ケルシーという存在は、いついかなる時、どんな場所に立っていても「所在なさげにしている」ことがない。何かしらの使命、もしくは責務があって彼女はここにいるのだと、感じさせる佇まいをしている。そしてそれは、枕から飛び散った綿が切れ切れに転がっている室内においてもそうだった。
中綿のはみ出た枕は、ベッドの隅に寄せられている。裂け目のついた枕カバー。そしてぐしゃぐしゃに乱れたシーツには、赤い血痕が点々とついている。量は多くない。それでも、殺風景な部屋の中で、さっきまでの惨状を生々しく表しているようだった。
ケルシーは腕時計を一瞥し、平時と全く変わらない表情で「説明してもらおうか」と言った。くたびれた子供のようにして、ベッドに座り込んでいるドクターに対して。
「私がシルバーアッシュに暴力を振るったんだ」
資料を読み上げるように、無感情な声で彼が答える。ドクターもまた、普段とそう変わらない表情をしていた。ぼんやりとした視線。もしクラゲに顔があるとしたら、こんな表情をしているのだろう。薄い体を包むパジャマは前開きのボタンがいくつか外れていたが、室内の荒れ方に比べれば些細な違いだった。
「君が人に手をあげるのは珍しいな。この私でさえ、初めて目にする光景かもしれない」
「先に手をあげたのは私だけど、私の意思を尊重しない言動をしたのは彼の方だ」
ドクターはここで、思い出したように椅子を勧めたが、ケルシーはそれを断った。彼女はそのまま問診めいた口調で尋ねる。
「いきさつを聞かせてもらおう」
「喧嘩だよ。どこにでもよくあるような」
「それでも私は経緯を聞かねばならない。私の管轄内である医療部の実習生がこの件に手を貸したのだから」
医療部の実習生。それはロドスに配属されて間もない、ハニーベリーという名の少女のことだ。彼女は自室に持ち帰った復習用の資料のうち、ドクターが書いた実験用のメモが紛れ込んでいることに気がついた。今は夜の十一時台で、訪ねるには非常識な時間帯だろうと彼女は理解していた。けれどもしかしたら、このメモを探している最中かもしれない。そんな思いでドクターの私室を訪ね、そっと室内に足を踏み入れた彼女が見たものは、顔を引っ掻かれて流血沙汰になっているシルバーアッシュと、それに馬乗りになっているドクターだった。
「――今日の昼前に、ちょっとした言い合いになったんだ。彼が少し意地の悪い皮肉を言って、私がそれに腹を立てて……でもまあ、そこまではよくあることだったんだ」
「ああ」
「それで彼と口をきかないまま夜になって、彼がついさっき訪ねてきた」
「仲直りをしに?」
ドクターは肩をすくめた。彼にしては珍しい仕草だった。もしかしたら、この騒動(と言うには小規模であるが)を内心面白がっているのかもしれない。ケルシーに事情聴取されている今この状況も含めて。
「さあ」
「他にするべきこともないだろう」
「知らないよ。話を戻すけど、あの男は挨拶もしないでベッドのすぐそばまで来て、断りもなくもぐりこんでこようとした」
「マナーがなっていないな」
「そう。だからそういう気分じゃないって足で押し返したら、ただ添い寝をしにきただけだって言って。その後は――まあ、一字一句君に教えなくてもいいだろう?」
「ああ」
「少し会話をした後に、私が彼に手をあげたんだ」
「どのようにして?」
「ベッドに横になってる彼の顔に、枕を押しつけたんだ。それでその上から、枕ごと足で顔を踏んづけた」
「あちこちに綿が転がっているのはそのせいか?」
「うん。それで何度かすったもんだして、でも足じゃうまくバランスがとれなかったから、今度は両手で顔を引っ掻くことにした。彼に馬乗りになって」
「ハニーベリーの報告と一致しているな」
「そうだね。それで、そんなに長い間してたつもりはないんだけど、いつの間にか彼女が部屋に来ていた」
「大体のことは分かった」
そこまで言って、ケルシーはいま一度部屋を見渡した。そして最後に、ドクターの両手に視線を留めた。普段清潔に保たれている彼の両手の爪は、赤黒いものがわずかに詰まっていた。おそらく、シルバーアッシュの顔を引っ掻いた時に入り込んだ、彼の血と皮膚片なのだろう。ドクターも自身の両手に目を落とした。一瞬の間の後に、その爪を、そおっと舌で舐めとった。
「君に言うべきこととしては、」
ケルシーが言う。ドクターの視線が自身の手元から彼女へと移った。
「まず一つ、枕で相手の口や鼻を塞ぐことはこれ以降控えること。布製品全般でもそうだ。窒息のリスクを伴う」
「うん」
「次に、たとえ痴情のもつれがあったとしても、暴力をふるうのはやめるべきだと言いたいが、これは君自身、日頃から念頭に置いていることだと信じたい。たまたま今回が例外だったというだけで」
「うん」
ケルシーは再度、腕時計を確認した。「行くぞ」とドクターに背を向けながら言う。
「そろそろ彼の手当てが終わっている頃だろう。君は私と共に彼を迎えに行くべきだ。仲裁に入り、君の恋人をわざわざ医療部まで連れて行ったハニーベリーへ感謝の意を示したいのであれば」
ドクターは不承不承といった風に頷いて、ケルシーの後をついていった。歩きながら、パジャマのボタンをかけ直す。深夜ということもあって、すれ違うオペレーターはいない。もしいたとしても、前を行くケルシーと、その後ろを歩く寝間着姿のドクターとを見て、静観するに努めるだろう。
「彼女の言葉によると」
ケルシーが振り返らないまま口を開く。
「彼は君のふるう暴力に対し、防御はしても反撃はしなかったらしい。もしそれが事実であるとするなら、君は今後も覚えておくべきだ」
「でも」
ドクターがむくれた子供のような声で言う。
「あの男、踏まれてる間も引っ掻かれてる間も、なんだか嬉しそうにしていたよ」
「……」
ケルシーは何も言わなかった。節電のために、必要最低限まで明るさを絞った廊下を二人は行く。その中で、灯りの漏れ出ている一室があった。そこが医療室であることを理解しているドクターは、いったいどんな顔をして戸をくぐるべきか、あと数歩分のうちに考えなければならないと無意識のうちにそう思った。