献身

 献身。彼のそれを目にするたびに、俺はいつも戸惑ってしまう。彼は見返りを求めない。下心も感じられない。だからこそ俺は戸惑い、困ってしまう。だって、俺の方はむしろ、下心を持って彼に接しているのだから。
 手放したくない、と強く思った。誰かに渡したくないとも。馬鹿らしい。そもそもとして、彼は俺のものではない。あの子は俺に尽くしてくれる。そして俺以外の魔法使いたちに対しても。あの子にとって俺は特別な存在じゃない。俺の方だけだ。あの子とセックスする妄想をして無様に吐精しているのは。

 初夏の昼間。廊下の隅に、あの子が立っているのを見つけた。窓から外を眺めている。角度からして、中庭を見下ろしているのだろうか。
 「賢者様」と声をかけると、彼はこちらを振り向いて、にこりと笑いながら「フィガロ」と言った。この子は俺のことを、善いもの、美しいもののように見てくれる。正確には、俺だけじゃなくてここに住む魔法使い全員を。
「なに見てるの」
「猫がいるんです」
 ほら、と彼が指をさす。彼の言う通り、茶色いぶち柄の猫が一匹、中庭の隅にいた。けれど、ここからだと随分高さがあるせいで、小指の先より小さく見える。
「下に降りて、会いに行ってあげればいのに。撫でてあげたらきっと喜ぶよ」
 そう聞くと、彼は弱弱しく首を振った。
「前に撫でようと思って近づいたら、逃げちゃったんです。たぶん好かれてないんだと思います」
「だから、ここで見てるの?」
「はい」
「えらいね」
 本心からそう口にした。えらいね。俺にはできそうもないよ。好きな人をきちんと気遣ってあげるなんて。
 しばらくの間、二人で猫を眺めていた。あんまりにも距離があるので、その猫が小さく身を揺すっていても、毛づくろいをしているのか何かにじゃれついてるのか、それさえ分からなかった。けれど、賢者様は楽しそうにそれを見ていた。俺は、近くにある彼のうなじや耳の後ろをじっと眺めていた。柔らかそうだな、とか、口に含んだら汗の味がしそうだな、とかそういうことを思いながら。
 その時、自分が何を思ってそれを行動に移したのか、うまく思い出すことができなかった。ただ、気が付いたら手を伸ばしていた。こちらに背を向けて立つ彼の、両脇の下から腕を通して、ぬいぐるみかなにかの様に彼の体を抱き寄せた。
「フィガロ?」
 俺の胸からお腹にかけて、彼の背中が密着する。体温の高い、子供みたいな体。奇妙なほどに彼はこちらを警戒してなかった。抱き寄せても尚、からだをこわばらせることさえせずに、ぼんやりと身を任せている。
「あの」
 もう一度彼がそう訊ねて、ようやく不審そうに様子を伺い始めたのが分かった。「ごめんね」と彼の肩口に鼻先を埋めながら口にした。
「もう少し、このままでいさせて」
 そう言うと、彼が体の力を抜いた。安堵したみたいに。無防備に身を預けてくる。俺にはそれが不思議で仕方がなかった。俺が今ここでこの子を突き飛ばして組み敷いて、レイプする可能性を頭に思い浮かべることはないのだろうか。この子は俺を信用しすぎている。
「俺の部屋とかに移動しますか?」
 おそらく人目を気にしての言葉なのだろう。返事の代わりに、顔を埋めたまま左右に首を振った。
 彼の体は、服越しだというのにひどく柔らかい。この子がちゃんと男の体をしていることを、俺は知っているはずなのに。自分の手足も胴も、彼の中に沈み込んでいくような気がした。

「もし、好きな人が自分以外と結婚したらさ、賢者様はその子に何かしたりする?」
 ある日、二人で散歩をしながら、そう訊ねてみたことがある。その日もやっぱり日差しが強く降り注いでいて、日なたと日陰の境目がくっきりと表れていた。
「何かって、どんなことですか?」
「奪い返しに行くとか」
「できませんよ、そんなの」
 彼は困ったように笑っていた。
「結婚式に呼ばれたら行きますし、もし道端でばったり会ったら、結婚おめでとうくらいは言いますけど。多分、そのくらいです」
「ふうん」
 木漏れ日が、彼の顔に落ちている。白く照らされた顔の上に。くっきりと濃い影の輪郭が、光の反射のせいか細く虹色を帯びている。木漏れ日さえ、彼に触れたいと思うのだろうか。
「あとは、まあ、その人に健康でいて欲しいですね」
「健康かあ」
「はい。大事なことだと思うので」
 俺はどうだろう。彼の言葉を嚙みしめながら考える。たぶん「健康でいて欲しい」なんて考えられない。
(俺のことを考えていて欲しい)
 自分ならそう願うだろう。俺以外のものになっても、俺のことを考えて欲しい。想いを寄せていて欲しい。それができないなら、俺はきっと彼が誰かのものになる事実に耐えられないだろう。彼が俺以外と幸せになること。それはつまり、賢者様の人生には俺は不必要だったって証明になるだろうから。
「フィガロ、大丈夫ですか?」
 そう声をかけられて、我に返る。
「もしかして、具合でも悪くなったんじゃ」
 こちらを覗き込む、子供みたいな顔。それを見て、俺は大丈夫だよって答える代わりに「君は陽の下が似合うね」と言った。

