全身から、少しずつ膜が剥がれていくような感覚だった。さなぎが徐々に羽化していくように、むずがゆい覚醒の気配が、ドクターを揺り起こそうとする。
まだ夢を見ているような心地で、ドクターは天井を見上げた。体の下に敷かれた、冷えてすべすべとしているものはおそらくシーツだろう。視線だけをゆっくりと動かし、室内を見渡す。古めかしい洋館のような、重厚な家具ばかりそろえた部屋だ。その中で、枕元に置かれた点滴や、真っ白い医療機器がやけに浮いている。
ここはどこなのだろう。ベッドに横たわったままぼんやりとそう思案するドクターの耳へ、控えめなノックの音が聞こえた。返事をするより先に、部屋のドアが開けられる。反応がないと決めつけているような早さだった。入ってきたのは若い女中で、心もち目を伏せながら近づいてきた彼女は、ドクターと目が合った瞬間にすべての動作を止めて凍りついた。まだあどけない顔が、「信じられない」とばかりに目を見開いている。
そのまま、たっぷり数秒は経っただろうか。彼女がフリルエプロンを翻し、かすれた声で「旦那様!」と叫びながら部屋を飛び出していくのをドクターは不思議そうに眺めていた。
「丸一年」
目の前の老医者がそう言ったのを、ドクターはそのまま声に出して繰り返した。
まるいちねん。ドクターはすぐそばに控えたシルバーアッシュへ視線をやった。そこに浮かんだ表情を見て、医者の言葉が冗談ではないことを理解する。丸一年、眠っていた。それは彼にとっては信じがたい事実だった。
「信じられない」
「ではこの一年間、意識は無かったということですね」
ほとんどひとりごとのようにこぼれた言葉へ、医者が返す。言葉自体は問診のように落ち着いていたが、表情はにこやかで、ドクターの覚醒を心から喜んでいるのが伝わってきた。そうだ、とドクターは改めて理解する。この人たちは、自分が眠りながら意識を保っているのかいないのか、それすらも分からないまま、身の回りの世話をしてきたのだ。
シルバーアッシュの顔を改めて見返す。記憶にあるよりも、頬の肉が削げ落ちているように思えた。その視線に気がついたのか、シルバーアッシュがこちらを見る。どこか異様な光が、瞳の底で揺らいでいた。深海に潜む魚が、突然光に照らされて驚き逃げ惑うような、それでいてその光に恍惚と惹かれていくような──。ドクターが思わず目を逸らす。その仕草を誤魔化すために、医者に質問した。
「健康上の問題はないの?」
「全くありませんよ。いたって健康です。私でも信じられないくらいにね。これもイェラガンドの慈悲によるものかもしれません」
夢から覚めたようだ、とドクターは最初に知覚していたが、本当に目を覚ましただけのように彼の体には何の異常も見られなかった。さっきまで点滴をして、一年間も昏睡していたとは思えない。本来なら筋肉が衰えて、歩くことも難しいはずなのだと医者が言っていた。
ドクターが意識を取り戻してから、屋敷の中はにわかにさざめき始めた。使用人たち全員が、そわそわしながらドクターやシルバーアッシュの様子をひっそり窺っている。自分が眠っている間にどんな様子であったかなんて、本人は知る由もないのだが、しかし使用人たちの様子を見るに何となく想像できるような気がした。
執務室で仕事をするシルバーアッシュのそばで、ドクターは来客用のソファーに腰掛けていた。一年間眠り続けていたせいで任せてもらえる仕事などなく、けれど人目のない場所にこもりっきりでいるのも周囲を不安にさせるので、最近はこうして恋人の近くで過ごしている。
使用人に淹れてもらったココアが、華奢なティーカップの中をとろりと満たしている。それを口に運ぼうとして、けれど唇に触れる寸前に飲める熱さでは無いことに気がつき、ティーカップを下ろした。カップの底が皿に触れて、金属が擦れ合う。ふとシルバーアッシュの方を見ると、相手もドクターへ視線を向けていた。
