「自分は一人ぼっちなんじゃないかと感じます」
とある手紙の書き出しは、こんな風に始まっていた。
「おれは、家族もこきょうも元の世界においてきてしまいました。元の世界に帰る方法は、まだ分かりません。この世界でくらしてると、ときどきすごくさびしくなります。みんなそれを感じ取って、おれにやさしくしてくれます。でもだからこそさびしいです。自分はお客さんみたいだと感じます。お客さんなら、帰る家があるけれど、おれは帰れるか分かりません。ごめんなさい。こんなことを教えられるのはフィガロだけです」
この手紙を、晶は二度三度と繰り返し読んだ。字は丁寧だが、文章の作り方はひどく平坦で、まるで子供が書いたかのようだ。このつたない文章の中に、言葉として表せなかった感情がこの書き手にはいくつもあるのだろう。そう思わせるものがその手紙にはあった。
晶は便箋の一番下に書かれた、差出人の名前を見る。賢者。そこにはそう書かれていた。晶は不思議な気持ちになる。まるで知らない人みたいだ。この手紙を書いたのが過去の自分だと知っていても、他人が書いた物のようだと、どこかぼんやりとそう思ったのだ。
晶は療養という名目で、南の国にあるフィガロの家に、ずいぶん長いこと居候させてもらっている。ここでの生活はひどく穏やかだ。
朝起きて、畑に水やりをする。掃除と洗濯をする。近くの森へきのこや木の実を摘みにいく。枯れ枝を拾って、洗濯物を取り込む。三度の食事は、畑でとれた野菜やきのこ、時々近所の人から貰う卵や牛乳を使って済ませている。余った野菜は乾かして保存食にする。時間が余れば、町の方へ出かけたり、字の勉強をしたりする。そうやって毎日を過ごしていた。
フィガロがこの家にいる時間と、魔法舎にいる時間は半分ずつくらいだ。魔法舎。そこが何をする場所なのか晶はあまり分かっていない。ただ、自分が倒れていた場所だというのは知っている。
月の大きい、嵐の夜。晶は魔法舎の近くに倒れていた。優しい人たちが彼を見つけて助けてくれた。彼らが皆魔法使いであることを、晶は後になって知った。記憶がなく、読み書きもつたない彼に対し、魔法使いたちは親切だった。
中央の王子様の手を借りて、晶の家族や親戚を探したが、名乗り出る者はいなかった。彼はこの世界で一人きりだった。それを、フィガロが引き取った。晶と入れ違いに、賢者と呼ばれる人間が魔法舎に住むようになったらしい。そういう風にして、彼はここに居るのだった。
ずいぶん深く眠っていたらしい。心地よい痺れが頭の奥に残っている。晶が目を覚ましたのは、頭を撫でる優しい手の感触によってだった。
フィガロが枕元に立っていた。片手にマグカップを持っている。雨の気配で満たされた室内に、コーヒーの匂いが漂う。晶が飛び起きると、彼はいたずらっぽく笑ってこう言った。
「あれ、起きちゃった」
フィガロはすでに、寝間着ではなく普段着に着替え終わっている。彼は昨日、不在だったはずだ。晶はくしゃくしゃに乱れた髪のまま、フィガロを見上げた。
「フィガロ……いつから来てたんですか?」
「ん?昨日の夜。思ってたより早く手が空いたから、夜中にほうきを飛ばしてね」
俺がいるからって、まだ寝ててもいいんだよ。コーヒーを一口飲んでフィガロが言う。かすかに聞こえる雨音。淡く陰った部屋。
「もしかして、もう朝ごはん食べちゃいましたか?」
「うん」
それを聞いて、晶がうつむく。寝起きで少しむくんだ顔は、まるで子供のようだ。どうしたの、と聞くフィガロに晶が答える。
「ごちそう、作ってあげようと思ってたんです」
今度フィガロが来た時のために、卵もバターも、大きくてみずみずしい桃もとっておいてたのだ。勿論ごちそうといっても、店で食べるような食事よりもずいぶん質素なものになるだろうが。拗ねた幼子のような声に、フィガロは思わず吹き出した。
「可愛い子」
「……」
「じゃあ、ごちそうはお昼に作ってよ。それならいいでしょ?」
「……はい」
晶は素直に頷いてみせたが、内心は未だ納得いってないようだった。だって、本当は朝も昼も夜もおいしいものを作ってあげようとしていたのに。
「ひと口飲む?」
差し出されたマグカップを、晶は両手で受け取った。口に含むと、あたたかい液体が、心地よく胃を満たしていくのが分かった。
雨は、午後になっても続いていた。雨が降ると晶ができることは限られてくる。今日は、鍋や食器を煮沸消毒したり、細かいところの掃除をして過ごした。棚の中から、薬品瓶を取り出しては乾いた布で埃を拭っていった。それが終わったら、フィガロとずっとくっついていた。二人掛けのソファーに並んで座る。隙間なく、ぴったりと。
