夜の中で光が伸びる

 今日、合コンに行ってきてもいいですか、と彼からお伺いが来たのはちょうど昼休憩の時だった。
 電話越しの彼の声は、さりさりという砂嵐のような音が混じっている。スマホのマイク部分に、彼の髪がこすれているのかもしれない。電話の向こうからはそれ以外の喧騒も聞こえてくる。そのせいでついこんな風に聞きたくなってしまうのだ。いま大学にいるの?そこは食堂?それとも購買?近くに女の子はいる?
「急に誘われたんです。男子の数が足りないからって」
 今夜中には帰りますから、とか本当に男がいなくて困ってるらしくて、と続ける声は笑ってしまいそうなくらい申し訳なさそうで、思わず微笑ましい気持ちになった。
「いいよ。行っておいで」
 できるだけ、優しい声を作ってそう言ってあげた。電話の向こうで彼はあからさまにほっとして、けれどすぐに気を引き締めるみたいに「絶対に帰ってきますから」と念押しされた。これじゃあまるで、私がこわい奥さんみたいじゃないか。そう思ったけれど、声に出さないくらいの気遣いはさすがの私にもあった。

 夕飯は弁当か何か買って済ませるよと彼に言った。けれど実際は、コンビニでポテトチップスとミネラルウォーターを買っただけだ。レジの女の子が、会計をしながら話しかけてきた。
「おいしいですよね、これ」
 私もよく食べるんです、とはにかみながら言う。まだ高校生か大学に入りたてくらいの若い子だった。無意識のうちに微笑み返す。これはおかしなことかもしれないが、彼の不在を彼女に慰められているような気がした。もちろん昼間のやり取りを彼女が知っているはずもないのだが。
「じゃあ、次もまた買ってみようかな」
 その言葉に社交辞令は含まれていなかったと思う。少なくとも、そのつもりで返事をしたはずだった。

 帰宅して、スーツを脱いでハンガーにかける。部屋着に着替えようとして、クローゼットを開けた手が止まった。引き出しの中の、トーマの手できれいに畳まれて、丁寧にしまい込まれた衣服たち。彼が不在の今、それが何故か変によそよそしく感じられた。クローゼットの中で息をひそめ、こちらの様子をじっと観察しているかのように。
 クローゼットを閉じて、脱衣所に向かう。洗濯かごの中をかき回し、黒い上下のスウェットを取り出した。トーマが昨日着ていたもの。おそらく今日か明日には洗濯しようと思っていたのだろう。それを頭からすっぽりと被り、身に着けた。静電気で髪がふわふわと跳ねる。それを手櫛で整えてくれる子は今ここに居ない。彼のスウェットは、まるで彼の腕の中にいるように肌になじむ。長く着古しているせいか、襟のあたりが少し伸びている。襟をつまんで鼻先を埋めると、トーマの肌の匂いがした。
 ポテチは寝室で食べた。どうせ食器は使わないし今日は一人なのだから。ベッドに座り込み、壁に背を預けて、テレビを見ながら食べる。よくよく考えたら、寝室のテレビを点けるのは久しぶりかもしれない。トーマと二人で寝室にいると、お互いのことで頭がいっぱいになってしまうから、テレビを見る余裕など無いのだ。
 数年ぶりに食べたポテチは、記憶よりもずっと味が濃かった。塩辛さで口の中が渇く。普段はトーマが用意する食事ばかり食べているので、ひどく新鮮に感じられた。合間にミネラルウォーターを口にする。指が汚れるので何度も舌で舐めとった。何か、ひどく馬鹿馬鹿しいことをしているような気持になってきた。トーマがいないからといって、当てつけのようにこういう食事をしている自分が、むなしいと思う。
(犬でも飼おうかな)
 こういう時の悪い癖として、そんなことを考えてしまった。どんな犬でも構わない。大きい犬の方がいいけれど、都心のマンションで買うのは非現実的だろう。明るくて素直で、従順な犬。こういう時、何も言わずとも構ってくれるような子だ。塩辛くなった指を舐め取ってくれるような。
 もし飼うなら、ここはペット可のマンションじゃないから引越さなきゃならないだろう。その際に、トーマを追い出してしまおうか。「今日からこの子と一緒に暮らすから、トーマには出て行ってもらうね」なんて言って。
