談話室

ミスラは談話室の一人がけのソファーに座り、ひたすらに目を閉じていた。高級そうな布地で作られた、ふかふかとした肘掛けの感触を両手に感じていたが、ミスラがそれを心地よいと思うことはなく、むしろ彼を苛立たせるばかりだった。目を閉じているミスラは、まぶたの裏に浮かんでいる白黒の渦巻き模様をかけこれ数十分は見つめ続けている。それらはミスラの機嫌によって緑色になったり、砂嵐のようになりながらも、ミスラの睡魔を呼び寄せることはなかった。
あと何時間こうしていれば、自分は眠れるのだろうか。絶望にも似た鬱々とした気持ちが、ミスラの胸を満たす。眠りたいと願えば願うほど、ミスラの精神はむしろ昂り、入眠とはかけ離れた状態になっていく。目を閉じて、聴覚を鈍らせ、何も考えないようにしようとすればするほど、瞼の裏のぐるぐるは鮮明になり、耳は時計の針が時間を刻む音を拾い、頭はどんどん冴えていく。
深夜一時、魔法舎の殆どの魔法使いが眠りについている時間である。数時間前にベッドの中で目を閉じて、同じように目を閉じ続けたもののやはり眠れなかったミスラは、こうして談話室のソファーへと場所を移していた。場所を変えれば何かの拍子に眠気がやって来るかと期待したが、結果はこの通りである。
こんな時、ミスラは最後の頼みの綱として、賢者の元を訪れる。賢者をベッドの中へ連れ込み、手を握って目を瞑る。すると、不思議と眠れるようになるのだ。既に賢者が寝ていたら、彼のベッドの中にお邪魔することもあった。最近は、賢者の方からミスラを訪れて添い寝をするようになったので、そのような光景は少なくなった。
以前は数時間かけて入眠していたが、最近はコツを掴んだのか、眠るのに数分もかからない。そのせいだろうか。久しぶりに賢者が不在の、眠れない夜を迎えたミスラは、眠りたくても眠れないこの状況に以前よりずっと苛々していた。
残念なことに、賢者は現在この魔法舎には不在である。今頃、西の国の宿屋かどこかで眠っているはずだ。数日かかるだろう依頼に今朝向かったばかりなため、明日も帰ってくるか分からない。それがまたミスラの機嫌を悪くさせた。
ミスラは頭の中で、賢者の手の感触を思い出そうとした。ミスラの手にぴったりとなじむ、そのために作られたような形をした手。触れるとすべすべしていて、確かな弾力を持ってミスラの手を押し返してくる。あたたかく、適度な水分を含んで、しっとりと吸い付いてくる皮膚の感触。ミスラが気まぐれにするりと指を動かすと、賢者のつるつるとした爪が指の腹に触れた。
眠るために賢者の手を思い返していたミスラは、口の中に唾が溜まり始めたのを感じた。こくりとそれを飲み下して、閉じた瞼の裏により鮮明に賢者の姿を映し出そうとする。
ミスラの体は既に、睡眠欲とは別の欲求に支配されかけていた。下腹部に全身の血が集まり、逆に頭の中は血が足りなくなってぼんやりとし始める。それなのに五指や肌の感覚は奇妙に研ぎ澄まされ、深夜特有の冷えた空気さえ、興奮の材料になろうとしていた。
こくりと喉を鳴らして再度唾を喉に送りながら、入眠は一旦諦めて、気晴らしに何かしてしまおうか、とミスラは考えた。何かとは思いつつも、頭の中に浮かぶ選択肢はほとんど一つだった。ソファーの上で身じろぎすると、鋭敏になった聴覚が自身の衣擦れの音を拾った。その時だった。ミスラの耳が、自分以外の音を拾った。
小さな靴音と、わずかな気配。ミスラの意識は、その気配を暗闇から切り取るように正確に感じ取った。目を閉じていても、その気配が談話室の入り口に現れたこと、そして躊躇うように視線を彷徨かせていることさえ分かった。近づいてきて欲しい、と思った。その気配が、無防備にミスラに近寄って、手を取って、縋り付くように体を預けてくれたら、これ以上望むことは無いと思えるほどだった。しかし、それが談話室を出ようとミスラに背を向けたのが分かったので、ミスラは面倒臭いと思いながらも口を開いた。
