魔性

「変わった人なの」
 と、前もって姪に教えられていた。
「でも、全然嫌な感じはしなくてね、なんていうか、優しくていい人なんだよ」
 そう言われても、イメージが全く沸かなかった。そもそもとして姪自体が、自分の友人であればどんな相手であろうと悪くは言いそうにないので、それもイメージの疎外を手伝ったのかもしれない。そして今、その「変わった人」が目の前にいる。
「改めまして、これからよろしくお願いします。ムリナール・ニアールさん」
 少年のような体格だった。厚く着込んだ防護服の上からでもそれが分かる。フードを脱いでフェイスシールドを外しているため、素顔が無防備に晒されていた。口元は襟と固定具で隠されているものの、それ以外はすべて見えている。大きな目だ。長いまつ毛に縁どられている。
「ムリナールさん?」
「いえ、こちらこそよろしくお願いします」
 握手を交わす。以前仕事のために会った時は、内面を知るほどまでいかなかった。
 印象的な目だ。妙にこちらをじっと覗き込んでくる。一瞬も目を逸らそうとしない。しかしそれを、気まずいとも不躾だとも思わないのが不思議だった。例えるなら、ウサギや犬に見つめられているようなものだろうか。その視線にこちらへの悪意や詮索が含まれていないと理解しているからこそ、不快に思わないのと似ている。
「今からオペレーターにロドスを案内させますから、それが終わったらお部屋で休まれるか、ご自分でロドスを見て廻ってもいいと思います。これから数日は着任日まで休みになりますので」
 そう言い終わると、彼はフードとシールドを付け直してしまった。顔合わせのために外しただけだったらしい。彼が手を挙げて、少し離れた場所にいる若いオペレーターを呼びつける。彼が案内を任されているようだ。
「……あなたが案内してはくれないのですか?」
「え?」
 ドクターがこちらを見上げる。やけに子供じみた仕草だった。
「私がですか?」
 少し笑みを含んだ声でそう聞き返された。シールド越しなため、表情がうまく読み取れない。そばに来たオペレーターが慌てて口を挟む。
「だめですよ!ドクターは仕事が溜まってるんですから」
「ムリナール氏が望むなら、私は別に構わないけど」
「ダメですってば!それにおれ、あのニアール家の方の案内を任されるっていうから、この日のために張り切ってシミュレーションしておいたんですよ!」
 必死に主張するオペレーターの姿に、ドクターが僅かに肩を揺らして笑う。そしてこちらに向き直った。心持ち首を傾げている。上目遣いにこちらを見上げている、のだろうか。
「だ、そうですので。私も非常に残念なのですが……」
「いえ、こちらこそ勝手を言って申し訳ありません」

 艦内の紹介が終わった後、自室のある階を見て回ることにした。配布された端末を使えば、ロドスの見取り図をいつでも見ることができる。それを参考に足を進めながら、ぼんやりと彼のことを考えていた。
 奇妙な感覚だった。肌の下を、やわらかい何かが這いまわっているような気さえした。あの目に見つめられただけで。自分は人の顔には特別興味を覚えない性質だったはずだ。女を抱く機会があった時でさえ、この女の顔が埴輪だったとしても、自分は特別落胆しないだろうと思っていたほどなのに。それとも、姪の言う「変わった人」というのは、これを指しているのだろうか?