「雨、やみませんね」
窓がカタカタと揺れている。雨だけでなく、風も勢いを増している。もしかしたら、小さな嵐が来ているのかもしれない。フィガロは「うん」と頷いた後にこう付け加えた。
「俺がそうしたんだよ」
「え?」
晶が驚いて彼を見上げると、穏やかな微笑がこちらを見つめていた。
「だって、晴れてたらあんまりそばにいてくれないだろう?」
「そんなことありませんよ」
「嘘。畑とか庭とかの手入ればっかりしてる」
それは、その通りかもしれない。晶は少し申し訳ない気持ちになった。それと同時に、本当に雨を呼び寄せられるのだろうか、とも思う。フィガロが魔法使いだということは知っている。けれど、魔法でどれくらいのことができるのか、晶は理解していない。ただの冗談な可能性もある。
「それにさ、こうやって閉じ込めておかないと、どこかに居なくなっちゃいそうなんだもん」
晶はほんの少し驚いた。一体どこに自分が行くというのだろう。彼の生活のほとんどは、この家とその周囲だけで占められている。フィガロ以外に、頼れる人も居ない。
「どこにも行きませんよ」
「本当?」
「本当です」
「ふふ」
フィガロが頭を擦り寄せてくる。甘えたな猫のように。柔らかい髪が擦り付けられて、くすぐったさに晶が首をすくめている中、静かな声でフィガロが囁いた。
「居なくなったら、許さないからね」
許さない?晶は不思議な気持ちになる。「心配するよ」とか「寂しいよ」とかじゃなくて「許さない」なのだろうか。違和感を抱きつつも、それを言語化する術は無い。晶はただ黙って、フィガロに応えるように身を擦り寄せた。
「君が書いた手紙だよ」
そう言って、何通もの手紙を見せられても、晶はちっとも実感が湧かなかった。青いクッキー缶に仕舞われた、白い便箋たち。この家で暮らし始めてからしばらくして、フィガロにそれを教えられた。
「筆跡と、書かれてる内容からして、多分君のものなんだろう。魔法舎の空き部屋を探ったら、俺が書いた返事らしきものも見つかった。俺にその記憶は無いけどね」
晶は再度、手の中の便箋たちを眺めた。書かれている内容に目を通しても、やはり身に覚えがない。フィガロは、いつからこの手紙の存在に気がついていたのだろうか。晶がこの家で暮らし始める前?それなら、色んなことに説明がつく。この手紙でお互いの関係を知って、フィガロが家に引き取ったのだろう。
晶は、指先から体温が失われていくような気がした。抑え込むべきものが、ふつふつと内側から溢れていく。
「フィガロは、仕方なく俺を引き取ったんですか」
「うん?」
吐き出した声は、自分でもびっくりするくらい弱々しい物だった。フィガロと目を合わせることもできず、晶は続ける。
「この手紙を見て、責任感から、俺をこの家に連れてきたんですか……?」
晶は記憶も無く、家族も親戚も見つからなかった。何も分からない世界で、一人ぼっちで生きていくしかなかったところを、フィガロが手を差し伸べてくれたのだ。しかしその行為が、義務や責任によるものだったら?
フィガロは優しいから。完全な善意から、自分を気にかけてくれたのだと晶は思い込んでいた。しかし実際はどうだろう。記憶は無いけれど、自分はこの子と関わりがあったのだからと、仕方なしに晶を連れ帰ったのかもしれない。もしそうなら、今すぐここを出て行きたいくらい申し訳なかった。フィガロの内心がどうであれ、迷惑をかけているのは同じだとは理解しているものの、彼に甘えてぬくぬくと暮らしている自分の姿が、ひどく恥ずかしくて堪らなかった。
晶の目に、うっすらと涙の膜が張られていく。それが零れ落ちていこうとした瞬間に、フィガロの穏やかな声がそれを押しとどめた。
「違うよ」
晶の胸がどくりと鳴る。
「責任感なんかじゃない」
彼はおそるおそるフィガロを見上げた。フィガロは笑っていた。どこか場違いにも思えるほど、無邪気な笑みを浮かべていた。今この瞬間が楽しくて堪らないという風に。
「本当だよ。確かめてみる?」
そう言って、少し悪戯っぽく片目を閉じてみせた。確かめようがない事なのは二人ともちゃんと分かっている。晶は、泣き笑いのように小さな笑みを浮かべた。「いいえ」とフィガロに返す。本心は分からないけれど、フィガロは確かに、今ここで否定してくれたのだ。わだかまりが残らないように、冗談めかして返してくれた彼を、ひどく優しいと晶は思った。
「ああ、でもね、責任感じゃないけど、打算はあるかもしれない」
「打算?」
