代替

西の国で依頼をこなし魔法舎に帰還した賢者は、真っ直ぐに自室へ向かった。ドアを開けて、室内に足を踏み入れると、慣れ親しんだ部屋が彼を出迎える。
すると、主が居ないはずの部屋の中で、ベッドが歪に膨らんでいた。賢者は反射的に身構えたが、上掛けからはみ出している赤い髪を見た瞬間、恐怖は安堵に変わる。今現在、賢者のベッドを我が物顔で使っている赤い髪の持ち主は、あの北の魔法使いミスラだった。
ミスラの不眠を治すために、賢者がミスラに添い寝を始めて早数ヶ月が経った。今まではミスラの部屋で落ち合い、添い寝をするのがお決まりだったのだが、最近のミスラは賢者の部屋で待ち構えていることが多い。それが彼の気まぐれによるものなのか、何か理由があるのかは分からないが、特に不都合もないので賢者はそれを受け入れている。
そんなミスラの姿に、賢者はふっと頬が緩むのを感じた。まるで、普段甘えてこない飼い猫が、玄関まで出迎えてくれたような微笑ましさがあった。そんな可愛らしい空想を頭に描きながら、賢者はそっとミスラに近づく。しかし、ベッドまで後一歩というところで賢者の足が止まる。視界の中に、あり得ないものが映っていた。
ベッドの膨らみが、一つ分多い。
まるでミスラに寄り添うようにして、彼より一回り以上小さい膨らみが隣に鎮座している。ミスラが庇うように腕を回しているので、部屋に入った直後は気がつかなかった。
賢者の頭の中に、嫌な想像が次々浮かび上がる。それは、この場から逃げ出したくなるような、ミスラを今すぐ突き飛ばしてしまいそうな内容のものばかりだ。賢者は震える足を叱咤し、ベッドに一歩近づいて、ミスラの隣を覗き込む。「それ」の胴体が先に視界に入る。賢者の脳内には、豊満な体つきをした女性の裸体が浮かんでいる。それを塗りつぶすように、目の前の「それ」の姿が目に飛び込んでくる。
横たわるそれは、ベッドの中だというのに白い上着を着込んでいた。ミスラに隙間なくぴったりと密着した体に、賢者の目の奥が熱くなる。ぶれ始める視界の中で、「それ」の姿だけが鮮明に映る。ミスラの腕の中にいるのは、紺色のベストと、薄青のシャツと、白いネクタイを身につけた__細長い抱き枕だった。
「……」
「あれ、賢者様」
気がついたミスラが、賢者の方へ寝返りを打つ。よりあらわになった隣のそれは、正真正銘、ミスラが愛用している三日月型の抱き枕だった。それが何故か、賢者の服を着込んでいる。
「あの、ミスラ、それは……」
「ああ、これですか」
ずるり、とミスラの手で抱き枕が上掛けから引き摺り出される。
「あなたの代わりになるかと思って、服を着せてみました。まあ、無駄でしたが」
そう言うと、あまりにおざなりな仕草で、抱き枕がミスラの背中と壁の間に押し込まれる。「もう用済みだ」と宣言されたかのようで、溜飲が下がるのを賢者は感じた。
ミスラがベッドの端に寄り、賢者のためのスペースを作る。そして賢者を見上げた瞬間、彼は目を瞬かせた。
「何ですか、その顔」
「……顔、って……」
「誰かに虐められたんですか」
そんなにひどい顔をしているのだろうか。否定するために賢者はぎこちなく唇の端を持ち上げてみるが、それでもミスラの怪訝そうな表情は変わらない。知らず知らずのうちに、震える唇が胸の内を明かそうとしていた。
「……ミスラ、が……」
「俺は何もしてませんよ」
無垢にも思えるミスラの返答の仕方が、より自分の醜さを自覚させられたように思えて、賢者の胸がより締め付けられる。自制心を取り戻せるほどの余裕を、賢者は既に失くしていた。口にすべきではないことが、衝動のままに喉を這い上がる。ミスラは何も悪くないのだと分かっていても、嫉妬のぶつけ先を無理やりにでも作りたかった。
「ミスラが、俺以外の人と寝てるのかと思って……」
言い終わるより先に、賢者は力無く俯いた。ミスラの目を見ることができなかったのだ。勝手に期待して、勝手に失望したことが、何よりも恥ずかしかった。名前の付いた関係でもないのに、一体何を期待していたのだろう。視界が滲み始めた事実でさえ、自己弁護のように思えて賢者はそれさえも恥ずかしくなった。
そんな賢者の耳に届いたのは、この場に似つかわしくない、楽しげなミスラの声だった。
「へえ」
賢者が弾かれたように顔を上げた先で、ミスラは悠然と笑っていた。顎を引いて、愉快そうに目を細めて。上目遣いではあったけれど、そこに媚はなく、むしろ弱者を見下ろす強者のような、罠にかかったネズミを眺める猫のような、陵辱者の目をしていた。釣り上がった唇の奥で、赤い舌がゆらりと波打つ。
食われる、と思った。ミスラが賢者を食い殺すなんて、万が一にもあり得ないと知りながらも、賢者はそう思ってしまった。そしてその想像通り、ミスラが賢者へ飛びかかる。震える足は逃げることすらできず、容易くミスラの腕の中に収まった。そのまま背中から床に叩きつけられるだろうと、いずれ来る痛みに怯え目を瞑った賢者は、次に奇妙な浮遊感に襲われた。ぐん、と体が前に引っ張られる。嗅ぎ慣れたミスラの体臭がふいに鼻を掠めたかと思うと、ばふん、と音を立てて毛布が舞い上がるのが分かった。訳もわからず、ベッドの上を転がされる。ようやく目を開けた時、賢者の目に映っていたのは、こちらに覆い被さっているミスラの顔だった。
上掛けを頭から被っているせいで、ミスラの顔は逆光を浴びたかのようになっている。しかし、僅かな光によって輪郭のみが照らされたその顔は、彼の美しさをより一層際立たせていた。サディステックな笑顔を浮かべながら舌舐めずりをする姿に、賢者の顔が自然と熱くなる。彼にどんな言葉を返すべきなのか、のぼせた頭は少しも考えをまとめられず、ようやく絞り出した言葉は、ただ事実を並べただけだった。
「……とても、楽しそうですね」 
「はい。それはもう」
「……俺、何を、されるんでしょうか……?」
「何をされたいですか?」
反芻された質問に、賢者の目が丸くなる。こうした形で聞き返されるのは、ミスラを相手にしてきて初めてだったように思える。間抜けな顔を晒す賢者に、ミスラは無邪気にも「あはは」と声を上げて笑った。
「何でもしてあげますよ。今の俺は機嫌がいいので」
思わず、何も返せなくなる賢者の目の前で、ミスラがぱかりと口を開ける。牙と舌が覗くその口元に、思わず賢者はぎゅっと目を瞑って身を硬くした。衣擦れの音と、密着する体。限界まで神経が研ぎ澄まされた賢者の体を襲ったのは、唇に吹きかけられる生温かい息と、押し付けられる柔い感触だった。