異物

※本編から数年経って、綾人が女性と結婚している設定です

 おそらく、自分は恋愛というものを経験せずに一生を終えるのだろうと、幼少期からそう思っていた。
 実際、その予想は当たっていて、こうして妻を娶ることはできたものの、それは縁談によって引き合わされた仲だった。勿論、それについての不満は無い。双方同意の上での婚姻であったし、相手の女性は自分には勿体ないほど聡明で美しい人だ。
 ただ、物語でよく見るような、激しい感情のやり取りをする機会はこの先きっと訪れないという確信がある。けれど、穏やかな結婚生活を送ることはできるはずだ。そう思って、安堵する。少なくとも、自分が得たいと思っていたものは、色恋沙汰ではなく「幸福な家庭」であることは確かなのだから。

 夕方近くになって、妻から今日は実家に泊まるとの連絡が来た。妻も自分と同じように、実家を継いだ多忙の身だ。だから、今日のように泊りで仕事をこなすのはよくあることだった。かくいう自分も仕事のために家を空けることが多いので、そこはお互い様だろう。
 空を見上げると、夕陽で赤く染まっていた。仕事はもう殆ど済ませてしまっていて、客人が来るという話も聞いていない。今日はもう、早めに部屋着に着替えしまおうか。そう思い、私室で上着を脱ぎ始めると、障子の向こうから声がかけられた。
「若、いらっしゃいますか」
 一拍遅れて、滲むように影が障子に浮かび上がる。夕日の色が障子に透けているのも相まって、黒々とした影は一枚の絵のように見えた。
「トーマかい」
「すみません。執務室にいらっしゃらなかったので」
「構わないよ。何かあったのかな」
「奥様が実家に泊まっていかれるなら、せっかくだから夕食は若の食べたいものばかりにしようかと思いまして」
 なんだそんなことか、と思わず苦笑してしまう。
「いや、簡単なものでいい。台所にあるもので何か作ってくれ」
「でも」
「お茶漬けとかあり合わせのものでいいんだ。そんなにお腹が空いているわけでもないし」
 渋るトーマの様子に、本当に彼は私を甘やかすのが好きだなと思う。着替えたら執務室に戻るから、夕食ができたら呼んで欲しいと伝えると、また溌剌とした声で彼が続ける。
「それなら、着替えを手伝います」
「いらないよ。これくらい自分でできる」
 彼に手間をかけさせたくなくて、そう言って断った。すると、ほんの数秒間だけ、どこか圧のある沈黙がこの場に落ちた。拗ねた子供がするような、あからさまな不満の示し方だった。彼がするには珍しい振る舞いだった。何か気分を害するようなことを言っただろうか、と不思議に思っていると、障子の向こうから「開けますよ」と声をかけられた。
 言葉通り障子が開かれて、夕焼けが一気に部屋の中に流れ込んできた。足元の畳が、赤々と彩られる。まぶしさに眩む視界の中で、彼と目が合った。逆光のせいで、細かい表情までは分からない。けれど、その大きな目が、どこか不満そうな表情を作っていることだけは何となく分かった。
「最近の若は、オレに冷たいです」
 寂しげな、けれど苛立ちも少し感じさせる言い方だった。
「何だい急に」
「結婚してから、オレにそっけなくすることが増えました」
 一瞬、その言葉にどきりとする。自分の望む主の姿ではなくなったと突きつけられたかのようで。けれど、冗談めかした響きを含んでいるのに気づいて、途端に安堵した。
「ようやくこの歳で遠慮することを学んだんだよ」
 こちらも冗談めかしてそう答えると、彼はようやく顔をくしゃりとさせて笑った。
 彼が後ろ手に障子を閉める。室内が一気に冷えて、薄闇に包まれる。ただ光が入らなくなっただけなのに。
 手にしていた上着を、慣れた手つきで彼が受け取った。その際に、指先がわずかに触れ合う。トーマが、淡い闇の中で微笑した。 
「こんなに近くで若を見たの、久しぶりな気がします」
「そうかな」
「そうですよ」
 いつものように彼が背後に回って、帯をほどく。はだけた服と肌の隙間に、冷えた空気が入り込んだ。
「やっぱり、久しぶりですよ。こんな風に若のお着替えを手伝うの」
「でも、挙式の時もトーマにやってもらったじゃないか」
「どれくらい前だと思ってるんですか。それにあの時の若、少しぼーっとしてたから今みたいにおしゃべりもできませんでしたし」
「さすがに私も緊張してたんだよ、あの時は」
 しゅるしゅるという衣擦れの音を聴きながら、取り止めもない会話を続ける。確かに彼の言う通り、こうやって話をするのは久しぶりかもしれない。他の使用人や他者を相手にしている時とは違う、こういう親しげな彼の声を、最近聞いていなかった気がする。
「明日は、終日屋敷にいるつもりですか」
「ああ、そうしようかな」
「じゃあ、朝はオレが起こしにきますね。奥様もいませんし、構いませんよね?」
 ひどく楽しげな声だ。単に起床係を任せただけだというのに。犬の尻尾が付いていたら、竜巻を起こせそうなくらいぶんぶん振り回されていただろう。
 私がいるだけで、こんな風に喜んでくれる人間は、この先トーマ以外に現れないだろう。そう思った途端に、胸を締め付けられるような息苦しさに襲われた。
「トーマ」
 まるで息継ぎをするように、彼の名前を呼んだ。
「どうしました?」
 返事をしないまま、彼を振り返る。思ったより近くに、トーマの顔があった。
 鼻先が触れ合う距離で、視線が絡まる。驚いているのか、彼の瞳孔が、面白いほどに縮こまった。それを見て、自然と微笑が口に浮かぶ。
「トーマ」
 もう一度名前を呼んだ。彼の頬に手をのばしたのは、ほとんど無意識の行動だった。片手で彼の頬を包み込む。ぞくりとするほどに、柔く白い頬だった。
「君と結婚する未来も、あったかもしれないね」
 そう口にしながら、実際にはあり得ないことだろうと分かっていた。ただ、戯れのようにそう言葉にした。普段からかっている時のように。そのつもりだった。
 見つめあった彼の瞳が、不意に奇妙な影を抱いた。
 彼が、手のひらに頬を擦り寄せる。犬が飼い主にするように。深く顔を埋めた先で、彼の唇が手のひらに触れた。その口が、さざなみのように吐息を零す。
 息が、驚くほど熱い。この熱を、どうやぅて体の中に閉じ込めていたのだろうと思うほどに。熱く濡れた息だった。
 鼓動の音が、ばくばくとうるさい。動揺している自分に気づき、その事実にまた狼狽える。何を取り乱す必要があるだろう。彼はただ、甘えているだけだ。そう自分に言い聞かせる。
 この手を引き剥がしたい。自分から触れた癖にそう思う。けれど、まるで縫い付けられたかのように動けない。彼は微睡んでいるかのように目を細めている。長いまつ毛に埋もれたその瞳の奥で、何か、言いようのないものが生み出されている気がした。
「綾人様?」
 その声に反応したのは、果たしてどちらが先だったか。ほとんど同時に、触れ合っていた部分を引き離したと思う。トーマの体が一気に固くこわばったのを、離れる寸前に感じ取った。
「綾人様、いらっしゃいますか」
「何の用ですか」
 自分でも意外なほどに、冷静な声を取り繕うことができた。
「奥様が、仕事が早く片付いたので今日中には帰れるかもしれないとのことです。ただ、夕食は向こうでいただくと。使いの方が今いらしたんです」
「そうですか。伝えに来てくれてありがとうございます」
「トーマさんにも、お伝えした方がよろしいでしょうか」
 使用人は、ここに彼が居ることに気がついていない。先程から彼は、息を詰めて私のそばに立ち尽くしている。まるで、ここに二人きりでいたことを知られてはいけないという風に。
「いや、彼には私から伝えておきましょう」
何故、咄嗟にそう答えたのかは、自分でもよく分からなかった。