 彼は追いすがってくれるだろうか。傷ついた顔をして「オレのこと、嫌いになりましたか」と言ってくれたら嬉しいけれど、案外あっさり引き下がるのかもしれない。いつかこうなると思ってましたって顔をして。
 馬鹿馬鹿しい。犬は身の回りの世話なんて焼いてくれない。トーマみたいに、キスもセックスもしてくれないのに。
 テレビでは、夕方のニュースが放送されている。内容は全く頭に入ってこない。けれど、色の洪水みたいで画面がきれいだと思う。
 気が付くと、部屋の中はずいぶん暗くなっていた。水槽の中にいるかのように、青く薄暗くなっている。
 空になったポテチの袋を結んでテーブルの上に放置した。思った以上にお腹が満たされて苦しい。油と塩と、水でたぷたぷになった胃袋。ゆっくりと、目の奥へ睡魔が下りてきているのが分かる。寝る前に一度抜いてしまおうか、とぼんやり考えているうちに、うつらうつらと舟をこぎ始めていた。

 目を覚ました時、まず目にしたのはこちらを覗き込むトーマの姿だった。夢から覚めたのだと気づくのに1秒、目の前の彼が幻覚でないことを確信するのにもう1秒かかった。
「トーマ?」
 そう声をかけると、彼はようやく安心したように笑み崩れた。彼のこういう顔が好きだったなとどこか場違いにも考える。彼の背後に見える蛍光灯が、煌々と白い。
「早かったね」
「もう一時ですよ」
「いちじ?」
「はい。夜の一時です」
 信じがたい言葉だったが、カーテンを開け放した窓から見えるのは絵具で塗りつぶしたように真っ黒な空だ。時間を確認しようとスマホを開いた瞬間、ロック画面の惨状に目を見張る。
「……」
 びっしりと、画面を埋め尽くすほどの通知の数。視界の端でトーマが気まずそうに眼をそらしたのが見えた。
『もうちょっとで終わります』
『すみません。女の子ひとり送っていきます。タクシーで』
『家に届けたらすぐ帰ります』
 ほとんどが一時間から30分間隔で送られている。けれど、最後の一通だけは、直前のメッセージの2分後に送られてきていた。
『いま帰ります。一時には着きます』
『ごめんなさい』
 まさか、怒って未読無視していたとでも思っていたのだろうか。たかが合コンごときで。ついさっきまでトーマを追い出そうかと考えていたのを棚に上げてそう思った。
「……怒ってないよ」
「そうみたいですね」
 ポテチ食べてるし、とテーブルに放置していた袋をゴミ箱に捨てながら彼が言う。そして、感情の読み取れない顔でこちらをじっと見つめながらこう付け加えた。
「なぜかオレのスウェット着てるし……」
 私は無言で自分の恰好を見下ろした。襟がくたくたになった、トーマの部屋着のスウェット。
「洗濯物を増やしたくなくてね」
 奇妙な間が一瞬できたが、冷静に答えられたと思う。
「そんなの気にしなくていいんですよ」
 どことなく、疲れたような、眠そうな顔をしてトーマが言う。まあ、疲れはするだろう。合コンに行って女の子を家に送って、帰宅しても気難しい恋人のご機嫌取りに振り回されているだから。
「汗臭いでしょう、ほら」
「おや、けだものだね」
「なに言ってるんですか」
 服を脱がそうと伸ばされた彼の手を、身をよじって避ける。彼がくしゃりと笑って、ようやくいつもの空気が戻ってきたかのように思えた。
「女の子は、ちゃんと家に帰せたかい?」
「あ、まあ、はい」
 妙にまごつきながら答える。それから意を決したみたいに「でも、ちょっと大変でした」と彼は言った。
「どうして」
「住所を聞いて、アパートまで来たのはいいんですけど、部屋の前まで来た途端、帰らないでって言い始めて」
「へええ」
「家に上がってくれないなら朝までここに居るって言われて、置いて帰るわけにもいかないし、その子の鞄とかポッケを勝手に漁って鍵を探すわけにもいかないしで困って……」
「それで遅くなったってわけだ」
 トーマは困ったように笑うだけだ。その女の子をあまり悪く言いたくないのだろう。
「で、どうやって帰ってこれたんだい」