 夏は日が沈むのが遅い。しかし遅い分、夜の濃度が凝縮されているように感じる。冷えた空気の中で、ベンチに腰かけていた。
 自分の背後、少し遠くで、誰かが通りかかる気配を感じた。神経を研ぎ澄ませる。あの子だ、とすぐに分かった。こっちに気づいて一瞬立ち止まって、そのまま立ち去るかと思ったら、そろそろと近づいてきた。
「フィガロ?」
 少しひそめた声だった。もし俺が眠っていたら、とでも気を遣ったのだろうか。
「なあに」
 返事をしながら振り返ると、彼はほっとしたような顔をした。
「寒くありませんか?風邪をひいちゃいますよ」
「寒いって言ったら、前みたいに抱きしめてくれる?」
「フィガロがそう望むなら」
 屈託なく彼が言う。俺は少し考えた。考えた末に、「来て」と言った。
 賢者様が隣に座る。それから俺を抱き寄せた。流れるように、頬を彼の首筋に埋めた。俺の方が背が高いから、少し縮こまるようにしてもたれかかる。彼の肌はあたたかい。いい匂いがした。瞬きすると、自分のまつげが彼の肌をくすぐるのが分かる。彼に背を撫でられながら、しばらくの間じっと目を閉じていた。
「ごめんね。こんなことさせて」
 なんだか、眠っている最中のような、奇妙な心地よさがあった。手足が鈍くしびれていく。寝言のようにそう口にすると「気にしないでください」と返される。
「甘えてばかりだね」
「そんなことありませんよ」
「だって事実だろう」
「フィガロ」
 静かな声で、名前を呼ばれた。静かで、穏やかで、身を貫くような、奇妙な甘やかさを持った声。
「俺は、フィガロにこういうことをするのが好きですよ」
 ゆっくりと、意識が浮上するのが分かった。ゆっくり?いや、瞬間的にかもしれない。脳の後ろ側が、焼き切れていくような熱。
 目を閉じたまま手探りで、彼の胸元に触れた。ジャケットと、ベストと、指先に触れたネクタイが、押されて皺を作る感触。薄いシャツ越しに触れる体は、頬や手指を触るより、ずっと禁忌めいているように感じた。「賢者様」と俺は呼んだ。かすれた声だった。
「はい」
「俺のことは好き?」
 目を閉じて、鎖骨に頬を埋めたまま聞いた。彼が小さく笑うのが分かった。
「好きですよ、フィガロ」
「健康でいて欲しい?」
 今度は、あからさまに肩を揺らして笑っていた。以前の会話を指しているのだと、理解したらしい。
「はい。元気でいて欲しいです」
 首筋に埋めていた頬を浮かせる。目を開けた。それに気づいた彼が、同じようにこちらを見た。視線がまじりあう。紙切れ数枚分の距離で。墨色の目が、俺を見ていた。この魔法舎にいる誰のものとも違う色。彼の目に映る、自分の瞳を想像する。薄いみどりを含んだ、灰色を帯びた目。
「賢者様は、俺の何になりたいの」
 この中庭に立ち込める、夜露の匂いに今初めて気がついた。しっとりと濡れた、草木と土の匂い。俺は彼の返答を待った。彼はちゃんと答えてくれた。目を伏せながら。
「……すみません、分からないです」
「わからない?」
 思わず、馬鹿みたいにそう繰り返した。浮かび上がろうとしていた輪郭が、急に朧気になったようだった。もしくは、霧の奥に隠れてしまったかのように。
「好きって言って、こうやって抱きしめてくれてるのに」
「……」
「それでも分からないんだ」
「……すみません。でも、あなたにどうなって欲しいかは、分かります」
 彼が顔を上げる。視線がもう一度、交わった。この子のこんな表情を、俺は見たことがあるような気がした。自分の言葉が相手にきちんと届くようにと、祈っている表情。多分、今みたいな静かな夜に「あなたの仕事をしましょう」「俺と部屋に行って、温かいお茶を飲むんです」と言った時に浮かべていた、あの。
「あなたがこれから先、つらい思いをしないでいて欲しいです。少しでも、悲しかったり、寂しい思いをしないで済むように……」
「……」
「俺がフィガロの何になりたいかは分かりません。お友達なのか、それ以外のものなのか。でも、フィガロがつらい時に、それを取り除ける役目があるなら、俺はそれになりたいです」
 気づいた時には、目を伏せていた。そのまま、彼の胸に額を押し付ける。抱きしめ直す腕の感触。
「……ずっとこうしていたいな」
「しますよ。フィガロが満足するまで」
「できないよ」
「言ってくれたら、いつでもぎゅってしに行きます」
「君はいつか帰るんでしょ」
 腕がゆるんだ。波が引いていくように、この体温が自分のもとから消えていくのを想像した。
「ねえ、もし君がこの世界で死んじゃったら、俺が死体をもらっていい?」
「死体を……」
「君の死体をずっと腐らないようにして、寂しくなったら君を抱いて寝るんだよ」
 彼がふっと微笑むのが分かった。聞き分けのない小さな子供を前にしたように。
「いいですよ。フィガロ。そうしたら、ちょっとでも寂しい気持ちが無くなるんでしょう」
「うん」
「そうしましょう。俺も、もしそうなったらうれしいです。死んじゃった後もフィガロを元気づけられるから」
「うん」
「でも、この世界で死んじゃったらの話ですよ?」
「俺は君が好きだよ」
「……知ってます」
「君が俺以外のものになるのは嫌だ」
 彼の手がそっと俺を支え直す。夜が深い。冷えた風が、頬や首筋を撫でていくのが分かる。もし月に匂いがあるならば、この中庭にむせ返るほど充満していることだろう。今夜のことを、魔法で忘れさせることもできるはずだ。でも、俺はきっとそれをしないのだろうと思った。