喪服

 つい先日、稲妻で有名な反物屋の主人が亡くなった。
 まだ中年と呼んでもいい歳だったので、死ぬには早過ぎるほどだったが、普段の酒浸りの不摂生を知っている者からすれば特に不審には思わなかった。
 罰が当たったのだ、と正直オレは思う。
 五年ほど前だったか。会食の席で、あの男は若に下品なことを言った。胸糞悪くなるような内容のものだ。思い出しても腹が立つばかりなので、できるだけ忘れようと努めていた。それでも、ふと細部を思い出しては、あの時の不愉快な気持ちが鮮明に想起されるばかりだった。
 だから、訃報を耳にした時は、胸のつかえが取れたような気がした。死んで良かった、とさえ思った。勿論、こんなこと誰にも打ち明けられないが。
 あんなに綺麗な人を傷つけたのだ。当然の報いだとも思った。

 その家の葬儀には、若だけが出席した。一応、社奉行として関わりを持っていた家だったから。
 久しぶりに取り出した喪服を若に着せる。黒紋付は、薄暗い室内でもはっとするほど艶やかに黒い。差し込んだ陽の光が、全てそこに吸い込まれては溶けていきそうなほどだ。
 染め抜きの、神里家の家紋が付けられた黒紋付。若がそれを身につけると、より彼の美しさが引き立つようだった。普段から、まるで水が形を持ったような人であったが、喪服を纏うと、その髪も肌も爪の先まで透明に透き通るかのようだった。
 箪笥から久々に出したはずだと言うのに、彼に着せた途端、藤の花の香りがするような気がした。特に、黒い襟から覗くうなじに顔を寄せると、腹の底がぐずりと溶け出していきそうな甘やかな匂いが立ち昇ってきそうだった。

 その日は朝から晴天で、葬いをするには勿体ないほどの青空だった。花も、昨日より咲き乱れているような気がした。若の御姿を見に来たのだと、本気でそう思いそうになった。
 彼が葬儀から帰ってくる頃もまだ晴天は続いていた。なんだか葬儀が行われたということ自体が夢の中の出来事であるように思えた。
 しかし実際は勿論そんなことはなく、また着替えを手伝っている際中に、愚痴を聞かされて初めて実感することとなった。
「肩が凝った」と愚痴をこぼす彼を宥めながら、背後に立ち黒紋付を脱がせていく。若の目の前には全身が映るほど大きな姿見が置かれている。そこに映る若と向かい合いながら、若の背を前にして着替えを手伝うのは何だか奇妙な感じがした。
「葬儀に出るのは久々だったから、余計疲れたのかもしれない」
 ぼんやりとした声だった。この人は普段、声を荒げたり、感情を滲ませるようなことがあまり無い。一定のトーンと一定の速度で、何を言うにも星を数えるみたいに話す。
 あそこのご息女はこれから大変だ、とゆるゆると話し続ける中で、急逝したあの男のことを口にした。

「でも、一番可哀想なのは亡くなられた元当主だろうね。あんなに早く死ぬとは自分でも思ってなかっただろうに」

 若とお嬢の境遇を考えると、同意するべき言葉だったのだろう。それでも、フラッシュバックのようにして、いつの日か彼に投げかけられた言葉が頭をよぎった。「綾人様は女性のようにお美しい方ですから、いざ家が傾いたとしても、羽振りのいい男に色目でも使えば──」

「オレはそう思いません」

 そう吐き捨てた瞬間、若がひたりと動きを止めた。視線だけは前を見据えたまま、オレの様子を窺っているのが分かる。

「死んだ方が良かったんですよ。ああいう男は」

 言ってしまった。口に出さなければ良かった。分かりきっていたはずなのに、後悔が胸に押し寄せてくる。
 自分たち以外には誰もいない、光の差し込まない薄暗い部屋にいたせいかもしれない。指先で、彼の身につけているものをひっそりと脱がしていくこの行為が、どこか甘やかで陶酔めいたものに感じられた。秘密を共有したいと、そう思わせてしまう空気があった。
 誰かに打ち明けるつもりのなかった心情をつい吐き出してしまった。そう口にしてしまってから、自分の下品な物言いに恥ずかしくなった。それでも、一度口に出してしまったことは取り消せない。
 若に軽蔑されやしないだろうか、と冷水を被ったかのように全身が冷える。しかしありがたいことに、こちらを窺う彼の様子から、嫌悪や侮蔑は感じられない。むしろ、面白がっているようにさえ思える。

「珍しいね、トーマがそんなことを言うなんて」

 そう口にする声は、歌でも口ずさんでいるかのようだった。綺麗な弓の形に吊り上がった艶やかな彼の唇が、頭に思い浮かばれる。いま、目の前の鏡を覗き込めばそれと全く同じ形をした、彼の口元が見えるのだろう。

