初めてドクターの素肌に触れた日のことを、シルバーアッシュはよく覚えている。
細い腕だった。「いま龍門は暑いから、そのせいで肘の内側を搔きこわしちゃって」と彼は言った。そこに汗が溜まるんだと言いながら、手袋を外し、防護服の袖をめくりあげた。おそらくその、搔きむしった肘を見せようとしたのだろう。しかしその細い手首を見ただけで、シルバーアッシュはひどく胸を焼かれていくような心地がした。その腕は生白く、目を凝らさないと分からないほどに皮膚に生え揃ったうぶ毛が、奇妙に生々しく見えた。
結局、その肘を見ることは叶わなかった。袖をまくり終える前に、ほとんど無意識にシルバーアッシュが手首を掴んだせいだ。確かにその肌は、うっすらと汗ばんでいるようだった。なめらかな、触れれば溶け出していきそうな質感の腕は、けれどもシルバーアッシュの手の中にきちんと収まっていた。
目を覚ます。暗い天井が、まず彼の目に飛び込んできた。シルバーアッシュはその次に、体の下にあるシーツとマットレスの存在を知覚した。さっきまで目の前にあったはずのあの腕が、夢の中の産物であることに彼はしばらく気づけなかった。その過去自体は、確かに現実のものであったが。
彼は手を伸ばして、シーツを乱雑にかき分けた。意識はまだ覚醒しきっていなかったが、隣にドクターが寝ていたことを体の方はちゃんと覚えていたのだ。けれど、目当ての存在は見当たらない。ベッドの上にはいないことを確認して、シルバーアッシュはうめき声をあげながら上体を起こした。室内を見渡すうちに、その手がかりはすぐに見つかった。
たまご色をした、一本の直線。うすく開いた扉の隙間、廊下から寝室の中へとまっすぐに伸びている。明かりの無い部屋の中で、それは奇妙な「おかしさ」をもってシルバーアッシュの目に映った。なにか微笑ましいものであるかのように。
音を立てないようベッドを下りた彼は、扉の向こう、リビングへと向かった。この真夜中に、シルバーアッシュが寝ている隙を見計らって、ドクターが何かしらの不貞や悪事に手を染めている可能性など、少しも思いつかなかった。遊び疲れた子犬を迎えに行くような心地で、ドクターを迎えに行った。
ドクターはソファーの上で眠っていた。明かりをつけっぱなしのリビングで。くしゃくしゃに丸められた紙くずみたいに身を縮こませながら。そして不思議なことに、中途半端に開封したチョコチップクッキーの箱を抱きかかえていた。両手で、大事な物みたいに。
「……」
シルバーアッシュは、目の前の光景が夢の中のものではないことを何度も確認してから、ドクターの肩を揺さぶった。
「■■――」
「ぅ」
名前を呼びかけながら何度も揺さぶって、ようやくドクターは目を覚ました。むずがる赤子のように顔をしかめて、うっすらと目を開ける。淡い色をした両目がシルバーアッシュを捉える。彼の目に特別何かしらの感情が浮かぶことはなかった。
その次に、バターの匂いを感じ取ったのか、彼の視線がクッキーの箱に注がれるとその目が急に輝き出した。寝起き特有のおぼつかない手つきで、箱に手を入れクッキーを取り出そうとする。
「ドクター」
「おぁよう」
「午前三時は、おはようじゃない」
ドクターがついに引っ張り出したクッキーを口に頬張ったとき、シルバーアッシュは「ああ」と力尽きたような声をあげた。食べるのを阻止できていたら、歯磨きをやり直さなくて済んだのに。小さな頬が膨らんでは、ざくざくと音を立ててクッキーを咀嚼する。驚くことに、ドクターはまだ半分ねぼけたままでクッキーを食べているらしい。
「ベッドに行くぞ」
シルバーアッシュがなだめるようにそう言っても、ドクターはいやいやするだけだった。
奇妙に思うかもしれないが、こんな時であっても彼はドクターの白い腕に見惚れそうになった。簡素なスウェットから突き出ている、白く、美しい、あの頃と何も変わっていない腕。今はチョコチップクッキーの箱を大事そうに抱えている。
この腕が――腕だけでなくこのドクターという男が、自分のものになった事実を、シルバーアッシュは今でも信じられないような気がした。ただの口約束ではなく、法律上で彼らは伴侶であるのだ。それは恐ろしいことに思えた。まるでストッパーが外されてしまったような気分だった。特にこの腕を前にしていると。彼は自分のことを、口枷を外された猛犬であるように時々錯覚する。
それから何度か声をかけると、ドクターはクッキーを貪るのをやめて、促されるままに大人しく歯を磨いた。しかし口をゆすぎ終わる頃にはほとんど眠っており、シルバーアッシュが横抱きにして寝室に連れていく羽目になったが。
数時間後、シルバーアッシュはまた目を覚ました。朝陽が、ブラインドの隙間から降り注いでいる。今度こそ、いつも通りの起床時間だった。隣にドクターの姿はない。これはいつものことだった。眠りの浅い彼は、シルバーアッシュより早くに目を覚まし、支度もおざなりに仕事に取り掛かるのが常だった。その「早起き」が午前四時や五時であることも珍しくないことが、ドクターの健康を心配する使用人一同の悩みの種でもある。
リビングへ向かいながら、彼は昨晩の(というより、数時間前の)ことが、夢の中の出来事であったように思えていた。ドクターのあの寝顔や、ふくふくと動く頬、クッキーの箱に手で蓋をしてやめるよう諭した記憶はきちんと鮮明にあったのだが、現実感が奇妙に欠けていた。しかしそれが現実のことでも夢のことであっても、二人の生活に何ら影響はない。もし今日のうちにドクターと顔を合わせても、昨晩のことを問いただしはしないだろう、と彼は考えていた。テーブルの上に置かれたものを見るまでは。
日差しで満たされたリビングの中、テーブルの上に、ぽつんと取り残されたものがある。それは、一枚のチョコチップクッキーだった。全体をラップでくるまれて。その表面に、黒マジックでこう書かれている。
「君の分」
その文字の上部にあるわずかなスペースに、点ふたつと横棒一本で描かれた、にっこりマークまであった。あまりにもその隙間が狭すぎて、やや居心地悪そうな笑顔ではあったが。シルバーアッシュは、そのクッキーを指でつまんでかざしてみた。にっこりマークが、奇妙に堂々と彼を見下ろしている。
妹ふたりと会った際に、話の種になることができたな、と彼は思った。ようやく伴侶になれた自分たちの仲や、結婚生活の是非について気にしているらしいあの妹たち。もし彼女らが、ちゃんと仲良くやれているのか、と心配した時に言ってやろうと思った。結婚生活とは、突然チョコチップクッキーが一枚、食卓に置かれているような生活を指すのであると。