「お兄ちゃんもそろそろ、兄弟離れしなきゃね」
そう妹に言われたのは、およそ一年前のことだっただろうか。思いがけない提案だった。
実の妹にそう言われたこと自体が衝撃であったけど、それ以上に、彼女らと離れる必要性なんてどこにも無いと思っていたから。兄である自分と、妹と弟。この三人でいつまでも助け合って暮らしていくものだと思い込んでいた。
それから一ヶ月もしないうちに、アパートを借りて一人暮らしを始めた。二人の元を離れたって、いつでも自立できるのだと証明したかったのかもしれない。そうすることで妹を安心させることができる。同時に、自分自身もなぜだか安堵を感じていた。今まで知らずにいた傷跡を、突然指摘されたような、奇妙な居心地の悪さがずっと胸の内に張りついていた。
「リネに会いたいって言ってる人がいるんだ」
久しぶりに実家に帰った時、フレミネがそう言い出した。膝の上に乗せた、ぬいぐるみのペールスを撫でながら。自分は同じテーブルにつき、肘をつきながら紙パックのジュースを飲んでいた。内気で殻に篭りがちな彼の方から、こんな風に人を紹介されるなんてこと初めてだったので、内心驚いていた。
「へえ、同じ学部の子?」
「ううん。同じサークルの、その、先輩なんだけど」
慎重に言葉を選びながら、上目遣いでこちらの様子を窺っている。内向的な彼には珍しくもない仕草だったが、そこに普段はない後ろめたさがあるのを感じた。それですぐにピンときた。
「ふうん。フレミネが社交のためにぼくを売るようになるなんてね」
「ち、ちが……、そういうつもりはなくて……」
「分かってるよ。冗談だって」
そう返してやると、赤くなっていた顔はすぐに安堵の表情を宿した。前から思っていたけれど、この弟は年齢の割に幼過ぎる。その純真さは自分とリネットが守ってきた故のものであると分かっているが、こういうのが「イイ」と言う不審者も世の中にはいるだろうし、もう少し俗世慣れさせた方がいいのかもしれない。
「で、なんでぼくに?」
「ぼくとリネが一緒にいるところを見たことがあって、あと、インスタに写りこんでるところを見て、いいなって思ったらしくて」
「ふうん」
なんだかあまりに唐突すぎて、やましいことがあるんじゃないかと思ってしまう。もしかして、フレミネと「お近づき」になりたいがための外堀埋めなんだろうか? それとも、本当にちょっと顔を見ただけで仲良くなりたいと思った?
顔の良さを理由に近づいてくる人間がいることは、さして不思議でもない。見た目の美しさは、成績や実家の太さよりもずっと、個人のステータスに直結する要素だと思われている。特にぼく達くらいの年代には。顔の良い人間とつるんでいれば、自分の価値も上がるなんて考え方があるのが不思議だった。
「あやしいなあ。変な人だったりしない?」
「しない、と、思う。たぶん……。色んな子に好かれてて、頼りにされてる人だから……」
「はあ」
「紹介してって言われたから、一応リネに聞いただけだけで、嫌なら断っても……」
ストローから口を離すと、ジュゴ、と音が鳴ってパックが軽く膨らんだ。あやしい、という予感は拭えなかったものの、これも弟にとって社交の手助けになるかもしれない。そう思うとすぐに断るのは軽率な気がした。少し悩んで、こう聞いてみる。
「その人、TikTokやってる?」
スマホの小さな画面の中に、ハンサムな男の顔がドアップで写っている。背後にはジムのランニングマシン、「トレーニング後」のハッシュタグ付き。健康的な色をした肌と、目鼻立ちのはっきりした顔立ち。甘い、と言える容貌だった。短い黒髪が、汗で少し乱れている。彼が人懐っこそうな笑顔を浮かべただけで、女の子たちのコメントが一気に加速する。
ふうん、と思った。胡散臭い、というのが第一印象だった。けれど、人の良さそうな外面をしていれば誰だって胡散臭そうには見えるだろう。この僕だって、他人から見れば多分そうだ。
赤と黒を基調にしたランニングマシンを背景にしたのは、意識してのことだろうか? 彼の肌の色がよく際立っているし、サムネ映えする。
「リオセスリさんに似てるな」
笑った途端に甘い顔になるところとか。一人きりの四畳半で、そうぽつりと呟いた。
四畳半、バストイレ付きなのがおそらく唯一の長所な、狭苦しいアパートの中で、ホームセンターで買ったコタツに潜りながら。
一人暮らしをするまで、自分がこんな部屋で満足できる性質だとは思ってなかった。オートロック完備、部屋数の多いあのマンションは、リネットとフレミネが何不自由なく暮らせるようにと思って選んだものだった。自分一人なら、寝起きできる場所があればそれでいい。
教えてもらったアカウントの動画を次々スワイプしながら、ある予感を抱きつつあった。この男とは全く関係ない、もっと言えばぼく自身に関することだ。動画三つ見終わらないうちに、それは的中することとなる。
玄関の鍵がガチャガチャと言う音。ドアノブが回り、扉が開けられた途端に部屋が一気に騒がしくなる。
「リ〜〜〜ネくん、」
振り返らないまま、その声を背中に受けた。畳を踏む足音。見なくてもわかる。部屋の密度が一気に変わった。この人はいつもそうだ。いるだけで部屋の空気が変わる。