 大方、彼の男友達をその場に呼び出して取りなしてもらったのだろう。そう予想をつけたのだが、トーマはより一層、気まずそうな笑みを浮かべて、内緒話のように声を潜めた。
「……それなんですけど」
「うん」
「その、多分なんですけど……その子、どうやら催しちゃったみたいで……」
 ほんの一瞬だけ、無言のまま彼と見つめ合った。そして同じタイミングで、微笑ともいえぬ笑みを浮かべたと思う。しょうがないね、という風に。
 私はその女の子に対して、もはや微笑ましいとさえ思っていた。もう夏を迎えようという時期ではあるが、夜の空気は未だ肌寒い。そんな中で奇麗な男の子を前に駄々をこねて、結局は尿意を理由に諦めざるを得なかった彼女の心情を想像すると、同情さえしてしまう。
 おそらくその子は、何か計算があって彼を引き留めたわけじゃないのだろう。ただ、かっこよくて優しい男の子に送ってもらえて、もしかしたら一線を越えるかもしれないと夢見がちな期待をしていただけなのだ。そこまで考えて、くすくす笑いと一緒にこんな言葉が自然と口を出た。皮肉でも冗談でもない、本心からの言葉として。
「セックスくらい、させてあげたら良かったのに」
「いやですよ!そんな……」
 彼がぎょっと目を剥いてそう叫んだ。そのすぐ直後に、流石に言いすぎたかとまごついてみせる。彼はどこまでいっても善良な男だ。私は愉快で仕方なかった。こんなに楽しい気持ちになれたことが久しぶりのように思えた。
「今度は私も合コンに行こうかな。君と一緒に」
「……綾人さんが?」
 不審そうに彼が聞く。また何か悪いことを思いついたな、という顔だ。可愛い恋人にそんな顔をされて、私が傷ついたらどう責任を取るつもりだろう。彼のためを思って、素晴らしいアイデアを出そうとしている所なのに。
「そうしたら、合コンの間中、君とイチャイチャできるじゃないか」
 君は私を怒らせてないか不安になる必要はないし、君の虫よけにもなる。そう自信満々に付け加えた。彼はしばらくの間、呆然としたようにこちらを見ていたけど、恐る恐るという風に「あの、綾人さん」と口を開いた。
「うん?」
「合コンって、もうデキてる二人がイチャイチャするためのものじゃないんですよ」
「知ってるよ」
 さすがの私もそこまで世間知らずじゃない。でも、さっきの提案は冗談ではなく本気だった。だって、想像してみてほしい。トーマの隣に私が陣取って、あれもこれも全部トーマにやってもらっているのを。唐揚げもサラダも全部彼にとってもらうし、グラスが空いたら彼に注文してもらう。座敷だったら、テーブルの下で彼の太ももをくすぐってみるかもしれない。トーマとしかお喋りしないし、もし彼以外の人に話しかけられたら、彼の顔を一度窺ってから返事をする。きっとその場で一番のお邪魔虫になるだろうし、女の子たちの共通の敵になるだろう。考えるだけでこんなにも楽しくなるのだから、実現したらどれだけ愉快なことになるだろうか。
 そんな風に考えていると、トーマがふっと身を寄せた。そして、優しい手つきで髪をなでる。さみしがりな子供をあやすように。穏やかな視線が、風のように頬を撫でる。
「いいですよ。そうしましょう」
「うん」
「でも、ひとつだけ約束してください」
「なにかな」
「女の子とは絶対に口をきかないでくださいね」
 私は笑ってしまった。なんだ、嫉妬深いのは彼も同じだ。馬鹿馬鹿しいくらいに凪いだ心でそう考える。これで心置きなく、女の子達の前でイチャイチャできるじゃないかと思った。

 どうしてこんなことをしてしまったんだろう。一向に既読が付かないトーク画面を見つめてそう後悔した。
 真っ暗な住宅地の中で、それぞれの家から溢れている橙色の灯りが、タクシーのスピードに合わせて尾を引きながら残像になる。視界の端に映るそれらが、奇妙なくらい目障りに思えた。
 外の景色だけじゃない。車内に充満しているタクシー特有の匂いも、やけに無口になった運転手のこちらを窺うような気配も。ついさっき、合コンで同席した女の子を送っている時はずいぶん口数が多かったくせに。
