ロドス艦内の廊下の隅に、エンヤとエンシアが佇んでいた。
まるでエンシアを慰めるように、身を寄せ合って二人が向かい合っている。彼女たちの服装は普段と違っていた。黒い、簡素なワンピースを身に着けている。エンシアはいつもの健康的な格好とあまりに違っていて、記憶よりずっと弱弱しく見えた。エンヤの方も似たようなもので、妹よりやや太い尻尾を収めているためか、スカートがわずかな膨らみを持っている。
この二人の妹は、こんなにも細い体躯をしていただろうか? そんな風に思いながら、エンシオディスは彼女らのそばに近寄った。兄に気がつき、二人が振り返る。どちらも涙で目を濡らし、鼻先を赤くしていた。彼は何故か今この瞬間、エンヤに罵倒されるのではないかと思った。しかしその予想を外れて、エンヤはむしろ労りに満ちた目で、エンシオディスのことを見た。労わるような、憐れんでいるような目で。
他の廊下も、似たようなものだった。うつむいた、もしくは項垂れたオペレーターたちがあちこちに立ち尽くしている。彼らの発する泣き声や呻き声が、まるで病巣のように廊下の隅々を満たしていた。その中で、ふいに聞き覚えのある声が聞こえた。記憶が正しければ、それはドクターの主治医を名乗る、フェリーンの女のものだった。
「アーミヤに監視の目をつけろ。場合によっては、入眠剤を用いても構わない。いくらか冷静になれるまで、最低二十四時間は彼女が間違いを犯さないよう気を配るんだ……」
乾いて、疲労の滲んだ声だった。ほんのわずかな風の音にさえ、掻き消えてしまいそうに思えた。
それから、いくつかの廊下を渡り、いくつかの階段を経て、いくつかの扉を開けた。霧の中を揺蕩うように、視界の四隅が輪郭を失い始める。そうして目の前に現れたのは、明かりの絞られた薄暗い部屋と、真ん中に置かれたベッド。そしてそこに横たわる、ドクターの姿だった。
ベッドはあまりに簡素だった。パイプ状の足先に移動用のホイールが着けられている。まるで医療施設にあるストレッチャーのようであった。彼の下に敷かれている布も、シーツというより薄いタオルケットに近い。ドクターの偉業を思うと、不釣り合いでしかなかった。聖者のように崇められるべき存在であるのに。
仰向けに寝かされた、白い顔がそこにあった。目を閉じている。一切の表情が抜け落ちた顔だった。喜びも悲しみもそこには浮かんでいない。顎下では、白いハンカチが力なくわだかまっている。本当なら、顔にかけられていたものだろう。どうしてかエンシオディスにはそれが分かった。
彼はしばらくの間、ドクターの寝顔を眺めていた。何かを考える余裕はなかった。頭が痺れたように重い。血色のない唇や、乾いてうすく毛羽立った頬が、理解したくないものを突きつけてくる。
不意に彼は、部屋に充満する香りの存在に気がついた。甘い、肺まで潰すようなその匂いは、あきらかに死者の体から匂うものであった。
「エンシオディス?」
彼の意識が、一気に引き戻される。夢から覚めたような心地がした。声のした方へ目を向ける。視界の中で、ドクターがこちらを見下ろしていた。寝乱れたガウンのせいで、鎖骨から胸の浅いところまでが露わになっている。気が遠くなりそうなほどに白い胸だ。
「ねえ」
もう一度、ドクターが呼びかける。エンシオディスは目を瞬かせた。彼は混乱から抜け出せていなかった。目の前には、ついさっきまで彼が見ていた寝顔と、ほぼ同じ顔がある。ただ今は、その瞳が開いていた。まだ睡魔の名残を残した目だったが。
「うなされてたよ」
「……ああ」
彼はようやく、平静を取り戻しつつあった。今ここはカランドの屋敷の中で、ドクターは客人として泊まり込んでいる。いま体の下にあるのは簡素な寝台ではなく、ここは遺体安置室でもない。なにより目の前の彼は、まだ生きている。たったそれだけの事実が、カランドの主をひどく安堵させた。手のひらで顔を拭う。汗でじっとりと湿っていた。額に張り付いた前髪の感触が、不快でたまらなかった。
彼はふと、こちらに注がれる視線の存在に気がついた。ドクターが、あの大きな目で未だに彼をじっと見つめている。まつ毛の長い、黒目がちな瞳。
「おもしろいか?」
シルバーアッシュは、自嘲めいた笑みを浮かべてそう訊ねた。今の自分は、ずいぶん滑稽な男としてこの目に映っているのかもしれない。彼はそう思った。普段、彼に見合う男でいようと、弱みを見せないよう意図的に振る舞っていたその落差が、今の自分を憐れで滑稽な存在に見せているだろうと。しかしドクターは、人形めいた奇妙な仕草で、ゆっくりと首を傾げた後にこう言った。
「ヘトヘトになっててもハンサムなんだね、君」
「…………」
エンシオディスは思わず口を閉ざした。
「ハンサムじゃなくて、セクシーって言った方が良かった?」
「いや……」
呆れているのか、それとも愉快だと思っているのか、自分でも分からないままエンシオディスはドクターを抱き寄せた。
薄い体をベッドの中に引き戻す。大人しく腕に収まったドクターは、分厚い胸に頬を押しつけて、頭をもたれかけた。贅肉の少ない体の中で、そこだけ肉のついた頬がスライムのように形を変える。
薄闇の中でも爛々と光る目は、いまだにエンシオディスをじっと見つめている。そこに人間めいた好奇の色は見られない。子犬か子猫を懐に招き入れたような気分だった。
「ねえ、どんな夢を見たか、当ててあげようか」
「カウンセリングの真似事でもするつもりか?」
「私が君以外の男と結婚した夢だろう?どうせ」
エンシオディスがそれに返事をするまで、わずかな間があった。ドクターが不思議そうに言葉を続ける。
「なんだ、違うのか?」
「なぜ男なんだ」
「だって、同性である方が君のプライドが傷つくだろう? 華奢で愛らしくて健気な女性が私の結婚相手なら、君はあっさり引き下がるんじゃないか?」
乾いた笑いが口から漏れるのを、エンシオディスは感じた。
「相手が男でも女でも――」
掠れた声が、シーツの上をすべる。
「お前が他人の物になるのを、許せないほど狭量な男じゃない。もっと悪いことがこの世には起こり得ると学んだからな」
「ふうん。心が広いんだね」
明らかにそうとは思っていない声でドクターが言う。エンシオディスが毛布の端を胸まで引き寄せた。ドクターの頭に、ふわりとそれが被さる。さっき以上に、子猫めいた姿になった。気まぐれから飼い主のベッドに潜り込んだ子猫のようだった。ドクターが小さくあくびをして、全身の力を抜く。
「寝る」
「ああ」
ただそれだけ言って、二人はほとんど同時に目を閉じた。先にドクターの寝息が聞こえ始める。エンシオディスは目を開けた。自身の胸元にもたれかかった寝顔の、白いまぶたや、小ぶりな唇をじっと見下ろした。小さな体が、呼吸に合わせてゆるやかに上下している。しばらくして、エンシオディスも目を閉じる。二人分の寝息が、薄暗い寝室を満たし始めた。