 夜になって、妻が屋敷に帰ってきた。
 締め切った寝室の中で、二人分の布団を並べる。目鼻立ちのくっきりした顔は、明かりを絞った部屋の中でもその表情がよく分かった。
「明日の朝に帰ってきても良かったんだよ。夜道は危ないんだから」
「だって、早くあなたに会いたかったんですもの。それに……」
 その続きを待ったが、彼女がそれを口にすることはなかった。言い淀む気配がして、「今日、トーマさんは離島に行かれたの?」と不意に聞かれる。
「いや、屋敷に居たようだよ。私が帰ってきた時に出迎えてくれたから」
 彼がどうしたというのだろうか。不思議に思っていると、彼女がふいに声を潜めた。
「ね」
見ると、真剣な、どこか張りつめた表情が、その顔に浮かんでいた。
「あの人のこと、いつまで雇うつもりなの」
 思ってもいない質問だった。何か引っかかるものを感じたが、彼に対しての悪意は無いように思えたので、正直に答える。
「彼が望む限り、ここで働いてもらうつもりだよ。彼のおかげでこの屋敷は回ってるし、いつか子供が産まれたら、乳母の役目もしてもらいたいからね」
 安心させるために言った言葉だった。けれど、妻の顔はますます不安そうになっていく。そこでようやく自分の失言に気づき、慌てて訂正した。
「もちろん、産まれたのが女の子だったら、女性の使用人に任せるつもりだよ。誤解を招くような状況は作りたくないからね」
 「彼がそういうことをする男だとは、君も思っていないだろうけど」と、そこまで口にして、彼女の声に遮られた。
「ちがうの」
 涙で濡れた声だった。今にも泣き出してしまいそうなほどに、顔を歪めている。穏やかだったはずの空気が、どんどん異質なものに変わっていくのを感じた。
「子供のことはいいの。でも、あなたが、トーマさんと二人きりになるのはやめて……」
 一体何を言っているのだろう。彼女の真意を探るより先に、反射的にそう思った。それほどまでに動揺していた。自分の伴侶になる人が、このようなことを口にするとは思ってもいなかった。
 何も言えずにいる前で、彼女がまた口を開く。涙の膜で覆われた目は、ここにはいない彼の姿を明らかに見ていた。理解できないものを前にした時のような、怯えを含んだ目で。
「気付いてないの?あの人、時々変な目であなたのことを見てるでしょう……」