シャレムは美しい容姿の男だった。しかしそれは元々の顔のつくりの良さだけでなく、日頃の手入れによって維持されたものでもあるらしかった。彼は劇団に入った頃から、見目の良い姿でいることを求められていたので、染みついた習慣であるのかもしれない。
そして、彼はドクターに対しても、身だしなみを整えてやることが多かった。親鳥が雛にしてやるような慈しみをもって。どうせ防護服で隠れるのだからと、おざなりになりがちなドクターの手肌は改善の余地ばかり目についてしまう。特にシャレムが気になったのは、彼の髪だった。
「ドクター、こちらに」
シャレムがそう促して、ドクターをドレッサーの前に座らせる。ドレッサーといっても簡易的に作ったもので、部屋に備え付けのサイドチェストに、大きめの鏡を立てかけただけの代物だ。椅子も、執務室の丸椅子を転がしてきて使っている。
「ねむいよ」
「目を閉じていても構いませんから」
大きなあくびをして、肩に置かれた白い手にささやかな反抗をしてみるも、シャレムは意に介さなかった。ドクターの寝不足の原因は、ほとんどが多忙によるものではなく、深夜までやっているゲームのせいであると分かっているからだろう。ドクターは鏡に映る自分の顔を見た。フードを脱いでフェイスシールドも外しているので、表情がよく分かる。少年と言ってもいいほど幼い顔。それが白くむくんでいる。眠たげな表情のためか、不機嫌そうにむくれた子供のようにも見える。背後にはシャレムの胸元までが映っていた。白く華美なドレスシャツは、鏡の中で彼をどこか亡霊めいた存在に見せている。
「じっとしていてくださいね」
シャレムがドクターの髪に手ぐしを入れる。生ぬるい体温をした細い指先。それが髪をかき分けていく感触。短く切りそろえられているのだろう爪の先が、頭皮をかすかに引っ掻いていく。ぞわぞわするような心地がした。ただ肌に触れられているのとは明らかに違う。重なりあった神経を指でまさぐられているような、服の中に手を押し込まれて、その下の肌に触られているような感覚だった。頭皮の毛穴がざわざわとわずかに開いていく。
「そんなにくすぐったいですか」
「うん」
「ドクターは、ひとに素肌を触らせないよう気を付けた方がいいかもしれませんね」
「なんで」
ドクターはそう訊ねたが、「さあ、なんででしょうね」とはぐらかされるだけだった。
きゅぽん、と音を立ててシャレムが香油の瓶を開ける。透き通った藍色の、香水瓶のような見た目をしたものだ。シャレムはほんの一滴だけ、その香油を手のひらに取った。深い海の色をしたそれが、白い手の中に落とされる。
両手にうすく伸ばした後、シャレムはもう一度ドクターの髪に手ぐしを通した。最初は毛先のみを解きほぐすように、その次に髪の中ほどから毛先にかけて。先ほどとは違い、頭皮には触らないよう意識しているのが分かる。手ぐしに合わせて、髪が頭皮ごとほんの少し引っ張られる。鏡ごしに、白い手指が髪の中へ出たり入ったりしているのをドクターは眺めた。シャレムの手を覆っている油膜が、自身の髪に移っていく様子を想像しながら。
「できましたよ」
シャレムが身を屈めたので、今初めて鏡の中に彼の顔が映る。にこやかな表情だ。なんとなく、今この瞬間めで彼は全く別の表情を浮かべていたのではないかとドクターは思った。
「さらさら」
歌うようにそう言って、シャレムがまた髪に指を通す。ドクターの目からは、さして大きく変わったようには見えない。跳ねていた毛先が収まったのと、髪がわずかに重みを増したように見えるくらいか。それでもごく一般的な礼儀として「ありがとう」とだけ言った。シャレムが頷いて手を引っ込める。その瞬間、彼の白い手が印象よりもずっと大きく、ごつごつと骨ばっていることを、自身の頭部と見比べながらいま初めてドクターは気づいた。