それは、ちょっとした事故のために起きたことだった。
おれがひること美空を引き連れて、とある仕事に向かおうとしている時のことだ。いつものようにひるこがちょっかいをかけてきたので、おれが冷静にいなしているのを、隣に立った美空があの薄笑いを浮かべて眺めていた。
すると、不意にひるこがおれの尻を蹴飛ばした。バランスを崩した俺の体は、一瞬のうちに地面に向かって傾き始めていた。このままではチェスターバリーのスーツが汚れてしまう。そしてもっと悪いことに、上体が傾いたその先に、美空が立っていたのだ。
気を利かせておれを支える等すればいいのに、美空の野郎はまぬけ面でおれをぽかんと見るばかりだった。そのためおれの抵抗も虚しく、美空を巻き込んで地面に倒れ込んでしまった。出来るだけスーツを汚さないよう尽力した結果、美空を下敷きにして、その上におれが覆い被さる形になっていた。おれの両手は地面についていたが、片膝は美空の脚の上に、もう片膝は地面に広がった美空の法衣の上についていた。
おれは至近距離で、美空と見つめ合っていた。驚くほど近くに、美空の顔がある。白い肌も、黒い瞳も、無防備におれの前へ晒されていた。濡れたように潤んでいる黒々とした瞳は、普通であれば可愛い女の子しか持ち合わせていないような、奇妙な妖艶さを含んでいるように見えた。おれは不覚にも、美空に対して劣情めいたものを覚えそうになった。
おれが正気に戻ったのは、美空が表情を変えたからである。目が、苦しげに細められる。形の良い眉が寄せられ、唇が喘ぐように半開きになった。情事中の女の子が、いく時に見せる顔に似ていた。その口から、見かけによらず低い声が漏れる。
「痛いです、毒島さん」
「あ、悪い……」
おれは妙に心を乱されているのもあって、反射的に謝ってしまった。ハンサムには似合わない、慌ててバタバタと立ち上がるという仕草も見せてしまった。
さっさと立ち上がった美空の顔は、もう苦痛を浮かべていなかった。いつも通りの、あの菩薩のような微笑が張り付いているだけである。その微笑を見た瞬間、おれはあることに気がついた。
「美空、てめえ__」
美空がおれを見る。その白い顔にある、眉も目元も唇も、苦痛を映していない。いや、映すわけがないのだ。
「おれを茶化しやがったな」
「ああ、気がつきましたか」
そう、この男は無痛症なのだ。だから俺がのしかかったって、痛いと思うはずがない。つまりさっきの表情は、すべて演技だったというわけだ。
「どうでしょう。うまく”やれて”いたと思いませんか?」
少しも悪く思っていない顔で、美空はそう言って笑ってみせた。おれは、口の中に苦いものが広がっていくような気がした。ただコケにされただけではない、おれの中にある尊厳を踏み躙られたような、そんな気持ちになっていた。