「起きてますよ」
ミスラの言葉の後に、息を呑む気配がして、それから控えめな靴音が戸惑いながら近づいてくる。ミスラが重たげにまぶたを持ち上げると、そこにはまるで幻覚のように、ミスラが思い描いた通りの賢者の姿があった。
もう深夜だというのに、昼間と変わらない制服じみた格好をして、戸惑いながらミスラを覗き込んでいる。ソファーの肘掛けにそっと置かれている手が妙に愛おしくて、ミスラはついそれに自分の手を重ねた。小さな手は一瞬ビクリと跳ねた後、力を抜いてミスラの拘束を受け入れた。桃色をした唇が、ミスラの視線の先でそっと開かれる。
「すみません。起こしてしまいましたか」
「構いませんよ。眠れてませんでしたから」
「えっ、じゃあ……」
「ただ目を閉じていただけです。それより、」
そこで言葉を区切ると、ミスラは再度賢者の姿を上から下まで舐めるように眺めた。血色の良い肌も、きっちりと着込んだ服も、春の空気のような気配も、全て現実のものとしてミスラの目の前にあった。もしや、賢者に会いたいばかりに自分が無意識に幻覚を作り出したのではないかと思ったが、そうではないらしい。ミスラの考えを汲み取ったのか、賢者は微笑みながら口を開いた。
「依頼が思ったより早く終わったので、帰ってきたんです」
「はあ。こんな夜遅くに?」
「はい。俺のわがままで。西の魔法使いたちが了承してくれたので帰ってきちゃいました」
ミスラが待ってるかなって、思ったので。まるで悪戯を共有する子供のような表情をして、賢者はそう告げた。その言葉に、ミスラは言いようのない興奮が湧き上がるのを感じた。控えめで無欲とも取れるような賢者が、西の魔法使いたちに対し、無理を言って今日中に魔法舎へ帰ってきたのだ。依頼がいつ終わったのかは分からないが、仕事を終えたのであれば向こうで一泊して、体を休めた後に帰りたいと思うのが普通だろう。それを、ミスラのために賢者はわがままとも取れる要求を西の魔法使いたちにしたのである。
「だから、今度西の魔法使いたちにお礼をしなきゃいけませんよね。でも、みんな快く受け入れてくれて……というかはしゃいでました。信じられないかもしれませんけど、一番興奮してたのがシャイロックだったんですよ。珍しいとか言って……」
そこで、はたと賢者は口を閉ざした。じっと自分を見つめるミスラの視線を受けて、申し訳なさそうに頬を赤くする。
「すみません。ミスラは眠りたいのに、こんな、喋っちゃって……」
身を縮こませる賢者に、何を謝罪しているのだろうとミスラは思った。賢者の唇が忙しなく動く様を見れたミスラは、別に不快な思いなどしていないのに。
「お部屋に行きましょうか」
重ねられていたミスラの手に、そっともう片方の手を重ねて包むようにしながら、賢者はそう言った。まだお風呂に入ってないので汗臭いと思うんですけど、側で手を握ってあげるくらいなら気にならないと思うので__。そんな風に続けられる声を、ミスラは遮った。
「その前に、やりたいことが一つあるんですけど、いいですか」
「……?はい、構いませんよ」
「じゃあ、座ってください」
そう言って、ミスラは自身の膝を叩いた。賢者はそこに一度視線を落とすと、眉を寄せてミスラの顔を見返す。
「俺の脚にまたがるようにして、座ってください。俺の方を向いて」
ミスラが付け足すと、賢者は未だに納得していないような顔でその通りにし始めた。奇妙なほどにそろそろとした動きで、ソファーからはみ出たミスラの長い脚を跨ぐ。ミスラの脚を両脚の間に収めた格好で、賢者はぴたりと立ち尽くした。ここまできて躊躇う様子に、焦ったくなったミスラは賢者の尻を抱き寄せるようにして引き寄せた。「あっ」と声が上がり、賢者の膝がカクンと崩れる。ミスラの膝の上に軽い衝撃が与えられ、瞬きのうちに賢者の胸元がミスラの目の前に迫っていた。