「そう」
ニコニコと、やはり無邪気にフィガロは頷く。
「ここに書かれているくらいの関係に、君となれたらいいなって思ってた」
書かれているくらいの関係。ざっと目を通しただけの手紙の内容を、晶は頭に思い浮かべる。「こんなことを教えられるのはフィガロだけです」と手紙の中の自分は書いていた。しかしだからといって、彼と距離が近いようにはあまり思えなかった。友人とか、家族とかの対等な関係性ではない。縋りつく者と、縋られている者のように晶には思えた。「それとね、」とフィガロが続ける。
「もしできたら、それ以上の関係になりたいんだ。そこに書かれてる以上の、ね」
この手紙はここに置いておくからね、と青いクッキー缶を戸棚の上に置きながらフィガロは言った。好きな時にいつでも読み返していいから、と。
晶はそれ以降、何度か手紙を読み返した。しかしそれでも、自分が書いたものであるという実感が持てないままだった。
雨が強く降り続いている。窓に叩きつけられる雨音は、ひどく不安定で、不規則だ。少し早いけれど、とフィガロが暖炉に火をつけた。外との温度差で、窓が白く曇っていく。閉じ込められているみたいだ、と晶は思った。
いつものように、二人はソファーに並んで座っていた。くっついて、お喋りをして。そして不意に、晶は涙をこぼした。ひどい言葉を言われた訳でも、傷つけられた訳でもないのに。フィガロは「どうしたの」と言ってその涙を拭った。
「もしかして、寂しかった?」
ここ数日、フィガロは帰ってきていなかった。晶は首を横に振る。それが理由ではなかった。フィガロの不在によって、確かに晶は空虚さのようなものを感じていた。しかし直接的な原因はそれではなかった。「最近、よく思うんです」と晶が切り出す。
「俺には、フィガロしかいないんじゃないかって」
晶の喉が、渇きを訴える。それは暖かく乾いた室内のせいではなく、泣いている時特有のものであると自覚していた。
「自分は一人ぼっちなんじゃないかと感じます」と手紙の中の彼は言っていた。しかし今の晶は、一人ぼっちですらなかった。自分というものを、今の彼は持っていない。
「薄情だと思うかもしれないんですけど、俺は自分の家族に、会いたいとも思えないんです」
だって、会ったとして何ができるだろう。以前の晶は、家族のもとへ帰りたいと思っていた。今は違う。家族に愛されていた記憶や、かけられた言葉や信頼を彼は覚えていないから。
記憶を無くした晶には、何も無い。何がしたいのか、どうなりたいのか。それすらも分からない。「自分」すら持っていないのだ。
「だから、俺にはフィガロだけなんです」
懺悔のようにそう吐き出しながら、この言葉を、フィガロが否定してくれることを期待していた。そんなことない。君はちゃんと自分を持ってる。いつか帰るべき場所に帰れるよ。ご両親だって、きっと君のことを――。
「そうだよ」
楽しそうな声だった。晶は顔を上げた。フィガロを真正面から見つめ返す。
「君には俺しか居ないんだよ。嬉しいな。ようやく分かってくれたんだ……」
熱を帯びた声が、息をつく間もなく続ける。穏やかな、囁くような声であるのに、その底には受け止めるべきではないものが渦巻いている。
晶の視界は涙で滲んでいた。フィガロの表情は分からない。けれど、自分が望んでいた表情はそこに無いのだろうと彼は感じた。
「ねえ、気づいてた?君は、俺が望むもの全てを、与えてくれているんだ。全てだよ。びっくりするだろう?俺のためだけの存在なんだ」
自分の頭の中が、ゆっくりと、鈍く痺れていくのを晶は感じた。今この人には、自分がどう見えている?暖房で赤く火照った頬に、涙の跡がついているのだろう。丸い目が、じっと彼を見上げているはずだ。その瞳の中に、明らかな畏怖が浮かんでいることを、フィガロは気づいていないのだろうか。
音も無く、白い手に頬を包み込まれる。フィガロの指先は、普段よりも熱を帯びているように思えた。
「ね、キスしようか」
晶はほんの一瞬だけ、フィガロをじっと見つめた。そして諦めたかのように、無言で頷く。潤んだ視界の中で、フィガロの唇が明らかな笑みの形を描いていることだけが分かった。
雨の音が遠い。窓が曇って、外界がどうなっているかが晶には分からない。閉じ込められているようだ。ほんの数分前にそう思った。
今は違う。切り離されているみたいだ。フィガロと、それ以外の世界の全てから。唇が塞がれて、熱い舌が割り込んでくる。晶は目を閉じた。何も考えないようにした。ねじ込まれた自分以外の熱に、全てを預けていたいと思った。