勘違いしてしまうから(※R18)

 甘酸っぱい汗の匂いが、寝所の中に充満している。
 情事の後、こんな風にしてトーマに抱かれて眠るのを綾人は好んでいた。普段は公務で忙しく、顔も合わせない日々が続くせいか、こうして二人きりでいる時は出来るだけ身を寄せ合っていたいと思うのだ。
 目を閉じて、トーマの腕の中でまどろみ続ける。すると、閉じたまぶたや頬の上に、唇を押し当てられるのを感じた。くすぐったさに、綾人は目を閉じたまま微笑する。トーマは口づけを止めないまま、手で綾人の前髪をかき上げて、あらわになったこめかみへキスを落とした。
 普段、他人に触れられる事のない場所なために、体が敏感に感じ取ってしまう。ぴくん、と小さく跳ねた体を見下ろして、トーマは愛おしげにこう囁いた。
「若はキスだけで気持ちよくなれるんですね」
 その声には、相手を愛おしいと思う気持ちだけでなく、また昂り始めた欲望まで含まれていて。このままだと、またニ回戦をすることになりそうだと綾人は内心苦笑した。
 これ以上彼を煽らないようにしようと思いつつも、頬へそろりと這わされる手に、またぞくぞくと体を震わせてしまう。堪らず吐息を零すと、それさえも感じたいという風にトーマの指先が唇に触れた。乾いた指の腹が、唇を左右になぞる。それを感じながら綾人は口を開いた。
「君が散々ひどくしたから」
 元々敏感な体だったわけじゃなくて、君がそうさせたんだと言外に匂わす。綾人にしてみれば至って普通の言い訳だったのだが、それがトーマをより昂らせたことに彼は気づかない。
 トーマが微笑するしたのを感じ取って、綾人は閉じていた目を開けた。鮮やかな萌葱色の目が、薄暗闇の中で淡く輝いている。暗闇に徐々に慣れ始めた目が、彼の白い肌や、綺麗な金糸を捉える。それでも綾人の目に強く残るのは、こちらをひたむきに見つめるトーマの瞳だった。
 まるで、愛おしくてたまらない人を見るように、とろとろに蕩け切った目。見つめあっているだけで、息苦しささえ覚えそうな、そんな視線。綾人は自分の胸がぐしゃりと潰れるのを感じた。
(そんな目で見ないで欲しい)
 勘違いしてしまうから。
 自分はトーマにとって大切な存在なんだと、彼に心から愛されている存在なんだと思い上がってしまう。これからも彼に愛され続けるのだろうと根拠のない自信を持ってしまう。そんなことはあり得ないのに。彼がこの地を去ってしまう日が、なぜ来ないと断言できるだろう。自分に愛想を尽かしてしまう可能性だってある。その日が来たら、きっと自分は耐えられないだろうから、彼に愛されてるなんて思い込まない方がいいはずなのに。
 頭の中で、諭すようにそう囁く声を綾人は聞いた。
 もう何百回も胸の内で繰り返してきたやり取りだ。トーマに愛されるほどに、いつか来るかもしれない別れに胸を潰される。
 その視線になんだか耐えられなくなって、綾人は逃げるようにトーマの胸に顔を埋めた。こうしていれば、彼の目を見なくて済むから。トーマからすると、ただ甘えてきただけに見えるはずだろう。自分を安心させるために、そう思い込もうとした矢先、静かな声が耳に届いた。
「若、オレの目を見てください」
 その言葉と同時に、肩を強く掴まれる。無理やり顔を上げさせる程ではないが、明らかに意図を持った強い力で、肩が手指に締めつけられる。普段、こんな風にトーマに触れられたことはない。情事の最中に、お互いに昂り切ってしまった時でもない限り、彼はいつだって細心の注意を払って綾人の体に触れる。
 一体何が起きたのか、理解できないまま顔を伏せている綾人の頭上から、先ほどのように声がかけられる。
「また、変なこと考えてるんでしょう?」
 有無を言わせぬ圧をその声に感じて、綾人は胸がひやりとするのを感じた。ほとんど反射的に茶化すような返事をする。いつもの空気に戻そうとして。
「今日のトーマは、なんだかいつもより怖いね」
「オレはいっつも怖いことばかり考えてますよ」
 そう返すトーマの声も、冗談めかした響きを持っていた。肩を掴む手が離れて、代わりに背中へ回される。肌を味わうように手が這わされて、綾人の身がぞくりと震える。肩口にトーマの顔が埋められて、あまりに近づきる距離で、普段よりずっと低い声で吐き出される声を聞いた。
「好きでいるのも許してくれないんですか……」
 吐息に紛れたその言葉は、綾人には全て聞き取れなかったらしい。
「トーマ?」
 不思議そうに尋ねる声へ、トーマは返事代わりに彼の首筋を甘く噛んだ。。熱い吐息と、浅く肌に食い込む肌の感触に、綾人の体が跳ねる。
「くすぐったいよ」
 照れ隠しのためか、微笑混じりの声で綾人が言う。トーマは口を離すと、その首筋へ犬のように鼻先を擦り付けた。まるで子犬のような振る舞いに、綾人の笑みがより深くなる。
(いつか、もっとひどく噛んであげよう)
 じゃれつきながら、トーマは内心そう思った。今度は、牙が食い込んで、血の玉が肌に出来るほど強く噛んでやりたい。そうすれば、余計なことを考える余裕なんて無くなるだろうから。
 くっつきあった肌から、汗の匂いが淡く立ち昇る。こんなにも密着しているのに、遠く離れているような気がするのは、決して思い違いではないのだろうと二人はひっそり考えていた。