「熱いか」
「別に」
答えながらドクターはかすかな苛立ちを覚えた。
「病人みたいに扱わなくていいよ」
こんな風に、何から何まで周囲に様子を窺われる生活にドクターはうんざりし始めていた。良かれと思ってやっているのだ、と分かってはいてもだ。それが彼らの仕事なのだから、仕方ないのかもしれない。しかしシルバーアッシュに限っては、そうではないと彼は思っていた。変に気を遣われたり、様子を窺われ続けることのうっとおしさを、理解してくれるはずだ、と。
シルバーアッシュは何も答えない。そもそもとして、目覚めてからのシルバーアッシュの行動自体が彼は気に食わなかった。先日まで昏睡状態にあった相手に、いつも通り振る舞えというのも理不尽だとドクターは理解している。それを踏まえても、様子が以前と違いすぎるのだ。気を遣っている、ともまた違う。怯えていると言った方が近い。まるで、彼の方からドクターに触れたり声をかけたりしようものなら、瞬時にドクターが宙にかき消えてこの世から居なくなってしまうとでも思っていそうだった。
ドクターは唐突にソファーから立ち上がると、のしのしとシルバーアッシュの方へ近づいていった。そして、椅子に座っている恋人の膝の上へ、どすんと勢いをつけて腰を下ろす。
「何か話して」
ドクターはわざと素っ気ない声を作って言った。返事が来るまでに数秒の間ができた。安くはないのだろうリクライニングチェアは、軋むこともせずにお行儀よく二人分の重みを受け止めている。
「何をだ」
「なんでも」
「仕事中だ」
その返答にムッとして、後頭部をシルバーアッシュの顎あたりにぐりぐりと押し付ける。それでも特に反応を示さなかったので、そばにあったシルバーアッシュの手へ、自分の手を重ねた。触れた瞬間、シルバーアッシュの体が強張るのが分かった。それに気づいてない振りをして、ドクターはいかにも手持ち無沙汰そうに、自分より一回りは大きい手の甲を軽く握ったり、指をつまんで遊んでみる。
こういうことは、ロドスに居た頃からたまにあった。普段はシルバーアッシュの方がドクターにまとわりついているのに、時々気まぐれにドクターの方からべたべたと構いにいくのだ。シルバーアッシュのほっぺたを両手でこねてみたり、コートの裾をめくってみたり。そういう時、シルバーアッシュは決まってその様子を静かに観察する。気まぐれに手の中に降りてきた小鳥が、何をすれば逃げずにいるのか分からず、じっとするしかできないみたいに。そして今も、そんな風だった。
シルバーアッシュは何も言わなかったが、黒い皮手袋を着けていたのを後悔しているのだろう。血管の透ける白い手に、自分も素手で触れて、手首を持ち上げて重さを感じ取ったり、なめらかな肌を楽しみたいと思っていることが、さざめく気配から伝わってくる。懐かしいな、とドクターは思った。ルールの明記されていないゲームを引き延ばそうとするような、張り詰めた空気。二人の間で、嫌になるほど繰り返してきたことだった。ドクターは途端に白々しい気持ちになった。
「もういい」
前置きなくそう言うと、膝からぴょんと飛び降りた。生ぬるくなったココアを飲み干すと、ティーセットはそのままに振り返ることなくドクターは部屋を出た。ティーセットの片づけは使用人に任せることにした。ドクターが厨房まで運んで下げるより、そうした方が彼らは喜ぶのだと知っていた。
ドクターが長い眠りについたのは、アーミヤが世界を救った、あの騒動の翌日だった。
その日の夜、あらゆる物事が良い方に向かうだろうと、全員が確信していたはずだ。アーミヤもケルシーも、オペレーターみんながそう思っていたに違いない。全てを成し遂げた達成感と疲れが、奇妙な高揚感を作り上げていた。
