あんな風に笑うくせに

これが夢であることを、ミスラはすぐに理解した。忌々しい厄災の傷によって不眠症を負わされてからというもの、夢自体を見ることが少なくなったミスラだが、それでもたった今目の前に広がる景色が、夢の産物であることに気づくのは容易かった。
立ちすくんでいるミスラのずっと遠くで、賢者が楽しげに花畑の中を駆けている。一面に咲く花の名前について、ミスラはもう忘れてしまったが、馬鹿げた響きをしていたことだけは覚えている。花にしては背が高く、緑色のまっすぐな茎の上に、卵の殻に似た花びらが乗っている。その花びらは赤や黄色や白など様々あり、賢者を囲む花たちも、目がチカチカするほど色にまとまりがなかった。
ミスラは黙って、この悪夢じみた光景を眺め続けた。例えばこれが南や西の魔法使いなら、おとぎ話のように美しく愛らしい夢だと表現するのかもしれないが、ミスラにとってはそうではない。ミスラが思う、穏やかで美しい景色とは、例えば水面が凍った湖や、耳鳴りがするほど人の気配が感じられない雪原や、水晶と見間違うほど鮮やかなオーロラをなびかせた夜空のことである。こんな、埃っぽく、土くさい、下品な色をした花ばかりの景色を見て、穏やかになんてなれるはずもない。何より、賢者がミスラをまるで居ないもののように扱っていることが気に食わなかった。
そう思っているうちに、夢の中でずっとこちらに背を向けていた賢者が、ついにミスラを振り返った。その顔には、ミスラが一生かかっても浮かべることがないだろう、溌剌とした、愛らしい、慈愛に満ちた、幸福そのもののような笑顔が浮かんでいた。賢者はミスラと目が合うと、笑顔を浮かべたまま大きく手を振った。賢者のその行為が、どういった反応を期待してのものなのかが分からず、ミスラは何もせずただそこに立ち尽くした。それでも賢者は気を悪くした様子は無く、笑顔のまま前に向き直り、また花畑を駆けていった。
あんな風に笑うくせに、とミスラは苛立った。あんな風に、笑いかけてくるくせに、愛おしそうにこちらを見つめてくるくせに、脅されたわけでも、暴力を振るわれたわけでもないのに、毎晩同じベッドに潜り込み、隣に体を横たえて、手を繋いで、夜を明かしてるくせに、こうして蔑ろにするのかと、これが夢の中の出来事で、あれは偽物の賢者だと分かっていても、ミスラは怒りを覚えてしまった。
だから、ミスラはその感情のままに、呪文を唱えた。現れた扉を迷いなく開けて、その向こうへ降り立つ。ドアの向こうは、さっきまでと全く同じ景色だった。唯一違うのは、手を伸ばして届く位置に賢者の後ろ姿があることだった。
今この瞬間にも遠ざかろうとする背中に向けて、ミスラは手を伸ばす。手の中に賢者の腕が収まるまでの一瞬の間、ミスラは空想する。賢者に相応しいのは、こんな狂気じみた景色ではない。彼に似合うのは、例えば息さえ凍ってしまいそうな雪原や、死の匂いが漂う湖だろう。ミスラと賢者以外誰も存在しない、骨ばかりの湖の中で、生温かい息を吐いて、笑っている方がきっと似合う。そうして、その瞳や、唇や、舌や、皮膚や、その下の臓器全てが、ミスラのためだけに存在して、ミスラの全てを求めてさえくれれば、きっと全てがうまくいくのに。きっと自分たちはもっと、今以上に分かり合えるはずなのに。ここも魔法舎も、あまりにも雑音が多すぎる。
賢者の腕を捕まえたミスラは、彼が振り返るのを待たずにドアの内側へと勢いよく引き寄せた。死の湖へと繋がったミスラの背後から、おぞましいほどの冷気が忍び寄る。生命の陵辱を思わせる空気に、自然と口の端が釣り上がる。急激な気温の移り変わりに、賢者の唇から吐き出される息が、徐々に白く色を帯びていく。可視化されていく賢者の生命の証拠に、ミスラは堪らなくなって胸に抱いた彼の額へキスを落とした。
夢から覚めた世界で、今頃自分の隣で寝ているだろう本物の彼も、同じ夢を見ていてくれればいののにと、強く強く願ったミスラの想いは、確かに愛と呼べるものだったのだろう。