これは、ミスラが賢者と知り合ってまだ間もない頃のことだった。
とある昼下がり、ミスラは魔法舎の最上階の窓に腕を預けて、そこから中庭を見下ろしていた。花壇には、ルチルが植えた花の芽が早くも顔を出していて、いかにものんびりとしたふうにその身を揺らしていた。
それらの景色をぼんやりと眺めていたミスラの目が、あるものに留まる。インクをぽつんと落としたかのように、米粒ほどの大きさをした黒く丸いものが中庭にいた。ミスラが目を凝らすと、どうやらそれはしゃがみ込んでいる賢者のようだった。よく見ると、賢者の前には一匹の野良猫が座っている。小皿を手にした賢者が、そこから茹でたささみのような物を猫に与えていた。猫は僅かに身を揺すると、賢者の手からそれを食べ始めた。
その光景を見て、ミスラが特別何か思うことはなかった。微笑ましいとも、馬鹿馬鹿しいとも思わなかった。ミスラから賢者に対する興味は、それくらいのものであった。ただ、弱いもの同士で気が合うのだろうか、と思ったぐらいである。
すると、不意に賢者が顔を上げた。空を見上げ、眩しそうに目を細めると、ミスラの姿に気がついた。陽射しを浴びて、賢者の顔がミスラの視界の中で白く浮かび上がる。眩しさを覚えながら、ミスラはなんとはなしに賢者を見つめ続けた。
賢者は、微笑していた。ミスラをはっきりと見つめ返しながら、確かな微笑みを顔に浮かべていた。
ミスラはそれを、自分に向けられたものではないと思っていた。猫を相手にしている時の微笑が、こちらを見上げても尚残っていたのだろうと考えた。だから、ミスラを見つめているうちに、その微笑は消えていくのだろうと思った。
しかしミスラの予想に反して、賢者は微笑を浮かべたまま、ミスラに向かって手を振った。ミスラは黙って、手をふり返すこともせずその姿を眺め続けた。自身に対して何を期待しての行動か分からなかったのだ。しかし賢者は特別気を悪くした風もなく、しばらくして手を振るのをやめると、また猫の方へ向き直った。
ミスラは何か、珍獣を前にしているような気持ちで賢者のことを観察し続けた。しかしそれにもすぐ飽きると、窓から立ち去って魔法舎をうろつき始めた。数分もしないうちに、賢者についての記憶はミスラの頭から失われていた。