明日は、今日よりきっと良い日になる。いや、今まで過ごしてきたどんな日々よりも、幸せな日が続いていくのだ。そう確信してドクターは眠りについた。その翌日からだ。ドクターが目を覚まさなくなったのは。
眠り続けていた自分がどれだけ周囲を騒がせたのか、流石に察することができる。アーミヤが英雄になった翌日にそんなことになったのだから、きっとみんなを混乱させただろうし、ロドスからイェラグまで、眠り続けるこの男を輸送するのはどんな気持ちだっただろうか。
今更ではあるが、そんな本人の意思の確認も取れない状態のドクターを、どんな手を使ってロドスからイェラグへと譲り渡したのか、ということについては、簡潔明瞭な理由がある。
「ドクターに関するあらゆる権利をエンシオディス・シルバーアッシュに移譲する」というような契約を以前から結んでいたのだ。物々しい文ではあるが、実態はなんてことない。すべてが解決した後にドクターがイェラグに移住するにあたって、戸籍の手続きなどをシルバーアッシュが代理でスムーズに行えるようと、想定したうえでの取り決めだった。
これが妙な働きかけをして、シルバーアッシュのもとに昏睡状態のドクターが送られることとなった。このゴタゴタに、どれだけの時間と労力が費やされたのかと思うと、震えあがりそうなものがある。シルバーアッシュ自身は、過去の自分が取り付けたこの契約に、心底救われただろうが。
「よかった。お兄ちゃん、すっごくしょげ返ってたんだから」
そう言ったのは、久しぶりに顔を合わせたエンシアだった。中庭の片隅にティーテーブルを持ち出して、二人でお茶会をしているところである。
今もロドスで治療を受けているという彼女は、里帰りと称してこれからイェラグに長期滞在するらしい。来月のパーティーにね、あたしも招待されたんだよ、と誇らしげに言う彼女に「なんのパーティー?」と聞き返すと「まだドクターに伝えてなかったの!?」と驚愕半分、怒り半分の顔にさせてしまった(「あとでお兄ちゃんに直談判してくる」とのことだった)
それはそれとして、「しょげ返ってた」という言葉に、あのふわふわな両耳の先をくにゃりと垂らしている姿をドクターは想像した。
「『今思うと、ドクターは神さまから一瞬だけ貸してもらえたものなのかもしれない』って言ってたんだよ」
「神さま?」
あの男の口から出たとは思えない単語に、ドクターは首を傾げる。その仕草を、どこか慈しむような、悪戯っぽい笑みを浮かべてエンシアは眺めた。白く細い腕で、頬杖をつきながら。
なんだか妙に大人っぽくなったな、と彼女を見てドクターは思う。たった一年しか空白はないはずなのに、そこには少女が大人になる時の瑞々しい成長、というよりも、老齢という言葉が似合いそうな落ち着きがあった。もちろん、あの無邪気さは消えてはいなかったが。
「でも、本当に良かった」
エンシアは自分に言い聞かせるようにそう繰り返す。一瞬だけ、遠くを見るような目をする彼女に、ドクターは「うん」と頷くことしかできなかった。
神さまに、ほんの一瞬だけ貸してもらえた存在。
そう考えるまでに、どんな思考の行き来があったのだろう。「もう十分いい思いはしただろう」とばかりに、役目が終わった途端に昏睡し、シルバーアッシュの手から取り上げられた自分を、彼はどう思ったのだろうか。丸一年、何をしても目覚めなかったのだから、信心深いようには見えない彼も、神にすがることを考えたのかもしれない。そこまで想像して、ドクターは「いや」と考え直す。思い上がりすぎだろう。彼が、そこまでの執着を自分に向けるだろうか。たとえ恋人同士であったとしても。
