銀博♂(アークナイツ)

※博がくたびれた中年の姿をしている設定です

「君か」
 目が覚めてすぐ、視界に映るシルバーアッシュの姿に、思わずそう口にしていた。
「起こしたか」
「ううん」
 どうやら、椅子に座ったまま寝ていたらしい。体の節々がこわばっている。ノートパソコンを閉じて、ブルーライト用眼鏡を外す。体にまとわりついていた疲労や倦怠感が、にわかに存在を濃くしたように思えた。
 部屋が暗い。カーテンを閉め切っているせいだ。液晶の光と、カーテンの隙間からわずかに差し込む光とで、仕事をするには支障がないくらいの明るさはあった。外から入り込む日差しが、一本の線となって床に伸びている。その光は、シルバーアッシュのつま先にもかかっていた。「仕事か?」とうす暗い部屋に立ち尽くしたまま、彼が訊ねる。
「端末の勤務表には、お前は今日非番と表示されていた」
「ちょっと、やり残したことがあって」
 アーミヤに告げ口するなよ、と付け加えた。つい最近、時間外労働について彼女に注意されたばかりだった。それが後ろめたくて、自室にパソコンを持ち込んで仕事していたのだ。額にかかった前髪をかきあげる。
「ほう。お前との交渉材料をひとつ得られたというわけか」
「おい、何言ってるんだ。普段は友達面してるくせに。こういう時だけ――」
 ビジネスに絡めようとするな、と言おうとして、けれどそれ以上は続けられなかった。不意に彼が頬に触れてきたから。なめらかな皮膚と、その下のごつごつと固い骨の感触。手の甲で確かめるように撫でる仕草が、やけに男性的な仕草に思えた。
「体温が高い」
 取り繕うように早口でそう言った。何か言わなければ、妙な空気になってしまいそうだった。
「雪国育ちだからか?」
「どうだろうな」
 彼が指の背で、目元を撫でてくる。くすぐったい。思わず手を伸ばしてしまったけれど、特別その手を引き剥がしたいとか、指を絡めたいと思っていたわけでもない。結局、中途半端な位置まで持ち上げた手をすぐに下ろした。
「……まあ、でも、筋肉量の差なんだろうな。ケルシーによく言われるよ。体温が低すぎるのもよくないって。代謝にも関係するから少しは体を鍛えるように……」
 視界に影が落ちて、口を閉ざす。シルバーアッシュの唇が、額に押し当てられていた。屈みこんだ彼が、子猫がじゃれ合うようにして顔を擦り寄せる。彼の鼻先や唇が肌をかすめた。ただそれだけで、甘やかな痺れが全身を満たすのが分かった。唇を寄せたまま、彼が囁く。
「どうした?続けてもいいぞ」
「……」
 さっき持ち上げかけた手は、今や膝の上で彼に指を絡められている。吐息が触れ合う距離にいるのだろう彼を直視できなくて、その絡め合った手に視線を落とした。
 こういう時、自分はいつもいたたまれない気持ちになる。シルバーアッシュからの好意が、自分にはひどく不相応で、与えられるべきものではないように感じるのだ。それについて、誰かに責められたことがあるわけでもないのに。
 彼の目に、どんな風にして自分の姿が映っているのか、そんなことばかり考えてしまう。自分の、乾燥した肌や、薄く皺の寄った目元や、さして美しくもないだろう顔について。
 シルバーアッシュは完璧な男だ。見惚れるような長身と、瑞々しい肌と、美しく作られた顔を目にするたびにそう思う。目も鼻も、そこにあるべくして配置されている。人の容貌に興味の薄い自分でさえそう思うのだから、他の大多数にはどれほど輝かしいものとして映っていることだろう。
 以前はこんな風には考えなかった。彼に好意を寄せられるようになってからだ。劣等感じみたものを抱くようになったのは。
「ベッドに行こう」
 こめかみに、目元に、押し当てられた唇がそう囁いた。無意識のうちに体がこわばる。それを感じ取ったのか、彼は苦笑するようにこう続けた。
「別に、お前がしたくないならしなくていい」
「じゃあ、他に何するんだ」
「お前の寝顔を眺めていようか」
「……」
 そういえばこの男は、こちらを「盟友」と呼ばなくなった。友人と呼んでいるのは自分だけだ。それに気づいて、胸がさっと冷たくなる心地がした。自分は無意識のうちに、彼を傷つけていたのではないかという不安が押し寄せる。
「一人で過ごしたいと言うなら、今すぐ部屋を出て行っても構わないが」
「……本当に?」
「お前がそれを望んでいるなら」
「……」
「この私が召使のように、顔色を窺ってお前にまとわりついては付き従っている理由が、お前に好かれたい以外にあると思うか?」
 自分は、それを聞いても尚、視線を膝の上に向けたままだった。目を合わせるのもなんだか気まずくて。だからといって、彼に応えたくないと思っていたわけではない。すぐ目の前にある彼の鎖骨から、ホワイトムスクの匂いがする。
「……ううん。いいよ。行こう、寝室に」
 手を取ったまま立ち上がる。部屋は未だ暗く、けれど立ち上がる瞬間に、カーテンの隙間から差し込んでいる光が、一瞬だけ私の顔の上を走った。
「でも、その前にシャワーを浴びなきゃ。あと、歯磨きも」
 昼頃にコーヒーを飲んで、一度も歯磨きをしてないんだ。自分は確かに彼にそう告げたはずだった。なのに、言い終わった瞬間に待ちきれないとばかりに唇を塞がれた。
 顔を何度も傾けて、むさぼるように何もかもを吞み込まれる。離れようとすると、心を読んだように後頭部を手で押さえ込まれた。痛い、と声をあげることすら許されない。ようやく解放されて、百メートル走り切った後のように息を喘がせている自分へ、彼が言う。
「シャワーは、二人一緒に浴びても構わないだろう?」
 そりゃ、構わないけれど。ぐったりと彼の胸に体を預けて、息を整えながら頷く。かまわないけど、さっきまでのしおらしい態度はなんだったんだ。
 半分もたれかかったまま、腰を抱かれてバスルームへと連れられる。酸欠になりかけた頭が、香水とは違う匂いを感じ取った。苦い、汗の入り混じった匂い。ひどく男性的なその匂いが、この男の体から立ち上るものだということに気がついて、こわいほどにぞくぞくした。腰に回された手に力が込められている。多分、今すぐにでも、服の下に触れたいと思っているんだろうな。ただそれだけは、ぼんやりと理解することができた。