い息遣いの合間に呟いた。
彼の反応は早かった。姿勢を変える余裕も無いのか、そのままの姿でこちらを振り返る。フェイスシールドを着けていない顔。さっきまで火照っていたのだろう頬は青ざめていた。見開いた目に、じわじわと羞恥が浮かんでいく。
「……ぁ、なんで、ムリナール、」
「鍵をかけていないようでしたので」
彼の唇が開いては閉じるのを繰り返す。言い訳、もしくは謝罪の言葉を必死に考えているのだろう。彼の両目は涙の膜に覆われ始めている。
同じ男として、痴態を目撃された彼を気の毒だと思った。その一方で、今まで存在さえ知らなかった、自身の胸の内にある加虐心を紐解かれつつあるような気がした。彼のその、白い指先で、少しずつ。ずいぶん前から、自分はこのマリアとそう歳の変わらなさそうな子供を、いじめてやりたいと思っていたような気さえした。
「あなたは『後ろ』を弄うのが随分とお好きなようですね」
一歩、足を踏み出す。彼と距離を詰めるため。ソファーの上で、彼が怯えるように身を縮こませる。もう遅い、と思った。
「老耄ながら、この体はあなたのお役に立てると思いますよ、ドクター」
そう言って、彼に覆い被さった。いや、組み敷いたという方が正しいか。あの時彼は、確かに抵抗していた。手首を押さえつける手を押し返そうとしていた。あの一瞬は確かに合意ではなかったのだ。今となっては、こんなにも爛れた関係に落ち着いてしまったものの。
「大きい」
こちらのモノに指を這わせながら、嘆息するように彼は言う。彼の後ろを指でほぐしてやっている最中だった。既に自分のそれは愛撫を必要としていない。今すぐにでもねじ込める硬さになっている。わざわざそれを出して、彼が触るのを許しているのは、手持ち無沙汰な子供におもちゃで遊ばせているようなものだった。細い指が先走りをまとわせながら絡みつく。表面に浮かんだわずかな凹凸までなぞるように。
「もう、普通の大きさじゃ満足できなくなったかも」
「何がです」
分かっていながら、知らないふりをして聞いた。
「君のに慣れてしまったから」
うっとりと喘ぐように彼が言う。蕩けるような目だ。自分は返事をしなかった。彼の顔を見つめたまま、穴を広げるように指を動かす。大きな両目が、ずっと遠くを見るように焦点を失う。指を入れてやっただけで、ずいぶんうまそうにむしゃぶりついてくる穴だ。今まで抱いてきた女の中にさえ、ここまでのはいなかった。
「そんな具合じゃ、いつか結婚相手を探す時に苦労なさいませんか」
「ぁ、なんで?」
「満足できないと言ったでしょう」
「ああ」
彼が納得して微笑む。額がうっすらと汗ばんでいた。指を引き抜く。その際に穴のふちを関節の背で擦るようにしてやった。なだらかな喉仏が心地良さそうに上下する。この硬いところが好きだと、以前ペンだこに触れながら言われたことがある。
「別に、関係ないんじゃない?」
それとこれとは、と彼が言う。
「性の不一致って言うのかな。そういうのが、相手と合致してなくたって、道具でも使って自分で慰めてれば良いんだからさ」
「道具?」
「うん」
「へえ」
言いながら、彼の膝裏に手を差し込んだ。そのまま、体を折り畳むように脚を押し上げる。
「ぅ」
でんぐり返しのような姿勢になった彼が、苦しそうに顔をしかめた。後ろの穴が、ほぐされたばかりで物欲しそうにひくついているのが見える。そこに先端をあてがった。彼が待ち構える暇すら与えずに。
「これが?」
そう言って、勢いよく貫いた。
「〜〜〜〜〜〜〜〜っっ!!」
かふ、と息が吐き出される音。潤んだ肉がむしゃぶりついてくる。体の持ち主の意思に反して、穴の方はこの状況をすぐ理解したらしい。搾り取るように肉棒を揉みしだいている。彼を見ると、見開かれた目がぐるりと上を向きかけていた。
「これに慣れきった体が、玩具ごときで満足できるとお思いですか?ドクター」
「あ、ぁ、ぁ」
「こんな、熱くて、あなたの思い通りに動かないものを、」
「ん、ひぃ、ああ、奥、」
薄い腹の上で、子供のような陰茎がびくびくと震えている。先端からは先走りが滴り、蜜のように腹へ垂れ落ちている。それを見て、ねじ込んだモノを、ギリギリまで抜いた。穴の縁に一番太い部分を引っ掛けて。限界まで広がった穴を見ながら、また勢いよく叩きつけた。彼の最奥まで。
「お゛…………っ」
「聞いていますか?」
びゅる、と音を立てて彼が精液を吐き出した。水のように色が薄い。行為を始めてから初めての射精であるはずなのに。
「また、我慢できずに一人で耽っていたようですね」