シルバーアッシュは、徐々に以前の彼へと戻っていった。「以前」とは、まだアーミヤが世界を救う前の、ロドスのオペレーターとして接していた頃のことだ。ドクターにとっては喜ばしいことである。やっと自分の知っている「シルバーアッシュ」に戻った。その安堵は自分のことながら計り知れないものがある。
記憶にある彼の姿を、頭の中でなぞろうとする。こちらに執着しながらも、時折意地の悪い冗談を口にしてきたり、小競り合いで打ち負かそうとする時の顔。こちらの白い手首や、小さな足指を見て、ひっそりと、けれどあからさまに向けてくる、愛おしげな視線。そこまで考えて、恥ずかしくなったドクターは思い出すのをやめた。
ある日の深夜、ドクターは屋敷の中を散策していた。廊下の灯りが必要最小限に絞られているため、昼間とは別世界のように暗い。廊下の向こう側へ視線を向けても、暗闇が滞留していて、そこに何があるのかさえ分からない。そんな中で、壁にはめ込まれた窓だけは、月明かりで淡く光を帯びていた。ドクターは吸い寄せられるように窓辺に近づき、そこから外を眺めた。長く伸びた枝が視界を遮っていて、あまりいい景色ではなかった。それでもドクターはしばらくそこに立ち尽くしていた。
気配がして、振り返るとシルバーアッシュが立っていた。
「何をしている?」
暗闇から浮かび上がるようにして、こちらに近づいて来る。その姿を見て、自分は気づいていなかっただけで、何分も前からこちらの様子をじっと窺っていたのかもしれない、とドクターは思った。
「月がないか探してるんだ」
ドクターはその場しのぎにそう言った。変に不安を煽るようなことは言いたくなかったし、おかしい理由でもないだろう。シルバーアッシュが隣に並び立ち、一緒に空を見上げる。四角く切り取られた小窓は、ドクター一人であればちょうど良かったのに、そこにシルバーアッシュが混ざると途端に窮屈になるのが妙に愉快だった。
二人は無言で空を見続けた。ドクターは自分が言った通り、雲の切れ間に視線を走らせて、月を探しているふりをしてみせたものの、隣にいるシルバーアッシュは全くそんなことをしていないことに薄々気がついていた。おそらく、隣にいるドクターの気配を楽しんでいるのだろう。
「見つかったか?」
「ううん」
窓を透けて差し込む月の光が、窓枠に置かれた二人の手の甲に落ちている。
「そろそろ戻ろうかな」
ドクターがそう口を開いたのは、勿論この場から去るためだけの言葉だったのだが、シルバーアッシュは何を思ったのかドクターを横抱きにして一緒に寝室に連れ帰った。まるでぬいぐるみを抱き上げるように、流れるような動作で軽々と持ち上げられたので、ドクターは抵抗するタイミングを掴めなかった。
一瞬面食らったものの、こんな風に運んでいるのが病人扱いとは違うものであることを理解して、ドクターは「悪くないな」と思った。
以前エンシアから聞かされていたパーティーについて、ドクターはようやく詳細を聞くことができた。寝る前の、二人でベッドに入っている時に。あの「直談判」が終わった後だというのに、いつまで経ってもシルバーアッシュが教えてくれる気配が無いので、ドクターの方から話題に出したのだ。
「頃合いを見てお前にも伝えるつもりだった」
「いくらなんでも遅すぎない?」
「お前が準備すべきことは何もないからな」
自分があからさまに白けた顔をしているのを、ドクターは自覚した。そして裸足の足裏を、恋人の膝に押しつける。シャワーを浴びたばかりだから構わないだろう。やわらかく質の良い、寝間着の感触が伝わってきた。そこにシルバーアッシュの手が伸びてきたので、足蹴にしていたのをすぐさま引っ込める。この男のことだから、かかとを拾い上げて、足の甲に唇を押し当てられていたかもしれない。
「ダンスパーティーなら、ダンスの練習をしておいた方が良い?」