 「君にも社交は必要だからね」と彼は電話口でそう言っていた。穏やかな口調だった。だから余計に「許された」と錯覚したのかもしれない。あの時の自分はびっくりするくらい馬鹿だった。だって、もし立場が逆だったならどう思うだろう?オレは想像する。「同僚の付き合いで婚活パーティに行くことになったから」と報告してくるあの人の姿を。
 馬鹿みたいだ。そんなの行かせたくないに決まってる。ただの付き添いだよ、とか勿論本気で参加しないから、と言われたって嫌なものは嫌だ。だって、あの人が内心どう思っていようとも、その場にいる人たちはどうやったって「そういう目」で彼を見るだろう。あの人の口元や、白くて長い指や、おくれ毛の絡む首筋をどんな気持ちで見定めるのか。そんな風に想像するだけで、叫びだしたくなる。
 もし「行かないでください」と縋っても引き止められなかったら、彼に手を出してしまうかもしれない。いや、蹴ったり殴ったりなんかはできないだろう。でも、もっと間接的な行為でなら、暴力的な振る舞いをしてしまうだろうか。彼の目の前で、ガラスのコップを床に叩きつけるとか。
 ため息をついて背もたれに全身を預ける。あと三十分もしないうちに、午前一時を迎えるだろう。落ち着かないときの癖で、首から下げたドッグタグを手でもてあそぶ。犬が好きだとあの人が言ったのを聞いて、これを身に着けるようになった。でも、言及されたことは一度もない。気づいていないふりを、しているのだろうか。
「あとどれくらいで着きますか」
 できるだけにこやかな声を作って、ドライバーにそう尋ねた。

「…………」
 ようやくマンションに到着して、まず目にした彼の姿は予想外のものだった。
 電気の点いていない寝室は、つけっぱなしのテレビの光によって部屋の一部だけが煌々と照らされている。その光で濃い陰影をつけたシーツの上に、胎児のように背を丸めて眠る彼がいた。
「あの、綾人さん……」
 拗ねているのか、と最初は勘違いした。こちらに背を向けていたから。おそるおそる声をかけたのとほぼ同時に、本当に熟睡しているのだと気が付いた。力なく横たわった体が、寝息に合わせて浅く上下している。
 部屋の暗さに慣れた目が、こまごまとした情報を拾い上げる。テーブルの上に放置された、ポテトチップスらしき袋。ミネラルウォーターのペットボトル。それと、何故かオレの部屋着を着ている彼。
「オレのですよね、それ……」
 聞こえてないと知りつつも思わず疑問が口をついて出る。襟がくたくたになった、ドンキで1290円のスウェット。それを身につけている彼は、いつもよりずっと幼く見える。表情の抜け落ちた寝顔のせいもあるのかもしれない。幸せな夢を見ているような、あどけない顔をして眠っている。
「…………」
 至近距離でその寝顔を覗き込んでいると、なぜか妙な気分になってくる。お粗末な素材のスウェットは、彼の肌をよりいっそう瑞々しく見せているかのようだ。触れただけでとろけそうな、バニラの匂いがしそうな肌。
 じっと見つめていると、淡く閉じられた唇から、舌先がそろりと現れた。そして、口周りをちゅるりと舐め取って口の中にまた戻っていく。ピンク色の舌先をひらめかせて。
 ポテチの塩気が、まだ付いてるのかな。疲れのせいか、ぼんやりとした頭でそう考える。いや、本当は、もっと別のことを考えていた。そんなことを想起した自分が恥ずかしくて、別のことをわざとらしく考えようとした。彼の舌先が目の前から消えても尚、本能的な、ひどくいかがわしい妄想が脳内にこびりついている。
 今日の自分は、世界で一番馬鹿な男なんだろうな。恋人を傷つけるようなことをしておいて、勝手に嫌われたと思い込んで勝手に苛ついて、それでいて家に帰って恋人を前にしたらまず、いやらしいことを考えている男。
 のろのろとした動きで、部屋の明かりを今更になって付ける。視界の端で、彼がむずがるように手足を縮こませた。きっと、すぐに目を覚ますだろう。その間、彼の寝顔を眺めながら釈明文を考えておこうか。目が覚めて最初に目にするものが、ばかな恋人の顔だっていうのは少し申し訳ないけれど。