「……あの人は、若に失礼なことを言いました」
「そうだったかな」
「そうですよ。オレは覚えてます」
「私は忘れっぽいから、覚えていられるトーマが羨ましいよ」

 あくまで楽しげな声のまま、若がそう返す。それが本心からの言葉なのか、それともこの話題はもう続けたくないと思っているのか、オレには判断がつかなかった。
 この人はいつもそうだ。どれが本心なのか相手に悟らせない。透明な壁がオレとこの人との間にあって、それだけじゃなく、オレも知らない不可視の顔をこの人は壁の裏側に隠してるんじゃないか。
 何も言えないまま、彼の着替えを手伝い続けた。若が薄い下衣のみになる。暗く湿った部屋の中で、彼の肌の匂いが淡く立ち昇ってきそうに思えた。
 オレが普段のお召し物を手に取った時、彼がふと思いついたようにこう口にした。

「でも、彼が少し羨ましいな」

「彼」が逝去した男のことを指していると、すぐには理解できなかった。「羨ましい」という言葉を繋げるにはあまりに不似合いだったから。オレの困惑を感じ取ったのか、若が付け加える。

「君は誰にでも優しいから、そんなふうに憎まれている彼はむしろ特別みたいなものだろう」
「……考え過ぎですよ。嫌われて良いことなんてありません」
「もの静かな草花より、まとわりついてくるうるさい小蝿の方が君の気を惹けるのは事実だろう?」

 そこまで言って「私も、トーマの気を惹くために振る舞い方を変えてみようかな」とまで言ってみせる。

「そんなことしなくても、若は特別ですよ。若とお嬢がオレの一番大切な人です」
「……どうかな」

 そう言った彼の声は、普段よりずっと低かった。この一瞬の間に、まるで何歳も年老いてしまったかのように、疲弊と摩耗が表れていた。

「トーマは誰にでも優しいから」

 独り言のようにそう呟かれる。低く、乾いた声で、けれども微睡んでいるような、どこか夢を揺蕩っているような響きをして。

「時々、すごく寂しくなる」

 頭の中が、カッと熱くなるのを感じた。
 血が昇って何も考えられないまま、無意識に彼の手首を掴んだ。ぞっとするほどに柔い肌だった。
 分からせてやりたい、と思った。誰にでも優しいと、そう思い込んでいた男が心の中ではどんなことを考えているのか、教えてやりたかった。
 手首を握る手に自然と力が込められる。このまま、衝動に従って彼の体を扱えば、きっと数日は消えない赤黒いあざが出来るだろう。手首だけじゃない。彼の髪も、頬も、衣服に隠された肌と、口の中まで、オレがどんな風に扱うか、まるで見てきたかのように想像できる。毎晩、自分を慰めている時に頭の中で思い描く姿と、全く同じだったから。
 白い手足と、赤い舌先と、潤んだ両目。汗ばんだ鎖骨まで残像のように目の前に浮かぶ。
 あなたに少しでも良く見られたくて、取り繕っているだけなのだと知れば、この人は幻滅するだろうか。ただの善良な男だと油断したあなたが、たった一瞬でも胸の奥底に触れさせてくれるのなら。
 そんな忠義とは程遠い期待を抱いてそばに居るのだということを、この人は知らないのだ。

「寒いよ。早く着替えさせて」

 その言葉に、はっと我に帰る。彼の手首を掴んでいた手から、急速に力が抜けていく。痕が出来ていないかと今更冷静になる。けれど、オレが視線をやる頃には、彼は指先でつまんだ袖を引っ張り上げて、目から逃れるように手首を隠してしまった。傷痕を見せることすら、この人は許してくれないのだ。

「トーマ」

 急かされて、着替えの手伝いを再開する。まるで甘えているような声だったが、きっと本心はそうではないのだろうと分かった。

 着替えを終えて、若と二人で中庭に出る。空は未だ、綺麗な晴天のままだった。
 若が空を見上げる。風になびいた横髪が、白い頬にぶつかっては砕け散っている。色素の薄い髪は、今この瞬間にも風の色に染まっていきそうだった。
 この人が、つい数時間前まで火葬を見ていたというのが信じられないような気がした。本当に、人の身体を燃やした煙が、天に昇っていく様を、彼はその目で見届けたのだろうか。
 そう思っていると、不意に彼がこちらを振り向いた。光に背を向けているために、顔に濃く影が落ちている。その中で、両目と唇だけがやけに潤んで見えた。

「やっぱり、私はあの男が羨ましいよ」

 若が微笑を浮かべる。青空を背景にして、彼の笑みは夢のように綺麗だった。

「死んだ後も、君に一瞬でも思い出してもらえるんだ。どんな感情であったとしても、それだけで幸せ者だと思うよ」

 まるで、自分はそうは成れないと思っているような口ぶりで彼は言う。

(そんな簡単なこと)

 そう声に出しそうになって、寸前で堪えた。証明しようのないことを伝えたって、この人には届かない。
 もし若が死んでしまったら、毎晩でも彼の夢を見れるはずなのに。オレ自身が後を追うように死んで、遺体が灰になったとしても、彼のことを想って微睡んでいるような気がした。