少年のような容姿をした彼が、それに似合わず盛んな性欲を持っていることは、この関係になってからすぐに察することができた。腰を何度も打ちつける。奥へ呑み込もうと締めつけてくる肉壁の感触が心地良い。加虐心とは別に、本能が快楽を追おうとして腰の動きが乱暴なものへと変わる。
「は、ぁ、あっ、ああ」
叩けば鳴るおもちゃのように、腰を打ちつけるたびに彼は喘いだ。愛らしい唇がうすく開いている。その奥で揺れる濡れた舌先に、どうしようもないほど興奮した。快楽のためか、彼の目は虚ろなものになっている。
「あ、ああ、いい、ムリナー、ル」
両腕でしがみつかれる。応えるように、薄い体躯を抱き寄せた。その振る舞いに、自分のことながら少し驚く。手の拘束から解放された脚が、自然な動作で腰に絡みついてくる。汗の匂いが濃い。どちらのものかは分からないが、こんなにも甘く感じるのだから、きっとドクターの体から滲んでいるものなのだろう。密着したせいで、彼の陰茎がシャツに擦りつけられている。先走りのせいで一部分が濡れていた。気に留めるほどのことでもない。それよりも、汗をかいたせいで肌に張りつくシャツの感触の方がずっと不快だった。
「ぁぁ、すごい、すき、ムリナール」
「ええ」
「もっと、きて、奥に、くる、」
「そんなにいいですか」
今まで生きてきた中で、一番体を求められているような気がした。女を抱くことは何度もあったはずなのに。この、薄い体をした、少年じみた男に対して。脳が焼き切れるような気がした。性器が繰り返し締めつけられる。
「見ろ」
小さな体を突き上げながらそう言った。自分を抱いている男がどんな顔をしているのか、その目に焼き付けて欲しかった。
「ドクター、こっちを見るんだ」
うなだれるように肩に頭を押し付けていた彼が、ほんの僅かに顔を上げた。湿った前髪の隙間から、こちらを見る目が覗く。潤んだ、大きな瞳だった。長いまつ毛が奇妙なほどに妖艶だった。
見つめあったまま、中に出した。注がれた瞬間に、彼は背を震わせてまた俯いてしまった。逸らされた視線に何故か苛立って、激しく腰を打ちつけて残りを注ぎ込む。彼のよくできた穴は、一滴残らず全てを搾り取っていった。
「手当をつけてあげなくちゃね」
「手当?」
「君のお給料に。こうやって私の相手をしてくれてる分の」
「冗談でしょう?」
「うん」
汗で張りついた彼の前髪を拭ってやると、「きもちいい」と言って目を閉じた。白いまぶたを、今初めて見るような気持ちで眺める。
「でも、お給料をあげたいほど君に感謝してるのは本当だから」
「……それはどうも」
気の利いた返事を思いつかず、ただそうとだけ答えた。
本当に、ただの善意で付き合っているだけだと、彼は思い込んでいるのだろうか? たとえこちらも風俗に行く手間が省けるというような利益があったとしてもだ。けれど、この男にとっては、部下ひとりの個人的な事情のためにそこらを奔走して問題を解決してやることなど日常茶飯事なのかもしれない。そう考えると、わざと分かっていないふりをされている方がずっとマシだと思った。
ふと、彼の視線がある場所へ向けられているのに気づく。見ると、自分の陰茎がまた勃ち上がっていた。大きな目が、それをじっと見つめている。子供が、買って欲しいお菓子を見るような目で。
「……まだしたいですか」
「うん」
少しの下品さも感じられない言い方で、彼が頷く。
「四つん這いになって、尻をこっちに向けてください」
あの背中を眺めながら後ろからしたいと、さっきからずっと思っていた。なだらかな肩甲骨が、軋むように動く様を頭が勝手に思い描く。
「……激しくされたかったら、自分で前を弄ってみせろ」
戯れのようにそう口にした。白い、子猫じみた体は、恥ずかしがる素振りすら見せずに従った。ほとんど無意識に、喉奥から掠れた笑い声が出た。
好きな子ができたら、うんと優しくしてあげなさい。いつか兄にそう言われた。お前は意地っ張りで捻くれ者だから、その分優しくしてあげなさいと。間違っても、力づくで「そういう行為」をしようとするような、恥知らずな真似をしてはいけない。異性と手を繋ぐのを嫌がっていた時くらいの、ずっと小さな頃の話だ。
ドクターの後ろから覆い被さる。シーツに膝をついた片足を、抱えて体に引き寄せた。犬同士でまぐわっているような姿勢になる。自分たちにはお似合いだろう。バランスを崩して倒れ込みかけた彼の体を抱き寄せた。
優しくしているつもりだった。今だって、望むだけ体を貸してやっている。うんと優しくして、無理やり押し倒して、それでも好きになってもらえなかったら何をしたらいいのか、兄に聞いておくべきだったと思った。