 ドクターと対峙した時の感覚を、うまく言語化できない。喉元までその単語が出かかっているのに。ああいう男を、もし言い表すならば──
「魔性だよ、魔性」
 ぞわ、と耳の裏の毛並みが逆立つ。軽薄そうな、若い男の声だった。胸のうちを見透かされたのかと咄嗟に思う。見ると、廊下の奥でオペレーターが二人、立ち話をしていた。片方は手に缶コーヒーを持っている。コーヒーを一口飲んで、男が口を開く。どうやら先ほどの言葉も、この男の方が言ったものらしかった。
「ドクターはさ、どうやっても引きつけちゃうんだよ。ああいう男を」
「ああいう男って、シルバーアッシュ家のご当主さま?」
「まあ、それもそうだし、それ以外にも」
 シルバーアッシュ、という名前に鳥肌が立つ。面識はない。けれど仕事をするうえで何度も目にしてきた名前だった。巨大な貿易企業を有していて、恵まれた容姿と不遜な態度を持つ男。あんな男まで、ドクターに付きまとっているのか。
「ああいう、腕っぷしが強くて、背が高くて、顔も良くて、なのに病んでるっていうか……思い込みの激しい男にばっかり好かれるんだよ」
「へええ」
「だからさ、一部のオペレーター間で、できるだけ気を遣うようにしてんだよ。ドクターとそういう奴らが二人きりにならないようにシフトに入ったりしてな。あと俺は医療部だから、体調を診に来たって理由をつけて執務室に行ったり」
「大変だなあ。お前ら内勤勢も」
 長々と話していた男が、コーヒーをまた一口すする。この男の愚痴、もしくは雑談に同僚が付き合っている状況らしい。
「俺もさ、ドクターのことは好きだよ?いや、変な意味じゃなくてね。優しいし、怒鳴ったりしないし、俺のこと悪く思ってないんだろうなって感じるからさ。でもだからって、ドクターに迷惑かけてまで付きまといたいなんて思わないだろ?」
「まあ、それが普通だよな」
「この前なんかさあ、ドクターが資料室で、シルバーアッシュに押し倒されてるところを見たって同僚が言っててさ」
「うわ」
「棚が揺れて本が落ちてきそうだったから、ドクターを庇っただけだってその場で説明されたらしいけど、そいつはもう不安になっちゃってさ。ドクターになんかあったらまずいだろ?今すぐ二人ともケルシー先生のところに連れてって身体検査させようって話になったんだけど、ドクターが大事にしたくないからって取りやめになってさあ。まあ着衣も乱れてなかったから本当に何もなかったのかもしれないけど」
「大変だなあ」
 喋り終えて満足したのか、男の話はそこでいったん区切られた。しかし終わるかと思いきや、打って変わって声を少しひそめ、こう切り出す。
「なあ、今日ロドスに来た人もさ、『そういう』類の人じゃなかったか?」
「あ~~~~背の高い、クランタ属の?」
「そう!」
「いや、ちゃんと見てなかったから分からないけど。でもなんか揉めてなかったか?オペ班が止めててさ」
「そうなんだよ!ほら、カジミエーシュの、ムリナ―……」
 言い終わる前に、男の口は閉ざされた。こちらの存在に気づいたからだ。沈黙が落ちる。こちらから軽く会釈をすると、向こうも慌てて頭を下げた。その二人に対し、特別それ以上の興味は湧かなかったので、踵を返してその場を去った。歩きながら端末を開く。しばらく操作していると、目当ての画面を探し出すことができた。

 執務室のドアをノックした。思い描いていた通りの声が返ってくる。ドアを開け、室内に踏み入った。
「ムリナールさん」
 書類の散らばった机に、ドクターが腰かけている。秘書の姿は見当たらない。部屋に入る前からそうだろうと分かっていた。端末内の共有勤務表を見れば、彼に秘書がついていない日だとすぐに分かる。きっと二人きりになるはずだ、と。
「どうされました?着いて早々この部屋に……」
「敬語は使わなくていい」
 彼の言葉を遮った。
「その代わり、私もこの話し方で通させてもらう。マリアとマーガレットもお前に対してそうだと聞いた」
 ドクターが、机に座ったままこちらを見る。フェイスシールド越しに、あの大きな目がこちらを見つめているのだろうか。そう思うだけでぞくぞくした。
「なるほど」
 ドクターはゆったりとした仕草で、机の上で手を組み合わせた。
「じゃあ、君の言う通りにしよう。ムリナール」
 自分よりずっと上背のある男を、「君」と呼ぶのか、この男は。
 机を挟んですぐ目の前まで距離を詰める。許可を得ないまま、彼のフードを外した。やらかそうな髪だ。次いでシールドを剥がした。目と、鼻梁があらわになる。ドクターは抵抗しない。手を組み合わせたまま、こちらをじっと見上げている。襟元を強引に下ろした。口元が晒される。小さな唇だった。
「──」
「なにか?」
 どこか、打ちのめされたような気持ちで彼を見下ろす。その、長いまつ毛も、少女じみた鼻梁も、小ぶりな唇も、魔性と呼ぶのにふさわしいものに思えた。
「魔性、と呼ばれているのを聞いた」
