テキーラはよき隣人だった。
聡明で、穏やかで、他人の庭先に無理やり踏みこむようなことは何があってもしなかった。家族にもそうである。そう、彼は家族に対しても「良き隣人」でいようと努めていた。
一体どんな風に振舞えば、ドクターに好いてもらえるのだろう。ここ最近のテキーラは、そんなことばかり考えている。
スイッチを押されたエスプレッソマシンのように、変に気を回したりはせず、与えられた役目を従順にこなせるように彼はなりたかった。それが自分の手で最大限、ドクターから好意を引き出す方法だと彼は信じていた。たとえばドラマの中にいるような、熱烈な愛を向けられる側の人間ではないことを彼は理解している。ましてやドクターの恋人だの親友だのになれるわけもない。自分のような男が、他人よりほんの少しでも彼に好かれているためには、そうやって手足のように振舞うことが一番のように思えた。
しかしその冷静な思考とは裏腹に、テキーラはドクターの身の回りのことをよく手伝った。デスクの片付けから資料の整理、事後処理まで。一つでも多く感謝の言葉をかけてもらいたかった。勿論、よく思われたいという算段もある。彼は自分自身のことを、醜悪な男だと度々思っていた。
テキーラは自身の人生を、特別悲惨だとは思っていない。不幸の断片は、あちこちにあったかもしれないが。
彼の父は、自身の胸に灯る「愛国心」のために、まだ子供だった息子と妻を残して何年も家を空けていた。その間に彼の妻――つまりはテキーラの母は病に侵され、闘病の末に死んだ。テキーラは一人きりでそれに関わる諸々の処理を行い、それが片付いた頃になってようやく、父親が家に戻ってきた。
父と共に軍について、ボリバルの各地を転々としたこと、少年予備軍として軍事訓練を受けたこと。母親の病死も含めて、それらは事実として彼の中に存在し、大きな悲しみや慟哭を呼び覚ますほどのものではない。ただ、戦争という物事に対し、ぼんやりとした忌避感を抱かせるようになった。
自分の生涯や顛末について、テキーラは慰めを必要としない。共感もだ。何度も言うように、彼は自身の人生を悲惨だとは思っていない。そう思えるように彼の内面が徐々に作り替えられていったのか、生来からそうであったのか。どちらにしても彼にはどうでもよかった。
ただ、それらの旅路を経たうえで、ドクターからたった少しでも、他の誰かより多く好かれることができたら、何かが報われたように彼には思えるのだ。それは祈りのようにささやかな想いだった。
「ドクター、ほら、起きて」
デスクの上で傾きかけた肩を揺さぶる。ドクターは緩慢な動作で上体を起こすと、眠気を払うように首を左右に振った。フェイスシールドの奥にある目がどんな風にテキーラを見つめているのか、テキーラには分からない。まどろんでいるのを邪魔されて、嫌な奴だと思ったんじゃないだろうか。彼の指先が急に冷えていく。
「ごめんね。でも、五時までに作っておかなきゃいけない書類があるんでしょ?」
「……ううん。起こしてくれてありがとう、テキーラ」
ドクターの声は、まだ半分夢の中にいるようにぼんやりとしている。テキーラは何だかむず痒い気持ちになって、「濃い目のコーヒーいれてくるね」と言って逃げるように備え付けのキッチンに向かった。コーヒーを用意しながら、菓子棚からクッキーを一枚取り出す。それをオーブンで焦げ目がつかないくらいに軽く火を通した。こうすると、作り立てみたいにおいしくなる。ドクターにコーヒーを出すとき、こうして受け皿にクッキーを添えてあげるのが、テキーラの習慣になっていた。
「……」
焼き上がりを待つ間、よく磨かれたシンクをじっと見つめた。彼の青い目がそこに映っている。キッチン横の窓辺には、花の活けられていないガラスの花瓶が置かれている。テキーラが用意したものではない。
他のオペレーターの痕跡は、見つけようと思えばいくらでもあった。まるで染みのように部屋中に張りついたそれらの気配を、テキーラはいつも感じ取っていた。彼を責めるみたいに、もしくは監視するようにしてあちこちに偏在している。彼がコーヒーを持ってデスクに戻った時、ドクターはまた舟をこいでいた。
「ああ、ほら、ドクター……」
テキーラはさっきと同じような言葉でドクターを起こす。細心の注意を払って。余計な言葉をつけ加えて嫌われたくないのだ。
「んぁ、パフューマー?」
身を起こしたドクターがむにゃむにゃと言う。テキーラは「ちがうよ」とだけ返して、コーヒーを置きながらデスクの上を軽く整えてやった。
床の冷たさが、スラックス越しに尻に伝わる。もし自分がこんな風に座り込んでいる女の子を目にしたら「体を冷やしちゃうよ」と声をかけるだろう。しかし自分は可憐な女の子ではないし、そもそもこんな場所に通りかかる人はそうそういない。
テキーラは、ロドス最上階の端にあるスペースで暇を潰していた。もとは甲板に出入りするための場所だったのだろう。その扉はいま閉鎖されており、彼はそこに背中を預けて座りこんでいた。学校の、屋上に通じるスペースと似たようなものだろうか。人の出入りがほとんど無いこの場所を、テキーラはたびたび訪れていた。今のような、次のシフトまで中途半端に時間が余ってる時なんかに。