「したいなら、講師をつけてやるが」
君が直々に教えてはくれないんだ? と声に出そうとして、喉奥に引っ込める。シルバーアッシュの顔からは何の表情も読み取れない。代わりに、ちょっと意地悪な気持ちになって
「私が練習しなかったら、困る?」
とドクターは尋ねた。一瞬思案するようなそぶりを見せた後に、首を振って「問題ない」とシルバーアッシュは答えた。
「身内か、長い付き合いの者しか呼ばない。お前が顔面から転んでも誰も吹聴しないだろう」
「ふうん」
一気につまらない気持ちになって、そう相槌を打つ。ごろりとベッドに寝転んで、しばらくして急に起き上がるとドクターはこう提案した。
「ピノキオみたいにできない?」
「ピノキオ?」
「ほら、上から糸でつるしてダンスさせるでしょ。アレみたいに、私も踊ってるように見せかけて、君が上から持ち上げてるだけにはできないの? 二人で踊ってる間」
君は力持ちなんだし、と付け加える。シルバーアッシュは、唇をわずかに笑みの形に歪めて、ドクターを見ていた。目には呆れの表情が含まれていたが、それよりもいとおしげなものがそこに映っていた。
「早く寝た方がいい」
そう言われて、ドクターは渋々ベッドの中にもぐりこんだ。電気を消して、そろそろ意識が落ちると思われた寸前に「ダンスの講師は見繕っておくから安心しろ」という声がかけられるのが分かった。
ドクターはまた、執務室で仕事をしているシルバーアッシュのそばで、クッキーをかじりながらソファーで寛いでいた。ここ最近は、あまりシルバーアッシュの近くをうろつかないようにしている。病み上がりに恋人のそばから離れないのはそれこそ病人のようなのかもしれない、と思い直し、屋敷の書庫に入り浸ったり、あるいはそこらを散歩したりして過ごしている。
先日は、暇つぶしに中庭に出ていたところを、遊んでいた子供(使用人が子持ちだった場合、託児所のように屋敷の一角で預かってもらえるようになっている)に「ドクターも遊ばれますか?」と聞かれた。頷くと、ブランコに乗せられて、子供たちに背中を押されながら揺らされることになった。これが冗談か意地悪によってされたならすぐ断れるのに、子供たちは真面目な顔をして付き合ってくれたので、しばらくそうしているしかなかった。シルバーアッシュはその光景を、偶然窓から見かけたらしい。黄色い花が足元に咲いているブランコと、それに座ってゆらゆらしているドクターの背中を。
しかし今日に限っては、「一緒に来るか」とシルバーアッシュに誘われた。
「手伝ってほしい仕事があるの?」
ドクターはいたって真面目にそう聞き返したのだが、「いや、」と言った後に「理由が無ければ来たくないか」と続けられて、良くない言い方をしたと気がついた。
執務室に移動して、いつものようにソファーに横たわっていたドクターだったが、しばらくして部下にクッションを持って来させた。「うんと使い古されてて、捨ててもいいやつにして」と。ぺしゃんこになるまで使い倒されたクッションを手渡しながら「本当にこれでよろしいのですか?」と目だけで尋ねる部下にありがとうと言って受け取る。そして、デスクチェアに座るシルバーアッシュの足元に、そのクッションを置いて自身もそこに座った。
長い脚を背もたれのようにして、頭を預ける。思っていた以上に良い具合だった。そのまま持参したクッキーを齧った。飼い猫にでもなった気分だが、悪くない。もうそろそろ、座りすぎてソファーが自分の形にへこみそうだと思っていたので、気分転換にもちょうど良かった。
そのままザクザクとクッキーを食べ続けるドクターは、この咀嚼はきっと、自分の後頭部越しに彼の脚へ伝わっているだろう、と考えた。しばらくは静かに仕事を続けていたシルバーアッシュが、不意に手を伸ばしてその小さな頭を撫でた。子猫にしてやるような手つきだった。ドクターも大人しくそれを受け入れていたのだが、終わり際に、ギ、と強く髪を引っ張られて「いたい」と声を上げた。