「……私が?」
「ええ」
「誰に?」
「当ててみたらどうだ」
「シルバーアッシュ?」
「そう思うか?」
 ドクターは肩をすくめた。「聞いたのはそっちだろう」と言いたげな表情で。
「魔性と呼ばれている男に、姪を預けるのは気に障りますか」
「マリアのことは関係ない」
「言い訳させてもらうけど、そう噂されているのが事実だとして、私が意図的にそう捉えられるような振る舞いをしていたかというと答えはNOだよ」
 予想していた通りの答えだった。誰だってこう答えるだろう。無実の人間も犯罪者も、釈明する時は同じことを言う。
「ニアール家の君なら分かるだろうけど、人の口というものはどんな風にだって吹聴することができる。オペレーターたちが善意で私の世話を焼いていても、私がたぶらかしているんだと言いふらすことは可能だろう」
「……」
「けれど、私と知り合ったばかりの君にとって、私一人の釈明より、数人の口から語られる噂話の方が信頼できるのはその通りだろうね」
 立ち聞きをしたあの時、胸を満たしていた感情はなんだったのだろう。この男の素顔を目にした瞬間、自分は確かに魅入られたのだ。そして、これから先の生活で何かを期待した。胸がざわついたのだ。しかしそれが──そうなるようドクターが意図的に振舞ったのだとしたら、あのように心を動かした自分のことを、恥ずかしいと思った。ひどく愚かで下品な男だ、とも。
「いや……」
 頭に上っていた熱が、急速に冷めていくのを感じた。
「……私が悪かった。申し訳ない。気がおかしくなっていた」
 子どものような外見をしたこの男が、意図をもって自分を誘惑したなんて、ほとんど被害妄想じみている。そしてそれが事実だったとして、自分は何をするつもりだったのだろう。口汚く糾弾したか、顔を殴りでもしたか。それでこの男が少しでも傷ついた顔をしてみせたら、気持ちが晴れたのだろうか?
「謝ることはないよ。新しい職場で変な噂を聞いて、それに動揺するのは普通のことだ」
 その通りかもしれない。しかし自分が聞きたかったのは、そういう道徳的な慰めではなかったような気がする。「耳が垂れてる」と指をさして彼が言う。触って確かめようとしたが、腕を持ち上げる途中でやめた。
「ちょうどいい。せっかく来てくれたんだ。ひとつゲームをしよう」
「ゲーム」
「身構えなくていいよ。じゃんけんみたいなものだ」
 ドクターが机の下に両手を入れて何かをしている。数秒もしないうちに腕が引き抜かれた。白い手だ。手袋を脱いだらしい。立ちあがった彼と向かい合う。握りこぶしを作った両手が、胸の前に掲げられた。
「右と左、どっちがいい?」
「……」
 招き猫のように丸められた手を、無言で見つめた。飴玉か、チョコレートでも隠しているのだろうか。
「……右を」
「開けてみて」
 請われるまま、彼の手を開こうとした。しかし思いのほか強く握られていることに気づく。こちらも指先に力を込め、無理やり指を引き剥がした。すると、まるで抵抗するように、剝がした指が絡みついてくる。手袋をはめた自身の指と指の隙間に、白い指がもぐりこんでくる。手のひら同士がぺたりと重なり、指がかけ合わさるように絡み合った。
「……」
 つないだ手を見る。その手から何かがこぼれ落ちた気配はない。もう片方の手に視線をやった。待ち構えていたように、ドクターが握っていた手を開く。そこにもやはり何も無い。
「残念でした」
 茶化すように開いたり握ったりしてみせる。そうしながら彼は「マリアと同じだ」と言った。
「マリアと?」
「うん。マーガレットは違った。最初に何を隠しているのか尋ねてきた。『何も持ってない』と教えたけど、彼女は結局、手を開けさせて確かめた」
 だから、今度ふたりとお喋りする時は、話のタネにでもしなよ。彼はそう付け加える。私はつないだ手を見つめ続けた。
「もしかして、気に障ったかい」
「いいや」
「そう?本当に怒ったなら言って欲しいんだけど」
「気を利かせたのだろう?私と、あの姪たちのために。レクリエーションじみたことまでやって」
「レクリエーションというほどのものでもないけど」
 絡めた指を、彼が引き抜こうとしているのが分かった。離れるな、と念じた。もちろん効くわけもなく、白い指はなめらかな感触を残して去っていった。声が掠れそうなほどの喉の渇きを感じた。
「これから……」
「うん?」
「ロドスでの生活が楽しみだ」
「そう」
「有意義な毎日を送れるだろう」
「そんなに?」
 前職よりはって意味?ああ、でも、嬉しいな。ドクターがそう言って笑う。しかしその表情の細部までは目視できない。薄暗いフェイスシールドの奥を覗き込む。まつ毛も鼻梁も、あの大きな目も不明瞭にしか見えない。あの唇や目元が、笑みを描いているのを頭の中で想像した。自分以外の誰かがその笑顔を目にするかもしれないなら、今すぐにでもその小さな頭蓋骨を片手で握りつぶしてやりたいと思った。