壁や天井の、無機質な光沢をぼんやりと眺める。配線が剥き出しになった箇所もあり、時折光を帯びるそれに、この舟の脈動が感じ取れる気がした。無意味に手を握ったり開いたりする。手のひらから手首の方に流れていく血の感触。
今から数百年以上前の、いわゆる自分の祖先にあたる人たちは何をしていたのだろう。心に決めた相手と結婚して、一生を終えたのだろうか?その人のために詩を書いたり、抑えきれない愛おしさに身を任せて、その人を力強く抱きしめたりもした?それは今の自分と、ひどくかけ離れた生き方のように思える。テキーラはドクターのことを頭に思い浮かべた。ソファーの上で縮こまるようにして仮眠を取る姿や、まだ熱いコーヒーを一口ずつ啜る姿を。
彼がふと我に返る。足音が聞こえたためだ。それは確実に、こちらに向かって近づいてきている。面倒だな、と彼は思った。眠っているふりでもしておこうか。こういう時、テキーラのようなタイプが人気のない場所でぼんやりしていると、いらぬ詮索をする人がたまにいる。
もしここにいるのが彼の妹であれば、そうはならないだろう。誰もが微笑ましそうな顔をして、何してるの?お尻が冷たくならない?と聞いて彼女に手を差し伸べるはずだ。その、妹と相対する者の姿が、ぼんやりとした人影からドクターへと彼の頭の中で形を変える。
足音がいよいよすぐそこまで迫る。アーミヤさんだったらどうしよう?別に悪いことをしてるわけではないけれど。テキーラは「突然の来客に驚いた顔」をすぐに作れるよう準備した。しかし、階段の向こうから少しずつ覗く姿に、黒いフードの先端が見えて、その準備はほとんど無意味になった。
「……ドクター?」
テキーラはややうろたえながら、フェイスシールドに覆われた顔を見返した。ドクターの方は、さして驚いた風もなくテキーラに歩み寄る。
「どうしたの、それ」
テキーラがそう訊ねる。ドクターはもう目の前に立っていて、言及するには少し遅いタイミングだった。彼が手にしているものに、テキーラが本当に驚いていたからだろう。
ドクターは、ひまわりを一輪手にしていた。執務室で見た小さな花瓶に活けている。随分と違和感のある光景だった。ドクターが花を持って艦内をうろついていることもそうだったが、そのひまわりにしてもそうだ。目の冴えるような黄色と、ブラックホールじみて黒々とした中心部分。陽光の下で見れば周囲によく馴染んでいるだろうに、こうして目の前に出されるといかにも異物めいたものに見えてしまう。
「育てたんだ、温室で」
パフューマーたちに手伝ってもらいながら、肥料とか水とかをあげてさ。夏場と同じ室温にするのが難しくて、なかなかうまくいかなかったんだけど……。なぜか言い訳のようにもごもごと言うドクターに、そうなんだ、とだけテキーラは返した。
「それ、どうするの?飾るの?」
彼がその花を持ってこんな僻地にまで来た意味が分からないまま、そう訊ねる。ドクターが首を左右に振った。
「もし良ければなんだけど」
「うん」
「君にあげたいと思って」
「……」
生々しい沈黙が、その場に落ちた。テキーラが言葉の意味を理解するのにそれだけの時間がかかったのだ。困惑しきった、きまり悪そうな声で「俺、誕生日じゃないよ」とテキーラが言う。
「知ってるよ」
ドクターはどこかからかうようにそう答えた。
「だって、君にはいつもお世話になってるから。優しくしてくれるし、仕事も手伝ってくれるし」
「……」
「本当は、もっと実用的なものがいいかなって思ったんだけど、君って必要なものは自分で揃えちゃうタイプだと思って」
「うん」
テキーラは立ち上がった。その顔には微笑が浮かんでいる。差し出された花瓶を丁寧に受け取った。
「ありがとう。嬉しいよ」
ドクターがふっと安堵したのが分かる。テキーラはもう一度その花を見返した。大ぶりで、色鮮やかな花びらとは対照的に、香りらしいものが少しも感じられない。中心の黒々とした部分が、まるで奈落のように鎮座している。自分にお似合いの花だな。彼はぼんやりとそう思った。花びらに指先で触れると、わずかに湿っていて、すべすべとした感触が伝わってくる。テキーラの、影がかかった目元が笑みの形に細められた。もし、今までの旅路を形にするなら、この花の形をしているのだろうか。
「部屋に置いてこなきゃ」
彼はドクターに視線を向けて「ついてきてくれる?」と尋ねた。
「うん」
「じゃあ、手をつなぎながらでもいい?」
そう続けると、返事をするより先にドクターが手を取った。防護用の分厚い手袋越しなのに、小さいと感じられる手。「ありがとう」とドクターが言った。
「うん?なんでお礼?」
「ちょうど私もそうしたいと思ってたから」
テキーラはつい、フェイスシールドの向こう側を覗き込もうとした。しかし反射した照明の光に遮られて、目も鼻もそこに見つけられない。防護服に包まれたその肌を、彼は触れたことがなかった。けれどそのフードの下は、花よりも甘い香りで満たされているような気がした。
テキーラはよき隣人だ。少なくとも、ドクターの前ではそう振舞おうとしている。部屋に飾られたひまわりの花が、それを証明しているだろう。