思わず振り返って頭上の顔を窺うも、そこにある端正な顔には苛立ちや嫌悪は表れていなかった。むしろ面白がるような表情をして、足元のドクターを見下ろしている。数秒は目を合わせていたが、シルバーアッシュが何も言わないので前に向き直った。またクッキーを食べ始めたあたりで、「憎らしくなってきたな」という声が降ってきた。
「そんなに邪魔だった?」
「そうじゃない」
「一年間」とシルバーアッシュは続けた。
「私はあんなに疲弊して、いつ目覚めるかも分からないお前を待っていたのにな」
「らしくないこと言うね」
できるだけ素っ気ない声でドクターは返した。何でもないことのように。
自分が眠っている間、どれだけシルバーアッシュを苦しめ、縛りつけてきたか。ドクターにも想像することはできる。彼個人の憔悴だけにとどまらず、眠り続けるドクターについて、彼が原因ではないはずなのに理不尽な怒りや失望を向けられたこともあるのではないか。世話をする使用人たちにどう説明をし、悪趣味な興味を持って聞き出そうとする者にどう対処したのか。手放したい、と思ったこともあるだろう。もしかしたら今もそう思っているのかもしれない。そうだとしたら、それを責められないとドクターは思っている。
「嫌なら、目の前から消えてあげようか」
全くの本心からそう返した。ここを去ったとして、行く当てが無いわけでもない。きっと頼み込めば、ロドスはドクターを受け入れてくれるだろう。ドクターが頼む隙も与えずに、心優しいアーミヤが迎え入れてくれるかもしれない。また骨ばった手が髪に触れる。頭上で、首を左右に振る気配がした。
「元を取りたくなってきたな」
「元?」
「お前の手足を縛りつけて、地下室にでも閉じ込めるか、鎖に繋いでずっと足元に侍らせておくか」
「すれば? そうしたいんなら」
完全な強がりによる返答ではなかった。この男なら、どれだけ自暴自棄になったとしても、そうひどいことはしないという確信がドクターにはあった。その返しがお気に召したのか、シルバーアッシュが微笑む。
「お前からそうやって突き放されると安心するな」
「最大限寄り添ってあげたつもりなんだけど」
「お前のおかげで踏みとどまっているような気がしてくる」
ドクターは不思議な気持ちになる。踏みとどまっている、というのが本当だとしても、彼の今までの言動を考えると踏み外しそうなところまで誘い出しているのもドクターなのではないだろうか。
楽しくないお喋りのせいで、もうクッキーを美味しくは感じられなかった。
シルバーアッシュの言っていたダンスの講師は、しばらくしないうちにやって来た。丁寧に髭を整えた白髪の老紳士で、品のある微笑を浮かべている。講師はダンスの基礎やら足運びについて教えるより先に「エンシオディスさまに身を任せていれば、何も心配することはございませんよ」と言った。
「本当に?」
「あの方がどれだけあなたを想っているかを考えれば、きっと分かるはずです」
「そうかなあ」
娯楽としてのダンスであれば、技量よりも相手との信頼関係が一番重要なのであり、互いに尊重しあっていれば、あとはもう十分なのだと言う。特に今回のように、片方が経験者であればなおさら。
授業は三回で済ませるつもりだと講師は言った。「あまり癖をつけない方が良いでしょう」という理由で。ドクターも「そうだね」と同意した。
「私ではエンシオディスさまの背丈には足りませんから」
確かに見ると、講師の身長はシルバーアッシュより十センチ以上は低そうだった。しかしそれに頷くよりも、ドクターは自身の勘違いに気づいて、ぼそりとこう呟いた。