「何見てんだ?」
いらっしゃいもおかえりも言わずにいるのを気にもせず、そう聞いてくる。向こうだってお邪魔しますの一言もないんだから、別に失礼な態度ではないはずだ。合鍵を持っていたとしても、家主の許可なく立ち入ったのなら罪に問われるのだろうか? ふとそう思った。
ガサガサとビニール袋が置かれる音。たぶんどこかの弁当屋で買ってきたものだ。
「これ」
「うん?」
TikTokを開いたままのスマホを手渡す。受け取ろうと彼が身を屈めた途端に、薄い香水の匂いが鼻に届いた。それに混じり合った、汗の匂いも。男臭い匂いだった。自分とリネットと、フレミネだけの生活には混ざり込まなかった匂い。
前々から思っていたが、この人は何の仕事をしているんだろう。絶対に堅気ではない。スーツに黒髪ではあるけれど、営業ではないはずだ。着崩したジャケットの内側から覗く、黒いシャツの光沢は、明らかに普通の仕事には適さない鮮やかさがある。派手にセットされた髪もそうだろう。
「なんだこれ。だらしない顔した男だな。YouTuberか?」
「その人、ぼくに会いたいんだって」
「へええ?」
「紹介して欲しいって、フレミネが言われたんだってさ」
「怖いなあ」
少しも怖がっていなさそうな声で彼が言う。
「リネくん、こういう男にホイホイついていったら怖い目に遭うからやめときな」
「怖い目って、どんな」
「リネくんみたいに可愛い子だったら、まあ、シャブ打ってビデオに撮って、ソープに売ったりはするだろうなあ」
「ただの大学生なんだけど」
「こういう子どもの裏にヤクザが居るもんなんだよ。特に金回りのいい子どものそばに」
知ったような口で言った後、彼はスマホをこたつの上に投げた。こっちに返してくれればいいのに。多分わざとだろう。御機嫌ななめだ。
「じゃあ、リオセスリさんも、ぼくに会った時ソープに売りたいって思った?」
「はあ? 何言ってんだ」
「だって、ぼくが可愛いんでしょ」
体をよじって、スマホを取りながらそう言った。テーブルの上のレジ袋にはほっともっとの印字。
「おんなじヤクザみたいな人に抱かれるなら、リオセスリさんより若い方がいいや」
「は〜〜〜〜〜……」
わざとらしいため息だった。それを聞きながらほっともっとの袋を漁る。弁当が二つ。端に詰められたポテトサラダの白い表面に、唾が湧きそうになる。そういえば、紙パックのジュース以外まともなものを今日口にしていない。
「今食べていい?」
そう尋ねた瞬間に、彼の顔がすぐそばにあることに気がついた。硬い手で、顎をすくわれる。そのまま口を押し付けられた。
「ん」
貪るような口付けだった。音はさしてしなかった。それが余計に、口の中をまさぐる舌の感触を明瞭にした。
至近距離で見つめ合う。お互いに目は閉じなかった。色は薄いのに、瞳孔は黒々としている目が、こちらを覗き込んでいる。この目に見られるのが、いつも好きだった。何もかも見透かしていそうで。目から入り込んだその視線が、内側に入り込んで、体中を撫で回しているような錯覚にいつも陥る。
口を離しても、唾液の糸が二人をつないでいるようなことはなかった。この人はキスも上手だ。それ以外のことも上手いのかは、知らない。キス以上のことを許してはいないから。
「帰るわ」
投げやりに言うその声に、何故かゾクゾクした。立ち上がり、軽くジャケットを直してそのまま部屋を出ようとする。
「弁当は持って帰ってよ」
「リネくん食べ盛りだから二人分食べ切れるだろ?」
「じゃあ次来た時に食べて」
印字された賞味期限を見る。日付は明日。明日来て食べないと無駄になっちゃうよ、と暗に言う。
「リネくんがその男に会わないって返事する頃に、また来るよ」
几帳面にちゃんと鍵をかけて、安いアパートの廊下に足音を響かせながら彼は帰っていった。
「……」
膨らんでいた空気が、一気に元の冷たさを取り戻していく。なんだか何もかも嫌になって、テーブルに上半身をぺたりと伏せた。リオセスリさんとは万事こんな感じだった。急に来たかと思えばさっさと帰っていくこともある。ただの知り合いとは思えない頻度での訪問だったが、合鍵を渡した仲だと思えばむしろ少なすぎる頻度にも思える。
体を許せば、もっと気が楽になるのだろうか? 自問自答する。合鍵を渡した理由もそうだった。今日家に行っていいか、なんて毎回聞かれるのがひどく苦痛で、見えない期待をかけられているような気がした。そこから解放されたくて合鍵を渡した。悪用されるかもしれないけど、どうせこの家にいるのは自分一人だ、という気持ちで。それが今度は、セックスをするかしないかの空気に苦痛を覚えている。どこまで許されるのか、探られている空気が苦手だった。
何もかも許せば、楽になるのだろうか? 彼に全てを明け渡して、そうしてしばらく弄ばれた後に、さっさと捨てられる。その道筋がまるで未来予知みたい想像できる。実際にそうだと分かっていれば、むしろゲームみたいにこのやり取りを楽しめそうなのに。
思い出したようにスマホを手繰り寄せる。画面を見ると、さっきあの男の動画に一応しておいた「いいね」が、取り消されているのに気づいた。