エンジェルズシェア

※二人がモンドへ旅行に来ている設定です

「いやあ、まさかあの坊やがねえ……あんないい男になるんだもんなあ。俺よりでかい背丈だったじゃないか」
「ずっとおふくろさんに仕送りしてたんだ。俺はいつか戻ってくると思ってたよ」
「おい待て。きれいな嫁さんを連れてきたって聞いたぞ!孝行息子じゃないか、羨ましいな。俺の倅なんて……」
 ようやく日が暮れ始めただろう時間、エンジェルズシェアは気の早い酒呑み達によって小さな賑わいを見せていた。話題が移り変わる中、次に酒のアテとなったのは「稲妻から帰ってきた一人息子」の噂だった。
 最近まで出稼ぎか何かで稲妻に居たどこぞの息子さんが、数日前にモンドへ帰ってきたのだと言う。確証の無い妄想や、明らかに誤解だと思われる情報まで加わりながら、酔っ払い達の好奇心はヒートアップしていった。
 そして、そんなテーブル席の喧騒とは反対に、カウンター席は静まり返っていた。この店のカウンターは、入り口付近に鎮座している。客は端の方に一人座っているだけだ。テーブル席もまだ満席になっていないので、特におかしくはないだろう。ホールを忙しなく行き来している店員とは別に、もう一人従業員らしき男がカウンターの中に立っていた。
 赤毛の、匂い立つような色香の男だった。この男を前にしたら、どんなに酩酊していても一瞬で目が覚めるだろう美形だった。黒目がちの大きな瞳が、どこかアンバランスな色気を形作っている。
 そのバーテンダーが、酔っ払い達をちらと横目で見遣った後に「少し、黙らせてこようか」と客に聞いた。
「いえ、酒場とはこういうものですから。気にしていませんよ」
 客の男は顔を上げてそう返した。この客も、同じくらい美しい顔をしていた。頬に垂れた髪の隙間から、ぞくりとするほどに白い横顔が覗いている。簡素な服を身につけていて、格好だけ見ればどこにでもいるモンドの労働者のようだろう。しかしそうとは思わせないものが、彼の全身から滲み出ている。カウンターの上でゆるく組み合わされた両手の指や、ほつれ毛の絡む細い首筋まで、モンドの空気とは程遠いものをまとわせている。暖かく乾いた風の似合わない、艶やかな印象の男だった。
 バーテンダーは酒のおかわりを作りながら「彼とは待ち合わせかい」と聞いた。
「おや、もう顔を覚えられたんですね」
 客は少し驚いたようだ。なにしろ、彼はこの店に片手で数えられる回数しかまだ来ていない。
「これでも客商売だからね。そこらの騎士団よりは人の顔を覚えているつもりだ」
「でも、あなたはオーナーですから、ここに立つ機会は他の店員より少ない方だと聞きましたよ」
「口の軽い客が居たんだな」
「いえ、店員の一人が」
「尚のこと悪い」
 普段の二人を思えば、不思議なほど饒舌だった。特に赤毛のバーテンダーの方が。酒場という場所と空気が、二人にそうさせたのかもしれない。ここで酒を酌み交わしたとしても、これからさき人生が交わることのない相手だ。だからこそ、内に秘めていたものが溢れ出すのだろう。
「……喧嘩をしてしまいました」
ほんの少しの沈黙の後に、客の男が俯きながら小さく笑った。先ほどバーテンダーが言及した、連れの男のことを言っているのだ。
「君を置いて故郷に戻ると言って、彼の家を飛び出したんです」
「意外だな。君たちは随分仲が良さそうに見えた」
「……モンドはいい国ですね」
 酒を飲んでいるというのに、渇いた声で客が言う。
「明るくて親切な人ばかりです。彼と歩いていると、お似合いのカップルだと何度も言われました。良い気分でした。彼との仲を見せつけているみたいで」
でも、と客が続ける。カウンターの上で、白い指が組み直される。焦燥を表すかのように。
「数日経ったら、それがむしろ嫌に思えてきました。逆に、彼がこの土地の人であることを見せつけられているような気がしてきたんです。彼のことを覚えている人たちも、すぐに順応する彼も……」
「本当に、彼を置いて帰るつもりかい」