反射的に飛び退こうとする賢者の体を両手で抱きしめ、ミスラは鼻先を細い首筋へ埋める。慣れ親しんだ匂いと体温が、ミスラの腹の底を焦がす。賢者の首筋がうすく湿り気を帯び、汗の匂いが一気に濃くなる。ミスラは深く息を吸い、その匂いを堪能した。
匂いを嗅ぎながら、ミスラは賢者の背中に回していた手を移動させる。背中から脇腹へ、舐めるように撫でた。その後は、本能のままに賢者の体を服越しに撫で回した。体温のこもったジャケットの内側で、ベスト越しに感じる賢者の体は、やけにみっしりと肉が詰まっているように感じられる。ミスラが撫でるたびにピクピクと震える反応といい、確かに賢者がここにいるのだという実感をミスラに与えた。ミスラの動きに合わせて、清潔そうなシャツに寄っている皺が形を変えていく。それをぼんやりと眺めながら、どうしてこの人はこんなにも厚着しているのだろうと思った。
鎖骨を見せつけるようにシャツを着崩しているミスラと比べて、賢者はあまりにもかっちりと着込みすぎている。なにせシャツにネクタイを結んで、その上ベストまで着ているのだ。肌を見せないことで、賢者という立場のために清楚らしい印象を与えようとしているのだろうか。しかし、肌を見せない方が逆に禁欲的で色っぽく見えるように思えた。現に、ミスラは隠された賢者の肌を想像して、昂っている最中だった。
ミスラの手が、ベストの内側に潜り込んだ。「ひ」と声が上がるのも気にせず、その奥のシャツへ指を這わせる。薄いシャツは僅かに湿っていて、ひどくあたたかい。なだらかな平原を彷徨っていたミスラの指は、薄い胸の中に、わずかに尖っている突起を見つけた。それを確かめるように指先で捏ねると、賢者が強く身じろぎをした。それがなんだか気に入らなくて、シャツ越しに弾くように突起を弄ぶと、腕の中の体が一気に強張った。ぶわりと汗の匂いが強くなる。なんだか楽しくなったミスラが続けようとすると、鋭い声とともに肩を強く押し返された。
「ミスラ!」
賢者はミスラの上に座ったまま、両手でミスラの肩を押し退けたらしい。距離をとったことで、久しぶりにミスラの視界に賢者の顔が収まる。首から上を真っ赤にして、額に前髪を張り付けている。息を整えながら、賢者は言い聞かせるように言った。
「部屋に、行きましょう。もう遅いので、寝ないと……」
途切れ途切れに言う声をぼんやりと聞きながら、ミスラは壁にかけられた時計を見る。既に午前二時近い時刻にまでなっていた。
ミスラは妙な窮屈さを感じた。例えるなら、突然夢から覚醒して、天井を眺めている時のような心地だった。すん、と鼻を鳴らしてみるが、そこに賢者の体臭は感じられず、談話室の乾燥した空気があるだけだった。ミスラはほとんど本能的に賢者へ両手を伸ばしたが、賢者の手に両方とも絡め取られる。
「ベッドに行きましょう。ね、ミスラ」
賢者の囁く声に、ミスラは素直に従った。限界まで上り詰めた興奮を無理やり抑え込まれて、心がまだ追いついていない状態だった。視線は賢者の乱れたシャツに注がれたまま、上の空の状態で魔法を唱え、何も無い空間に扉を作る。
確かに賢者の言う通り、ミスラはたった今、何よりも強くベッドに行きたいと思った。けれどそれが、眠りたいという欲求のためか、それとも賢者の体をベッドに押さえつけたいという欲求のためなのか、判断がつかなかった。ミスラは子供のように賢者に手を引かれるまま、ソファーから立ち上がり扉をくぐり抜ける。扉が消えて、無人になった談話室には、二人の熱気と匂いが確かに残されていた。これから二人が夜を過ごすのだろうミスラの自室にも、同じような熱や匂いがこもるのか、それは賢者とミスラの二人以外に知り得ないだろうことだった。