「シルバーアッシュが嫉妬するからって意味かと思った」
それを聞いて、はじめて老紳士は声を上げて笑った。
パーティーの日はすぐにやって来た。「身内か長い付き合いの者しか呼ばない」とシルバーアッシュが言っていた通り、本当に小規模なものだ。こうしてドクターが周囲を見渡してみても、一度か二度は顔を合わせたことのある者ばかりで、気を張る必要は無さそうだと彼は思った。
口には出さないものの、これは実質ドクターの回復祝いのパーティーであるらしい。余興にダンスがあるだけの、小さな祝宴。自然と、招待客の視線はドクターとシルバーアッシュの方に注がれている。もちろん、不躾な風ではなく、ちらちらと目を向けるだけに留まっていたが。
招待客ひとりひとりへの挨拶を終えて、ドクターはぼんやりと会場を見渡す。飾り付けられた室内と、人のざわめき。始まっても尚、ドクターは実感を得られていなかった。実はこれが夢で、目が覚めた後にまた身支度をして、パーティーに赴くところからやり直すのだと言われても信じられそうだった。
演奏が始まった。余興のダンスの時間になったらしい。シルバーアッシュに手を取られる。その際に視線が絡み合った。今日はじめて、目を合わせたような気がした。パーティーのホストとして、ずっと隣に並んで招待客の相手をしていたのに、触れ合うのも目を合わせるのも、今ようやくできたのだ。幾人かのグループも、同じように会場の中央へと出てくる。一呼吸おいて別の曲が流れ出して、そこからダンスが始まった。
周囲のペアに比べると、やはりダンスはお粗末だっただろう。それでも顔から床に激突するような事態は免れた。何度かシルバーアッシュの脚を踏んだが、まあ、ドクターの体重を考えると子猫に踏まれたものだ。ダンスは信頼関係が一番大事だという講師の教えは本当だったらしく、ドクターはシルバーアッシュの手に導かれて、まるで滞泳する熱帯魚のようにふらふらと踊っている。なんとなくドクターは、シルバーアッシュに守られているような気がした。
「むくれていたわりに楽しんでいるな」
シルバーアッシュが、耳元へ唇を寄せて囁く。あたたかい吐息の感触に、ドクターの指先がわずかに揺れた。別に他意のないふるまいだったのだろうが、ぴったりとくっつきあって眠った昨晩よりも、ずっと近い、体の内側にまでシルバーアッシュの手が触れたような気がした。「おかげさまでね」とドクターが返す。
「考えてみたんだ」
ドクターはそう切り出した。二人の会話は、曲にかき消されて周囲には届かない。一番近い場所にいる、ダンス中の招待客たちも、くすくすと笑みをこぼしながら、互いに見つめあったり、何かを囁きあっている。
「何を」
「君の、元を取りたいっていう言葉について」
シルバーアッシュは、やや面食らったように目を見開いた。その話をまた持ち出されるとは思っていなかったのだろう。
「それがなんだ?」
「いいことを思いついたんだ」
このダンスが始まる前から、もっと言えばその言葉を言われた瞬間から考えていたことをドクターは言った。
「そんなに言うなら、今度は君が一年眠ってみなよ」
「なに?」
「だから、今度は君が急に眠りこけて、それで私が心配したり悲しんだり、代わりに仕事をしようとして奔走したりしてるのを、一年後に目が覚めてから笑えばいい」
良い提案でしょ、とドクターは続けた。「きっと君のことを恨んだり、目を覚ましてないか日に何度も君の顔を見に行くと思うよ」ドクターは見てきたかのようにその光景を想像できる。蝋のように白い顔をしたシルバーアッシュが、何日も眠り続けていて、数時間おきに様子を見に行く自分のことを。ドアノブに手をかけるたびに、今度こそは、と思うだろうか。もしくは、そう運良く起きてくれるはずがない、と思うかもしれない。そしてドアの向こうで未だ目覚めない彼の姿を見て、逆に安堵するのかもしれない。自分の想像にないことが現実になってしまう、それがきっと一番恐ろしいことだろうから。