 こんなに警戒心もなくすらすらと言葉が出てくるのは、このバーテンダーのせいではないか、と客は思った。この男の声は、いかにも男性的な低さを持っているのに、どこか慈しむような響きを持っている。娘に語りかける父親のようだ。自分が小さな女の子になったような気分だった。
「ふふ……いっそのこと、彼も故郷も忘れて、ここで一人暮らしをするのも良さそうですね。皿洗いの仕事でも何でもして……ねえ、私でも自活できそうな仕事はモンドにありますか」
 うちのワイナリーで働けばいい、とバーテンダーは本気で口にしそうになった。それを寸前で飲み込む。このタイプは、あまり懐を見せると途端に警戒しだす性格だろう。それに、本気で言っているわけではなさそうだった。胸の痛みを誤魔化すために、意味のないお喋りに興じているのだろう、と。
「気が向いた時だけ酒場を回って、詩を歌うだけで生活できている吟遊詩人もいる」
「歌には自信がないです」
 そんなにきれいな声をしているのに?とは言わなかった。彼は一滴もアルコールを口にしていない。口説き文句を口にしても、酔っていることを理由にはできないのだ。
「仕事ならモンドにいくらでもある。給仕はどうだい」
「給仕?」
 眉を寄せて、困ったように客が笑う。
「お気に召さなかったかな」
「そういうのは、私より若くて溌剌とした人じゃないと勤まらないと思います」
「客の中には、品のある給仕を好む者もいる。そういう人たちは、大抵上客になるし、チップも弾んでくれるだろう」
「それで、私に適任だと?」
「少なくとも、僕よりは愛嬌がある」
「それはどうも」
 さざめきのように、ひそやかな笑い声がその場に落ちた。酒場の隅で、二輪の花が咲こうとしているかのようだった。
「今日泊まる家にも困ってるのなら、上の部屋を使えばいい」
「上?」
 客が首を傾げた。ひどく愛らしい仕草に見えた。
「ここは宿はやってないと聞きましたが」
「昔は部屋を貸していた。ただ、変なことをする客が多すぎたから、今は商売に使ってない」
「なるほど」
 酒が入った状態なら、そういう事に使われるのは当然のように思えた。しかし悲しいことに、この店のオーナーは潔癖だった。
 なぜ、見ず知らずの他人にここまで親切にしてやろうとしているのか。バーテンダーは自分のことながらよく分からなかった。
 実際のところ、彼もまたモンドの騎士だったという事なのかもしれない。「尊敬できる旅人さん」と口に出しはせずとも、その精神は宿っているのだ。知らず知らずのうちに風に吹かれて飛んできた種が、土の中で芽吹くように。
 不意に、バーテンダーが何かを感じ取ったかのように心持ち顔を上げた。目を閉じたために、白いまぶたが照明で艶やかに照らし出される。
「来たね」
 客は初め、その言葉の意味を理解できなかった。理解しても尚、彼の冗談だと思った。
 …………二人は知る由もなかったのだが、店の外は既に日が落ちて、土砂降りの雨が降っていた。その中を、足元を濡らしながら駆けてくる一人の男がいた。勿論、その足音をバーテンダーが聞き取ったわけではない。彼は感じ取ったのだ。こちらへ徐々に近づいてくる、燃え盛る炎の元素の気配を。 
 店のドアが荒々しく開かれる。それに合わせて、ドアベルがけたたましい音を立てた。普段であれば店中の視線を集めるだろう騒音だったが、ちょうどそのタイミングで酔っ払い達が大きな笑い声を上げた。こればかりは、彼らに感謝するべきだっただろう。もっと言えば、この男がここへ辿り着けたのは、今しがた店を出た酔っ払いが、往来でこう話をしたからだ。「エンジェルズシェアに、見慣れないきれいな男が飲みに来てたぞ」「オーナーと求人の話をしてたから、来週にでも美形のバーテンダーが増えるだろうね」
 息を切らしたずぶ濡れの男に、バーテンダーは表情一つ変えなかった。
「ご注文は?」
 男の視線が、客の背中に注がれているのを知りながらそう言った。背後にいるのが誰であるか気がついている筈なのに、客は振り返ろうとしない。その体が固くこわばっているのを、バーテンダーは見ているだけで気がついた。そして、自分が気づいているなら、この男だってそうだろうと。
 おそらく、上の部屋は貸さずに済むのだろうと、何の確証も無く彼はそう思った。