日付が変わる直前になっても、ミスラは魔法舎に帰っていなかった。賢者はミスラの私室のベッドに腰掛け、ぼんやりと部屋主を待ち続けた。添い寝の約束をしていたわけでは無いので、ミスラが今夜帰ってくる保証なんて無いけれど、なんとなく自室に戻る気にはならなかった。
「あの歳で夜遊びを覚えたんじゃろう」「賢者ちゃんを待たせて遊び歩くなんて、悪い男じゃのう」と先程廊下で会った双子は笑っていた。てっきり気晴らしにどこかを散歩しているのかと思っていた賢者は、夜遊びという言葉に驚いた。確かに、実年齢はともかく見た目は成人男性の姿をしているミスラなら、夜に出歩くといえばそちらの方が自然だ。不眠の苛立ちを忘れるくらい、夢中になれるお酒や遊びや、もしくは恋人のような存在を見つけられたなら、ミスラにとっては幸福なはずだ。それなのに、賢者は形容し難い感情が胸に満ちるのを感じた。例えるなら、たった今賢者のすぐそばに転がっているミスラの枕を、部屋の壁に叩きつけてしまいたくなるような感情だった。
待ち続けても、目の前の扉から待ち人が現れる気配はない。もう、自分の部屋に帰って寝てしまおうか。賢者がそう思った瞬間、視界の隅で眩い光が溢れ出すのを捉えた。慌てて振り向くと、そこには予想通り、空中に溶けて消えようとしている扉と、そこから現れたのだろうミスラが居た。
「やっぱり、こっちに居たんですね」
先にあなたの部屋へ探しに行くか、迷ったんですよ、と独り言のように零しながら、ミスラは賢者の隣に座った。袖が触れ合うほどに近づいたミスラの体は、外の冷えた空気をまとっている。賢者は突然現れたミスラに驚きながらも、どもりながら「おかえりなさい」と口にする。そしてようやく、ミスラが手にしている長方形の箱の存在に気がついた。
「あの、それは……」
「ドーナツです」
ドーナツ、という言葉を理解するより先に、目の前に箱が差し出される。反射的に箱を受け取り蓋を開けると、シナモンの匂いが一気に室内へ溢れ出した。ざっと見ただけでも30個は超えるだろうドーナツが、箱の中にぎっしりと詰まっている。賢者の鼻先に届いた空気はあたたかく、このドーナツたちが出来立てであるのが分かった。こんなに大量のドーナツを差し出されたことのない賢者は、それだけで目を回しそうなくらい混乱した。
「夜しかやってない店があるんですよ。穴場みたいなところで。それを買ってきました」
「……もしかして、それでこの時間に帰ってきたんですか?」
「はあ。そうですけど」
本当はもっと早くに帰れる予定だったんですよ。でも開店時間ちょうどに店に行ったらもう並んでる奴らが居たんです。ムカつきますよね。俺より弱いくせに早く並んでたからって理由で先にドーナツを買ってて。
ミスラの言葉を聞きながら、いかにも北の魔法使いらしい感想に賢者は思わず笑ってしまった。それを見たミスラは「そんなに嬉しいんですか?」と不思議そうにしながらも、満足気な顔を見せた。
「甘いものが好きだって前に言ってましたもんね」
「……?前って……」
「一昨日食堂で言ってたじゃないですか。ああ後、二ヶ月前も言ってましたっけ」
賢者はミスラの言葉を頼りに記憶を辿ってみるが、どうも思い出せなかった。本人すら忘れていることをミスラが記憶していたのかと思うと、賢者は胸がぎゅっと締めつけられるような気持ちになった。このままだと妙なことを口走りそうな気がして、慌てて思いついたことを取り敢えず口にした。
「明日の朝になったら、魔法舎のみんなにもあげましょうか」
30はゆうに超えているドーナツ達は、明らかに賢者とミスラだけでは食べきれない量に見えた。時間が経てば味は落ちるだろうが、それでも腐らせてしまうよりはずっと良いだろう。中々いい提案だったのではないかと賢者は思ったのだが、見上げたミスラの顔は予想外にもきょとんとしていた。
「どうして」
「え?」
「あなたのために買ってきたのに」
そう口にするミスラの顔は、ひどく無垢な、まるで渡したプレゼントを目の前で床に叩きつけられたような、無邪気さと悲しさと驚きが混ざり合ったような表情をしていた。賢者は慌てて、まるで言い訳するかのように理由を話した。
「あ、いえ、二人だと食べきれないなって思って……」
「俺なら一瞬で食べきれますよ」
「そ、そうですか?」
「そうですよ。だから二人で全部食べましょう」
そう言うと、ミスラはドーナツを一つ、ひどくおざなりな仕草で掴んだ。そして、有無を言わせない速さで賢者の口元に持っていく。目の前に迫るドーナツに、もう歯磨きを済ませてしまったことや、夜中に食べるドーナツのカロリーのことが瞬時に賢者の頭の中に浮かんだ。しかしそれらについて結論を出す前に、賢者の口にドーナツがぎゅうっと押しつけられる。出来立てのドーナツは、唇に触れた箇所から表面にまぶされた砂糖がじんわりと溶け出していく。唇にぶつかっても尚押し込む力を緩めないミスラの手に、賢者は慌てて口を開けた。
口内が狭く感じられるほど、ドーナツが一気に押し込まれる。このままだと喉まで塞がれて窒息しそうだったため、押し込まれた部分を奥歯で咀嚼すると、その瞬間に甘ったるい香りが賢者の鼻を抜けていった。舌の上にほろほろと落ちていったドーナツの欠片は、唾液と混ざり合って喉奥に消えていく。
しばらくドーナツを胃に収めるので必死になっていた賢者は、ふと視線を感じ顔を上げた。見ると、ミスラが微笑みながら賢者の様子をじっと見つめていた。陽だまりに寝そべる猫のような、幸福と慈しみに満ちた、一度も傷つけられたことのない子供のような微笑。「俺を助けたいと思う人なんて、もうこの世界にあなたぐらいしかいない」と語った時のような、無邪気さと慈愛がない混ぜになった表情に、賢者はたった一瞬、心臓が凍りつくような衝動を受けた。
慌てて目を逸らし、ドーナツを咀嚼するのに集中しようとする。そんな目で見ないで欲しい、と思った。まるで自分がミスラにとって大切な、かけがえのない、愛おしい存在であるかのように錯覚してしまう。そんなことは絶対に無いはずなのに、自分の価値も忘れて思い上がってしまう。
忙しなく動く舌の上に、油と砂糖の味がじんわりと染み込んでいく。口いっぱいに詰め込まれたドーナツに、まるでミスラの愛情のようだと賢者は思った。窒息しそうなほど詰め込まれて、身動きができなくなって、きっと自分は特別なんだって勘違いしそうになるけれど、本当はミスラが今まで出会った人たちに注いだ愛情の、千分の一も無いはずなのだ。
そんな賢者の気も知らないで、リスのように頬を膨らませ黙々とドーナツを食べる姿に、ミスラは「あはは」と声を上げて満足そうに笑った。
「本当に好きなんですね」
口いっぱいにドーナツが詰められている賢者は、声が出せない代わりにこくこくと頷いた。視界の端で、ミスラが2個目のドーナツを手に取るのが分かった。ドーナツに口内の水分を奪われて、カラカラになった喉で賢者は「苦しい」と思った。けれど、ミスラを拒絶することもできず、また口に運ばれるドーナツを食べなければならない。だって、明日も明後日もその先も、賢者はミスラに添い寝をしてやらなければならないし、愛おしげな声で「晶」と名前を呼ばれ続けるのだから。