「お前はいつも、耳を疑うようなことばかり口にするな」
ここだけ聞くと、棘のある言葉に思えただろう。実際には、シルバーアッシュの口元には微笑が浮かんでいた。
「これでも不満?」
「いいや」
「もっと思いつくよ。君がもし起きなくなっちゃったときのこと。君が死んじゃった場合のことだって」
「言わなくていい」
その言葉だけは少し声を荒げて、シルバーアッシュが切り捨てた。
「甘えていたのかもしれないな」
低く掠れた声が、ぽつりと零す。誰に、とは聞かずとも分かり切っていた。ゆらゆらと頼りない足運びをして、今まさに腕の中にいる恋人の他に誰がいるだろう。深刻そうな表情をかき消すためか、茶化した声で「別にいいんじゃない?」とドクターが言う。
「じゃあ、君が甘えてた分だけ、今度は私が横暴に振る舞ってもいい?」
ドクターはいたって真面目に、そう尋ねたつもりだったのだが、シルバーアッシュを笑わせることになってしまった。さっき提案されたうちの、「急に眠りこけた一年後に、ドクターの惨状を見て浮かべるだろう笑み」が、今その顔に宿ったかのように。
ダンスが終わり、二人はエンシアとエンヤが待つ会場の隅へと戻った。エンシアは控えめな拍手をして、エンヤはお行儀よく両手を体の前で組んでいる(そばのテーブルに、食べかけの取り皿が置かれていた)開口一番に、エンシアが言った。
「お兄ちゃんたち、なんか楽しそうだったね」
「そう見える?」
「だって、二人ともニコニコしてたもん。最近ずっと、そういう顔してるの見たことなかったから」
ドクターはややきまり悪くなった。隣のシルバーアッシュも同じ気持ちだっただろう。二人きりの時はともかく、周囲に人がいるときは、以前と同じように振る舞っているつもりだった。もともと人前でベタベタするような性質ではないので、違和感はないだろうと思っていたのだ。
「気を遣わせてたんだね」
そういえば、さっきまであった周囲の視線が消えているようだった。好奇の目とは言わないまでも、こちらの様子を慎重に窺っているような視線。もしかしたらあれは、ヒリついている二人の空気を、敏感に感じ取っていたのだろうか。今はもう、招待客は皆リラックスして、やわらかな声で談笑している。
「ううん。でも、これが映画だったら、エンドロールに流れてる映像みたいだった」
エンドロール? 思いがけない言葉に、ドクターは一瞬戸惑った。周囲を見渡す。白いテーブルクロス。談笑する人々。たしかにエンドロール映えする光景かもしれない。穏やかで幸福で、余韻を感じさせるような。今この瞬間に、英字で書かれたスタッフロールが、視界の横を流れていきそうでもある。
ねえ? と同意を求められたエンヤは、「そうかもしれません」と静かに答えはしたものの、それ以上は言及せずに手にした皿から粛々と料理を口に運び始めた。
もー、とエンシアが小声でふてくされたフリをする。一応ながら、表向きは巫女だという姉の立場を慮っての、控えめな反応だったのだろうが、シルバーアッシュとドクターを微笑ましい気持ちにさせるには十分だった。
ドクターは少し考えてから、シルバーアッシュにこう尋ねた。
「本当にエンドロールだと思う?」
いや、とシルバーアッシュが答えた。
「始まったばかりだろう、誰がどう見ても」
「もう、お兄ちゃんの意地悪」
エンシアはまた頬を膨らませて、けれど愛おしいものを見る目をして言った。背後で流れている心地よい音楽が、耳や指先を撫でては通り過ぎていく。本当にこれが始まりなのかもしれない、とドクターは思った。